新たなる世界
休職初日から、私は自分が思っていた以上に壊れていた。
朝、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で目が覚める。
時計を見ると十一時を回っており、そこから体が動くまでに二時間はかかった。
起き上がって台所に行き、適当にあるものを食べてまたベッドに戻る。それの繰り返し。
何もする気が起きず、だらだらと時間だけが過ぎていく。
観てないのにテレビはつけっぱなしにした。全く内容は聞いていないのに、誰かの声がしていないと寂しくて泣けてくる。
両親が交通事故で亡くなってからずっと一人で住んでいるこの家を、今ほど広く感じたことはなかった。
◇
神崎くんからメッセージが来たのは、休職をした翌日だった。
『白瀬さん、今日休まれてますけど、大丈夫ですか?』
きっと、私が出社していないことに気付いて連絡してくれたのだろう。
本当に優しい子だ。
『心配かけてごめんね』
『昨日、休職願出したので、会社をしばらく休むことになりました』
私の味方をしてくれるって言ってくれていたばかりなのに、私が裏切った方に担ってしまったことを申し訳なく思った。
すると、すぐに返事が来る音がした。
『よかったです』
『いや、よかったって言い方は変ですね。すみません』
『でも、あそこにいたら白瀬さんにとって良くないと思ってたので』
『休めるなら、しっかりと休んでください』
私はしばらくその言葉を眺めていた。
今の私にやさしい言葉をかけてくれるのは、神崎くんだけになってしまった。
『ごめんね』
『力になりたいって言ってくれたのに、逃げるようなことして』
既読はすぐについた。
返事が来るまでに、少し間が空く。
『逃げてないですよ』
『逃げるとかじゃなくて、白瀬さんの体が限界だったんですよ。正しいと思います』
『俺にできることならなんでもするんで、気軽に言ってくださいね』
既読をつけたまま、私は何も返せなかった。
ありがとう、の文字も打てなかった。打ったらまた泣いてしまう。
結局その日は、スタンプを一つだけ送って終わりにした。
自分自身がここまで情けないとは思ってもみなかった。
◇
それから一週間が過ぎた日の夕方、そのスタンプの下に、新しいメッセージが並んだ。
『白瀬さん、今日って家にいますか』
『いますよね?』
『飲みに行きましょう』
私は布団の中で見ていた。
『無理です』
『ごめん、今は外へ出るのがちょっとむずかしい』
返事は五秒で帰ってきた。
『じゃあ家の前まで行きますね』
『そこから先は白瀬さん次第で』
こんな姿を見せられないと思い、『来なくていいって』と返信をしてしまった。
気持ち的には話したいとは思っていても、今の姿を誰かに見せる勇気が持てなかった。
それから三十分後、本当にインターホンが鳴った。
私は玄関のモニターを見る。
神崎くんが立っていた。
会社帰りのスーツのまま、少し息を切らしてカメラに顔を寄せ、変な顔をしながら両手でピースをしていた。
私は思わず笑ってしまった。
「……もう、何してるの」
『開けてくれないなら、ここでずっとこうしてます』
「……はぁ、わかったわ。ちょっと待っててね」
スピーカー越しに聞こえたその一言で、私は負けた。
化粧をする気力はなかったので、髪を整え、服を着替えるだけしてドアを開ける。
外の空気は思っていたより暖かかった。
もう四月も終わりに近づいているのを肌で感じる。
「……ひどい顔でしょ」
「めちゃくちゃひどいですね」
「そこは嘘つくとこでしょ」
「白瀬さんには誠実で居たいので」
悪びれずににこやかに言ってくる。
この子は、たまにこういうことを平気で言うけど、それに今は救われる気持ちになっていた。
◇
連れていかれたのは、家から十分ほど歩いたところにある、汚い居酒屋だった。
「会社の人間が絶対に来ない店だから安心して吞んでください」と彼は言った。
実際、店の中には作業着の人と、常連らしいお爺さんくらいしかいない。
テレビが点いていて、ダンジョンのニュースが流れている。
羽田にあるゲートの映像だ。
そう言えば、最近仕事ばかりで、ニュースもろくに見れていなかったことを思い出す。
休職中もテレビは付けていたが何も聞いていなかったし。
それに、なんだか久しぶりにダンジョンというワードを聞いた気がした。
神崎くんは何も聞かなかった。
部長の話も、噂の話も、休職の話も、一言も出さなかった。
代わりに、彼が今日どんなミスをして先輩に怒られたかを話していた。
私を元気づけようとしてくれているのか、よく冗談を言って楽しく会話をしてくれる。
私は途中から笑いっぱなしだった。
楽しい時間だったから、もう何杯飲んでいるのか分からなくなっていた。
そして、いつの間にか私は泣いていた。
愚痴をと何度言ったことかわからないが、彼はそのたびに「白瀬さんは悪くないです」と、面倒くさがらずに、何度でも返してくれた。
どれだけ面倒な女だと思われたことだろうか。
