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捨てられOL、ダンジョン入って牙を研ぐ  作者: 夢乃舞家


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居場所の喪失

 朝、私が出社すると社内の声が減るようになった。

 明らかに私を意識をして会話が止んだのだけはわかった。

 そんな状況が毎朝続いていたが、私は気にせず自分の椅子に座る。


 数日様子見をしていたが、日に日に挨拶をしても返ってこない人が増えた。

 明らかに聞こえているはずなのに、無視をされたことも何度もあった。


 次に、仕事が減った。

 私は営業事務だ。営業が取ってきた案件を処理するのが仕事だった。

 だから私の一日は、他人から渡されるもので出来ている。

 しかし、明らかに件数が減っていた。


 最初に気づいたのは、隣の後輩の子が困った顔で立ったときだった。


「あの、これ、白瀬さんの担当の会社だと思うんですけど……営業さんが、私にって」


 私は「ごめん、私がやるね」と言って受け取った。

 彼女はほっとした顔をして、それから、小さく頭を下げて戻っていった。


 二度目からは、彼女は持ってこなかった。

 私の担当先の書類が、彼女の机の上で処理されていくのが横目に見えるようになった。


 私は営業部に電話をかけた。

 何度内線でかけても、担当者は席を外していた。

 待てど暮らせど折り返しは来なかった。


 期末最終日は、例年なら机が書類で埋まり、残業で終電ギリギリになることもよくあった。

 しかし、今年は十八時にやることがなくなった。


 定時に帰れることが、こんなに怖いこととは思わなかった。

 鞄を持って立ち上がるとき、周りはまだ全員仕事をしている。

 「お先に失礼します」と言ってみるが、答える者はいない。


 ◇


 別の日、更衣室のロッカーの中身が全部、床にぶちまけられていた。

 上着も、替えのストッキングも、化粧ポーチも、タイルの上に散らばっていた。

 口紅は転がり、ケースの角が欠け、ファンデーションは開いた状態で裏返しになっている。

 拾ったら中身が割れて、粉が床に広がった。


 鍵はかけていたはずだった。

 ダイヤル式の四桁。

 私の誕生日にしていた。


 散らばった私物の一番上に、白い紙が置いてあった。


 『被害者ぶるな』


 それだけが書いてあった。

 私は、体の芯から震えが来て、止まらなくなった。


 背後でドアが開いた。

 話し声が入ってきて、私を見て止まった。


「……あ」


 二人は黙って床に散らばった物を拾う私を見ていた。

 二人共に、自分のロッカーまで来て、何もなかったように荷物を置いて出てく。


 総務には、その日のうちに行った。

 紙を見せて、ロッカーの状態も説明した。

 応対したのは五十代の女性。


「うーん、鍵は壊されてないのよね?」

「はい。」

「番号、誰かに教えたことある?」

「ないです。ですが、誕生日にしていたもので……」

「そう。これからはもっと分からない番号にした方がいいですね。更衣室にはカメラをつけられないから」


 それは、そうだと思う。

 私だって、更衣室にカメラがあるのは嫌だ。


「きっと悪戯だと思うのよ。こういうことがあったってことは上に伝えておくわ。ただこれ以上話を大きくしない方がいいでしょ?」

「え、どうしてですか?」

「こういうのって、犯人捜しを始めると、かえって話が広がっちゃうから」


 その人は、優しい顔をしていた。

 私を困らせたかったわけではないと思う。

 ただ、これ以上、面倒を増やしたくなかったのだろう。


「白瀬さんも、いろいろ大変だったんでしょう?」


 息が、止まった。


「……いろいろ、って」

「え? あ、ううん。とにかく鍵の番号だけ変えてね。それが一番確実だから」


 結局なんの解決にもならなかった。


 ◇


 噂の中身を知ったのは偶然だった。


 その時、私はトイレにいた。

 外のドアが開き、話し声が聞こえてきた。


「——だから言ったじゃん、あの人ヤバいって」


 最初に聞こえたのがそれだった。


「え、でも私、彼氏に浮気されたって聞いたけど」

「違う違う。本人がそう言ってるだけ」

「違うの?」

「営業部の子から聞いたんだけどさ。あの日、黒田先輩と早坂さん、普通に立ち話しで仕事の話をしてただけらしいよ。それをあの人が見て、いきなり叫び出したの」


 立ち話。


「え、それだけで?」

「そう、きっと黒田先輩とうまく行ってなかったんじゃない?フロア中に響く声で泣き喚きながら腕掴んで、総務まで出てくる騒ぎになったんだよね。最近彼女の束縛が激しいって先輩がぼやいてたって聞いたことあるけど、あそこまでとはねぇ」

