最愛との決別
亮くんの様子がおかしい。
違和感に気づいたのは、一月の終わりごろだった。
最初の違和感はスマホだった。
テーブルの上に放置していても気にしなかった人が、いつからか何をするにも肌身離さず持ち歩くようになった。
通知が来ると、一度こちらをちらっと見てから、画面を私に見せないようなしぐさをしていた。
次は、匂いだった。
亮くんは香水をつけない。
なのに、時々甘い匂いがするようになった。
私が使わない種類の香りがした。
指摘すると「仕事中に誰かの匂いが移ったんじゃないか?」と返された。
それでも私は、証拠を集めるようなことはしなかった。
やったら終わりだと思ったから。
でも、日が経つにつれ、そういった仕草が目に付くようになっていった。
付き合って一年八か月。これがマンネリというものなのだろうか。
入社三年目のとき、社内で人気の亮くんと付き合い始めた私に対し、周りの女子から風当たりが強くなった時期がある。
私はそれを仕事で黙らせた。
数字を出して、案件を回して、誰にも文句を言わせない位置まで行くために必死だった。
今では、理想的なカップルだなんて言ってくれる人が出てきたところだったのに。
連絡がすぐ返ってこなくなったのは二月に入ってからだ。
既読はつくが返事は数時間後。
「ごめん、今バタバタしてて」
「今週は無理そう」
三週連続で週末が流れていった。
私が「じゃあ平日の夜でも」と送ったら、既読のまま朝になった。
朝五時に起きてランニングをする。
私の日課だった。
川沿いを七キロ。走っている時だけは、何も考えずにいられる。
走り終えてシャワーを浴び、化粧をして、スーツに着替え、白鷺物産の営業事務部に出社する。そんな毎日だった。
その日、たまたま廊下ですれ違った亮くんは「おう」と言って、私の顔を見なかった。
むかついたので無視をしてやった。
三月十二日。金曜。
私は二十時過ぎまで残業をしていた。
期末で、営業部から回ってくる契約書の不備が山のようにあったからだ。
営業部の担当に、確認を取らないと処理できない案件が三件あって、その三件全部が亮くんの担当だった。
確認をしたかったが内線が繋がらなかった。
もう期限が近い案件だったこともあり、面倒だが営業部のフロアにまで足を運ぶことにした。
営業のフロアはほとんど電気が落ちていて、照明が二列だけ残っている。
亮くんは席にはいないようだ。
鞄はあるのでまだ社内にいるはず。
どこに行ったのだろうか。
そう思いながら探していて、給湯室の前を通ったとき、少し明かりが漏れていた。
ドアが開いていて、前を通った際に偶然見えてしまった。
そこに亮くんがいた。
亮くんの前に、早坂有紗がいる。
企画部の早坂。会議で何度か同席したことがある。
話し方が丁寧で、頭の回転が速く、私は正直嫌いではなかった。この瞬間までは。
二人はキスをしていた。
亮くんの手が早坂の腰にあり、早坂の指が亮くんのネクタイを摘んでいた。
私の手から、クリアファイルが落ちる。
乾いた音がして、二人が離れた。
早坂は真っ先に自分の口元を親指で拭った。汚れを落とすみたいに。
亮くんは一歩下がり、こちらを見て「あ」と言った。
「……あ?」
私の口から出たのは、そんな声だった。
「あ、って何。あって何、亮くん」
「ちょ、ちょっと落ち着け」
亮くんがそう言った瞬間、私の中で何かが外れた音がした。
「落ち着け? 今の見て落ち着けるわけないでしょ! 何それ、何してんの、なんで、ねえなんで!」
自分の声が、廊下に跳ね返って戻ってきた。
想像していたより高くて、耳障りな音。
それが自分の声だと理解しながら、止められなかった。
「三週間よ! 三週間まともに連絡くれなかったよね! 忙しいって言ったよね!これが忙しい理由なの!?」
「白瀬さん」
早坂が落ち着いた声で私の名前を呼んだ。
彼女はもう、乱れた前髪を直し終えていた。
「大きな声、出さないでもらえますか」
その一言で、私は完全にどうかしてしまった。
「はあ!? あんたが言うの!? 人の彼氏に何してんの? 答えてよ! ねえ答えて!」
早坂は答えなかった。ただ、廊下の奥のほうへ視線を投げた。
人が来ている、という意味の視線だったのだろう。
私は振り返らなかった。振り返る余裕なんてなかった。
亮くんの腕を掴んで引き寄せてまた叫ぶ。
何を言ったのか、あとから思い出そうとしても正確には出てこない。
「説明して」と何度も言った気がする。「私のこと何だと思ってたの」と。
泣きながら言った。泣きたくなかったのに、目の下が勝手に熱くなって、声が掠れる。
亮くんは私の手を剥がすようにして外した。
「……マジで、落ち着けって」
彼は困っていた。
