第8話 毒キノコは、隣で見ると近すぎる
土曜日の午前十時。
私は、市内の植物園の入り口で一人、スマートフォンの時計を見ていた。
今日は有志の生物観察会の日だった。
昨夜まで降っていた雨のおかげで、園内ではキノコがいくつか見られるらしい。秋はキノコ観察には悪くない季節だ。
だから私は、朝から少しだけ機嫌がよかった。
――入口の向こうから、見覚えのある顔が歩いてくるまでは。
「おはよう、穂乃果」
「……なんでいるんですか」
一ノ瀬颯真は、休日だというのに妙に爽やかな笑顔で手を上げた。
「ひどくない? 会って最初の言葉がそれ?」
「質問に答えてください」
「昨日、拓翔から聞いた。穂乃果、今日ここ来るって」
「桐谷くん……」
今度会ったら問い詰めよう。
「それで、なんで一ノ瀬くんまで来るんですか」
「キノコ見に」
「昨日までキノコに興味なかったですよね」
「今日から興味持った」
「帰ってください」
「入園料もう払ったから嫌」
こういうところだけ妙に強い。
私はため息をついて、植物園の奥へ歩き始めた。
「勝手についてくるなら、邪魔だけはしないでください」
「はい、先生」
「誰が先生ですか」
「キノコ先生」
「帰ってください」
「二回目だ」
背後で楽しそうに笑う声がした。
園内は昨夜の雨で湿っていた。
木々の葉にはまだ水滴が残り、土の匂いがいつもより濃い。
遊歩道を外れないように歩きながら、私は木の根元や倒木の周辺に目を凝らした。
「あ」
思わず足を止める。
倒木の脇に、小さな茶色い傘がいくつも並んでいた。
「見つけた?」
颯真が横から覗き込んでくる。
「近いです」
「キノコ見るにはこのくらい近づかないと」
「私に近づく必要はないです」
「細かいなあ」
私はしゃがみ込んで、キノコを観察した。
「たぶん、この辺りではよく見られる種類ですね」
「食べられる?」
「第一声がそれなの、やめた方がいいですよ」
「でもキノコ見たら気になるじゃん」
「野生のキノコを見て最初に食べられるかどうか考える人は、キノコ事故への第一歩を踏み出しています」
「怖い言い方するね」
「事実です」
颯真も私の隣にしゃがみ込む。
普段なら女子に囲まれている一ノ瀬颯真が、休日の植物園で真剣な顔をしてキノコを覗き込んでいる。
妙な光景だった。
「これ、触っていい?」
「だめです」
「毒あるの?」
「種類を断定できてないので触らないでください」
「穂乃果でもわからないことあるんだ」
「ありますよ。私は専門家じゃないので」
「なんでも知ってるのかと思ってた」
「一ノ瀬くんの中で私は何者なんですか」
「キノコ博士」
「格上げされてる」
「次は教授?」
「勝手に昇進させないでください」
「じゃあ名誉教授」
「話を聞いてください」
思わず笑ってしまった。
その瞬間、颯真がこちらを見た。
「……なに」
「いや」
なぜか、少し嬉しそうに笑っている。
「穂乃果、こういうとき結構笑うんだなって」
「普段から笑います」
「俺といるとき、だいたい警戒してるじゃん」
「危険生物なので」
「まだその設定続いてるんだ」
「設定ではありません」
私は立ち上がり、次の場所へ向かった。
しばらく歩くと、今度は鮮やかな色のキノコが目に入った。
「あ、綺麗」
颯真が言った。
私は反射的に彼の腕を掴んだ。
「触らないで」
「触ってないよ」
「あ」
気づいて、すぐに手を離した。
「……すみません」
「べつにいいけど」
颯真は、自分の腕と私の顔を交互に見ている。
「そんなに危ないの?」
「見た目だけで判断しない方がいいです。綺麗だから安全とは限らないので」
「へえ」
颯真はキノコを眺めながら、妙に納得したように頷いた。
「綺麗なものほど危ないってこと?」
「そういう単純な話でもないですけど」
「じゃあ俺と一緒だ」
「…………」
私は黙った。
「今、絶対何か思ったでしょ」
「何も」
「俺のこと毒キノコだと思った?」
心臓が止まりそうになった。
「なんでそうなるんですか」
「穂乃果、たまに俺見る目が珍しい生き物見る目だから」
鋭い。
妙なところだけ鋭い。
「自意識過剰です」
「そうかなあ」
颯真は楽しそうに笑っている。
けれど、学校で女子たちに向けている笑顔とは少し違って見えた。
誰かに好かれるための笑顔ではなくて。
ただ、面白いから笑っている。
そんな顔だった。
「穂乃果ってさ」
「なんですか」
「キノコの話してるとき、すごく楽しそうだね」
思いがけない言葉だった。
「……そうですか?」
「うん。学校にいるときより、よく喋るし」
言われてみれば、今日は私の方が話している時間が長いかもしれない。
いつもは颯真に話しかけられて、それを追い払うのに必死なのに。
「好きなものの話なら、普通じゃないですか」
「そっか」
颯真は少し考えるようにして、それから笑った。
「じゃあ、今日来てよかった」
「キノコに興味持ったんですか?」
「それもあるけど」
颯真はこちらを見る。
「穂乃果が何好きなのか、ちょっとわかったから」
「……そういうこと、簡単に言わない方がいいですよ」
「なんで?」
「そういうところです」
「また怒られた」
本人はまったくわかっていない。
やっぱり危険だ。
ものすごく危険だ。
私はそう思いながら、再び歩き出した。
けれど。
「穂乃果、次あっち行こうよ。なんか生えてる」
「その言い方だと全部キノコみたいに聞こえます」
「違うの?」
「植物園に謝ってください。そして、走らないでください。踏みますから」
「はーい」
少し先を歩く颯真の背中を追いながら、私はふと思った。
毒キノコは、遠くから眺めているだけなら安全だ。
そのはずなのに。
今日はなぜか、その隣を歩くことが、それほど嫌ではなかった。