「うわ……」

「早坂さんもかわいそうよね。何もしてないのに痴話げんかに巻き込まれて怒鳴られて」

「こわ。私たちも巻き込まれないように注意しなきゃね」

「本当よね。なのにあの人、被害者みたいな顔して普通に出勤してくるじゃん。あれが一番無理だわ」


 被害者みたいな顔。

 あの紙と、同じ言葉だった。

 そして、しばらくして二人は出ていった。


 私はしばらく個室から出られなくなった。


 亮くんと早坂さんは間違いなくキスをしていた。私の目の前で。立ち話なんかじゃなかった。

 こんな噂が会社中に流れていると知って、私は誰にも聞こえない声で泣くことしかできなかった。


 もう、何のために仕事をしているのかわからないほど、喪失感を味わっていた。


 ◇


 今日は二十一時を過ぎて、フロアには私だけが残っていた。

 仕事があったわけではない。

 逆に、誰よりも早く仕事は終わっていた。

 それでも、帰らずにデスクの掃除をしたり、PCの中にあるファイルなどの整理をしていた。


 このままでは仕事をクビになる可能性があった。

 だからと言って、そうならないように頑張ろう。などと思える気力もなくなっていた。

 念のため、いつ切られてもいいように、身の回りだけは綺麗にしていようと整理を始めることにした。

 もう、すべてがどうでもいい。

 これから私はどうなるのだろうか。その不安だけを抱きながら過ごしている。


「白瀬さん」


 突然声がして、心臓が跳ねた。


 振り向くと、神崎くんが立っていた。

 うちの部署の後輩。背が高くて、いつも鞄を斜めがけにしている子。

 そういえば、あの時もあの場にいたんだっけ。


「まだいたの」

「はい。白瀬さんがまだいたので」


 彼は隣の席の椅子を引いて座った。

 缶コーヒーの片方を私の机の端に置いて「どうぞ」といつものさわやかな笑顔で渡してくれる。

 ブラックだった。私が甘いのを飲まないことを、この子は覚えていてくれたようだ。


「ありがとう」


 そう言って、私はコーヒーを一口飲んだ。正直、味を感じない。


「あの」


 神崎くんは、突然まじめな顔になって私の目を見ていた。


「俺、前から知ってました。黒田さん達の関係を」


 私の手が止まった。


「……何の話?」

「去年の十二月。俺、日曜に駅前で見たんです。黒田さんと、企画部の早坂さんが一緒にいるの」


 息が、詰まった。


「二人とも私服で腕組んで歩いていたんです。最初は他人の空似かと思ったんですけど、黒田さんと目が合った時にはっきり顔が見えたので間違いないなって」


 十二月。


 連絡が返ってくるのが少し遅くなったな、と思い始めるよりずっと前だ。

 クリスマスに亮くんは仕事が入ったと言って会えなかった。

 年末は実家に帰ると言って会えなかった。

 私はそれを疑わずに、一人で年を越して、我慢していたのに。

 その頃からずっと浮気していたってこと?


「……なんで」


 私の口が、勝手に動いた。


 なんで黙ってたの、なんで今言うの。

 神崎くんは何も悪くないのに、そんな言葉しか出てこなかった。


「もっと早く言おうとしました」


 神崎くんは、悲しげに私を見た。


「でも、俺が言ったら白瀬さんがもっと傷つくんじゃないかと思って。俺の勘違いだったら大変なことになるし」


 彼は一口飲んで、下を向いた。


「それで、黙ってるうちにあの騒ぎになって。今、社内でめちゃくちゃな話が回ってるから俺、営業部の先輩にあの日見たことを言ったんです。そしたら」


 言葉が、少し止まった。


「同じ部署だからって庇ってもしょうがないだろ、って。笑われて、終わりでした」


 私は、何も言えなかった。


「でも俺、あの話が回ってるせいで、白瀬さんが傷ついていくのが見たくなくて」


 彼は缶をテーブルに置いて、まっすぐこっちを見た。


「白瀬さんは何も悪くないのに、白瀬さんだけがめちゃくちゃな目に遭ってて。俺、それ知ってるのに黙ってた側の人間だから。今更なんだよって思われるかもしれないですけど」