怒ってもいなかったし、慌ててもいなかった。
ただただ困っていた。
厄介事に巻き込まれた人間の顔だった。それを見た瞬間、私の喉から悲鳴みたいな声が出た。
気づいたときには、フロアの入口に人が集まっていた。
残業していた営業部の人以外にも、総務の人など他部署の人までも。
それから、うちの部署の後輩だった——神崎くんが、一番後ろに立っているのが見えた。
目が合った。彼は何か言おうとして、口を開いて、閉じる。
私は、その全員に見られていた。
髪が乱れて、化粧が崩れて、他人の腕を掴んで喚いている二十五歳の女として。
早坂は、その視線の中で、静かに頭を下げた。
「すみません、お騒がせして」
その「すみません」が、誰に向けたものだったのか。
私はもう頭が真っ白になり、何かを早坂に叫んでいたことだけは覚えている。
◇
翌週の月曜、始業前に課長に呼ばれた。
窓のない小会議室。
テーブルを挟んで、課長は座らずに立っていた。
腕を組んで、私がドアを閉めるのを待ち、それから口を開く。
「白瀬さん。金曜の夜のこと、聞いたぞ」
私は口の中の唾を飲んだ。
緊張で喉が張り付いていた。
あれからほとんど睡眠がとれておらず、目元にはメイクでは隠せないほどの隈ができている。
「あの、それは」
「営業部から話が来ている。総務からも連絡があったほどだ。君が大声で騒いでいた、とね」
「課長、あれは黒田さんが」
「私生活の話だろう」
遮られた。
「あのね、白瀬さん。誰が誰と付き合っていようが、別れようが、それは君らの自由だ。私は口を挟まない。だけどね、そういうことは会社の外でやってくれないか」
「でも、会社の中でしてたのは向こうで」
「白瀬さん」
課長は、私の名前を、少し強く言って話を止める。
「私情を会社に持ち込むな。それだけの話だ」
言えることは、たくさんあった。
私は仕事の確認をしに行っただけで、契約書の不備を処理するためだった。
それは仕事です。
私は仕事をしていただけだ。
私は間違っていない。
でも、これを口に出したら。
私は聞き分けのない女と思われる。
目の前のこの人は、それを聞きたがっていない。
聞きたがっていない人に事実を並べる行為が、何の意味も持たないことを私は知っていた。
そして、私は謝ることしかできなかった。
「……すみませんでした」
自分の口から出たその言葉を、私は他人の声のように聞こえた。
「今回のことは多めに見るが次はないからな」
会議室を出て、自分の席に戻った。
パソコンを立ち上げる。
金曜に処理できなかった三件がそのまま残っていた。全部、亮くんの担当案件だ。
私はメールを書いた。件名「【ご確認】契約書不備の件」。本文は敬語で、簡潔に、何事もなかったように書いた。
三十分後、返信が来た。
「確認しました。修正して再提出します。黒田」
亮くんからの連絡はそれだった。
◇
亮くんが電話に出たのは、その週の水曜の夜だった。
十九回目のコールで出た。
感情の籠らない声で「なに?」と。
何、じゃないだろうと思ったけれど、それを言うとまた喧嘩になってしまう。そう思って言葉を飲み込んだ。
会って話したいと伝えると、亮くんは長く黙ってから、「駅前のとこでいい?」と言った。
私の家でも、彼の部屋でもなく、チェーン店のカフェだった。
二十一時。二人掛けの席。
彼はアイスコーヒーを頼んで、私は何も頼まなかった。
「……早坂さんとは、いつから?」
最初に切り出したのは私だった。
感情を殺し、冷静に。
「いつから、って?」
亮くんはストローの袋を細く折りながら言った。私の顔は見ていない。
「別に、そういうのじゃないんだけど」
「そういうのじゃないって何」
「あの日も、普通に話してただけだし」
私は、聞き返した。
「……話してた?」
「そう」
「どうして嘘をつくの……キス、してたよね?」
亮くんはストローの袋から手を離し、初めてこちらを見て言った。
「玲奈さ」
彼が私の名前を呼んだのは、何か月ぶりだろう。
いつしか私のことをお前としか呼ばなくなっていたのに。
「そういうとこだよ」
冷たく言い放たれた言葉に、私は水を後頭部からかけられたみたいだった。
「そういうとこって、何よ」
「決めつけんの。全部、自分の見た通りだと思ってんの。俺の話、聞く前から結論出てるんだろ?」
「何が?…私は目の前で見たのよ?」
「見たって言われてもさ」
亮くんはアイスコーヒーを一口飲んで、開き直ったかのように続けた。
「あんな騒ぎ方する? 普通。フロア中に聞こえてたぞ。俺、月曜に部長に呼ばれたんだけど」
「……え」
「会社でもめ事を起こすなって怒られたわ。早坂さんも企画部で気まずい思いをしてるようだし。あの人は関係ないのにな」
関係ない?