閉店近くになって、彼が「そろそろ出ましょう」と言った時には、世界が揺れて床が斜めになっていた。
「白瀬さん、飲みすぎですよ」
「……こんなに飲んだの、いつぶりだろ」
「俺のミスの話で四杯いくのは、逆にすごいですよ」
彼は、私の歩く速度に合わせて歩いてくれた。
家まで送ってくれて、そこで別れた。
「上がってく?」と言いかけて、やめた。言っても困らせるだけだ。
「今日は、ありがとう」
「はい」
「ほんとに。ありがとう」
「次も誘うんで、また飲みましょうね」
彼は頭を下げて、駅の方へ歩いていった。
私は玄関の鍵を、三回目でようやく開けた。
◇
家の中は、真っ暗だった。
電気を点け、靴を脱いだところで家の中の違和感を感じた。
奥の部屋から言葉に言い表せない変な感じがしているのだ。
あそこは、段ボールが積んであるだけの物置部屋になっていたはず。
もしかして誰かいるのか。そう思ったが、人の気配とは違う、何か嫌な気配がその部屋からしていた。
酔っぱらっているからそう感じるだけなのかもしれない。
しかし、私はそれが何なのか気になったので、千鳥足になりながら部屋の扉を開けてみた。
部屋の中はもちろん暗かった。
しかし、その暗さの中にさらに黒いものが、部屋の中央に浮かび上がっていた。
それは、畳から数センチ浮いた位置にあり、高さは私の背丈より少し高いくらい。
幅は、大人が二人入れるかという程度の大きさの黒い空間だった。
その空間は、光を吸い込んでいるかのように漆黒を体現するかのように佇んでいる。まるでホラーだ。
部屋の電気をつけても、その空間の不気味さは変わらずそこにある。
素面だったら腰を抜かしていたと思う。悲鳴を上げたかもしれない。
少なくとも、その場から動けなくなったはずだ。
でも、今の私はお酒で麻痺していた。
ネジの一本くらいは飛んでいたのかもしれない。
「……あぁ、ゲートか」
二年ほど前、世界中に出現した黒い空間。
当時、テレビで何百回も見た映像だ。
通称”ゲート”。誰がそう呼び始めたのか知らないが、たしかダンジョンと呼んでる世界につながっているんだったか。
それが、うちの物置部屋にあった。
私は一歩近づいた。
酔っぱらっていた私には、通報するとか、危険とか、そういうものを考える能力が著しく低下していたようだ。
代わりに出てきたのは、好奇心だった。
「……これどうなってるんだろ」
私は手を伸ばした。
指先が、黒い空間に触れる。
感触はなく、冷たくも熱くもなくて、手首まで簡単に入った。
「うわー。本当に入ってくねぇ」
面白かった。
自分の手が、肘から先だけ消えている。
手品みたいだと思った。
引き抜くと、手はちゃんと戻ってきた。指も五本ある。
「ちょっとだけ入ってみようかな」
誰にともなくそう言うと、私はゲートの中に踏み込んだ。
私が酔っぱらっていなければ、絶対に選ばなかった選択だっただろうな。
◇
体が前へ引っ張られる感覚を全身に感じて、すぐにその感覚が消えていく。
畳の匂いも消え、代わりに湿った土と草の匂いに包まれた。
見上げると、そこには空が広がっていた。
さっきまで部屋の中にいたはずなのに、頭上が夕焼けのように赤く染まっていて、赤く光る太陽が昇っていた。
たしか今は深夜だったはずなのに、太陽が沈んでいないのはおかしい。
足元には膝の高さまである草が覆い、見渡す限り荒地のような草原が眼前に続いていた。
遠くに森や山が見えるが、随分と広い草原地帯の真ん中にポツンと立っているようだった。
驚くほど現実味の無い幻想的な光景に言葉が出ない。
風が吹くと、草が一斉に鳴って、私のシャツの裾がめくれていく。
なんだか夢でも見ているような気分だった。きっと酔っていることは関係ないだろう。
「……なにこれ、すごい」
ダンジョンについては、少しテレビやSNSで見聞きしたことはあった。しかし、実際に体験をすると別物に感じる。
振り返ると、私の背後に先ほどの黒い空間が浮かんでいた。
きっとこれに入れば帰れるんだろう。
私は、しばらくその景色を見ていた。
風が吹くたびにひんやりと頬を撫でていく。
「いい空気だなぁ」
私は肺いっぱいに空気を吸い込んで呼吸をする。
体に入ったアルコールが浄化され、酔いが冷めていくような、空気が澄んでいて気分がよかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
急に膝から力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。酔いと眠気が、まとめて戻ってきたようだ。
「名残惜しいけど、そろそろ戻って寝ようかな」
ここのことを考えるのは明日にしよう。
今日はもう帰って寝て、明日もう一度来たらいい。
私は立ち上がり、再びゲートへと足を踏み入れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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