 少しだけ、声が震えていた。


「何か、力になりたいんです。今からでも」


 神崎くんの真剣なまなざしは、しっかりと私を見ていた。


 今まで私の側になって考えてくれた人なんていなかった。

 あの事件以降、私の味方になってくれた子は、この子が初めてだった。

 私の中で、何かが崩壊していくのを感じる。

 出てきたのは、声にならない言葉だった。


 一度出たら、止まらなかった。

 手のひらで顔を覆い、私は声を上げて泣き続けた。

 会社の中で、後輩の前で、化粧が崩れるのも構わずに。


 みっともないと分かっていた。

 それでも止まらなかった。

 神崎くんは、何も言わずに見守ってくれていた。



 どのくらい経ったのか分からない。

 顔を上げると、彼は箱ティッシュを黙って差し出してきた。


「……ごめん。見苦しい姿を見せて」

「そんなことないですよ」


 私は洟をかんで、コーヒーを飲んで落ち着くことにした。

 なんだか、久しぶりに味を感じた気がした。


「神崎くん」

「はい」

「あのさ。私と喋ってるとこ見られたら、あなたまで変な目で見られちゃうよ」


 言ってから、自分が嫌になった。

 気にかけてくれた人にかける最初の言葉がそれか、と思った。でも、それが本当に怖かった。

 この子まで巻き込んでしまったら私は私のままではいられない気がした。


 神崎くんは、少し考える顔をして、それから言った。


「じゃあ、見られない場所で喋りましょう」


 あっさりしていた。深刻さのない言い方だった。

 それが、一番効いた。


「……何それ」

「外なら誰も見てないんで。ご飯とか食べに行きませんか?」

「後輩に出させないよ、私」

「もともと奢られるつもりでしたよ」


 私は、笑った。

 久しぶりに、声を出して笑った気がする。

 時間も時間だったので、近くの居酒屋で少しだけ食事をしてから帰ることになった。

 「送りますよ」といって、神崎くんは私の家まで送ってくれた。

 人にやさしくされたのは久々だったので、少し気恥ずかしくなったが、お言葉に甘えさせてもらった。


 ◇


 翌朝、私は少しだけ早く目が覚めた。

 昨日散々泣いたから、今日は心がすっきりして顔を上げて歩くことができた。


 会社に着くと「おはようございます」と挨拶をするが、今日も挨拶が返ってくることはなかった。

 それでも、なんだか平気だった。

 神崎くんは、デスクが私と別の部屋なので、会えないことが少し寂しく感じてしまう。


 十時前、部長に呼ばれた。

 うちの部の部長は、五十代の男だ。

 亮くんと付き合う前、この人からは何度かアプローチを受けていた。

 食事に誘われて断り、また誘われて断り。角を立てないように、そのたびに笑って逃げてきた。


 だが、私が亮くんと付き合っていることが社内に知れ渡ってから、この人は豹変した。

 私の書類にだけ細かい指摘が増え、会議で私の発言だけが遮られた。

 それ以来、私はこの上司が苦手だった。


 部長はフロア全体に届く声で私の名前を呼んだ。


「白瀬!」

「はい」


 私は立ち上がって、部長の席まで行った。


「お前さ、営業部の件どうなってんの?」


 周りの手が止まったのが分かった。


「……営業部の件、というのは」

「とぼけんなよ。先月のあれだよ。お前がよそのフロアで泣き喚いて大騒ぎをしたらしいじゃないか。俺が何回頭下げたと思ってんの?」


「それは、その、すみませんでした」

「すみませんで済むんだったら誰も苦労しねえよ。あのな、企画部の部長にも言われたんだよ。おたくの子、うちの早坂に何かしたんだって? って」


 早坂の名前が出た瞬間、視界の端が白くなった。


「違います」


 声が出た。自分でも驚くくらい、細い声だった。


「私、早坂さんには何も」

「目撃者がいるのにか?」


 部長が、椅子を回してこっちを向いた。笑っていた。


「その顔。お前、自分は悪くないって顔してるな」


 フロアが、静かだった。

 誰もが聞き耳を立てながら私たちの会話を聞いている。


「言っとくけどな、女がそういうことやると一発で終わりなんだよ。男は少々やらかしても仕事で返せばいいけど、女は無理。分かるだろ」


 分からない。

 分からないけれど、口が動かなかった。


「まあ、あれだ」


 部長は、書類に目を戻しながら言った。

 顔も上げずに、世間話みたいな声で。


「よくまだここに顔出せるよな、お前」


 どこかで、誰かが小さく笑った。

 私の中で、必死に保っていた何かが、ポキッと折れたのがわかった。

 私は悔しさのあまり、握りこぶしが強くなっていく。


「……失礼します」


 私は、それだけ言って、自分の席に戻った。

 座って、パソコンの画面を見ると、自分の顔が映っていた。

 ひどい顔だった。


 私は立ち上がって、トイレに入った。

 個室の鍵をかけ、座って口を押さえた。

 声が漏れないようにするだけで精一杯だった。


 どのくらいそこにいたのか分からない。

 膝が震えて、しばらく立てなかった。

 手が、自分のものじゃないみたいに冷たい。

 

その日、私は午後の休みをもらって帰ることにした。

 誰も理由を聞く人はいなかった。


 そして翌朝、私は休職願を提出し、その日を境に、私は家から出られなくなってしまっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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