その三文字が、頭の中に響き渡った。
もしかして全部私のせいにするつもりなのか。
「関係ないって、何が」
「だから、俺と早坂さんは、そういうんじゃないって言ってんだろ」
「どこが関係ないの?あの子が関係なかったら誰が関係あるのよ!」
感情が高ぶってしまい、少し声が大きくなってしまった。
亮くんはわざとらしく長いため息をついた。
「……もう無理だわ」
「何が」
「お前と話すのだよ。前からそうだったけど、最近はほんとに無理。何言っても疑うだろ。連絡返さないだけで責めるし。俺だって仕事があるんだよ」
「三週間もそれが続くの?」
「ほら、それ」
彼は少し笑った。呆れたときに出る笑い方だった。
「そういうところが重いんだって」
私は、何も言えなかった。
何が重いのか。私にはただの言い訳にしか聞こえなかった。
私が何を言っても、もう聞く耳を持たないことが態度でわかる。
「別れたいって……こと?」
聞いたのは、私の方だった。
今まで怖くて聞けなかった言葉。それを否定してほしくて絞り出していた。
声が震えているのが自分でもわかる。
しかし、亮くんは少しだけほっとした顔をしていた。
「まあ、そうだな」
彼はスマホを見て時間を確認する。
「お互い、ちょっと冷静になったほうがいいと思う」
お互い。
この期に及んで、お互い。
「荷物、どうするの」
私が聞くと、彼は「別にいいよ、捨てといて」と言った。
私の家に置いていった髭剃りや部屋着。ほかにも付き合ってから二年近い時間で生まれた物を、彼は捨てといてで処理をした。
伝票を持って先に立ったのは亮くんだった。
「じゃあな」
亮くんは店を出ていった。
私も遅れて外に出る。
三月の夜はまだ寒くて一気に体温を奪っていく。
亮くんは駅の方へ歩いていた。
こちらを振り返ることはなかった。
歩きながらスマホに耳を当てて、誰かと話しているようだ。
もう考えないことにした。
私は、駅とは反対の方向へ歩いた。
電車に乗る気になれなくて、三駅分歩いた。
歩きながら、何度も同じことを考えた。
私は何を間違えたんだろう。
見たものを見たと言ったことか。声を上げたことか。人前で泣いたことか。
なんだか全身に鉛を乗せているように体が重かった。
家に着いたのは日付が変わってからだった。
両親が亡くなってからこの家には私しかいない。
玄関を開けても誰の返事もないことに、私はとっくに慣れている。慣れているはずだった。
その夜は、靴を脱いだところで座り込んで、しばらく立てずに泣いて過ごすことになった。
◇
翌週の月曜、私はいつも通り五時に起きて走った。
シャワーを浴びて、化粧をし、スーツを着て出社した。
いつも通りの日常。そのはずなのに、私には世界が色あせて見えていた。
会社に着くと、二人の女性社員が話していた。
私が椅子を引くのと同時に、二人がこちらを見てから話すのをやめた。
不自然だった。
そのとき私は、まだ何も知らなかった。
あの夜のことが、社内でどんな形に作り替えられ、噂として広まっているのかを。
読んでいただき、ありがとうございます。
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