引っ越し祝い
「いらっしゃいませ」
店員さんの声に迎えられて、私は店内に足を踏み入れた。
落ち着いた照明と、控えめなクラシックが流れる店内。
私は、引っ越し祝いということで、神崎くんとレストランに来ていた。
「予約した神崎です」
エスコートしてくれていた神崎くんが、店員さんに声をかけている。
いつもの仕事着ではない、しっかりとしたスーツ姿の神崎くんを見るのは、なんだか新鮮で恰好よかった。
こうしてきちんとした格好で並ぶと、ちゃんとした大人の男の人なんだなって感じる。
「こちらのお席へどうぞ」
案内されて、窓際の二人掛けの席に座る。
テーブルクロスの白さと、控えめに灯るキャンドルが、なんだか場違いな緊張感を運んでくる。
「今日は誘ってくれてありがとう。すごく素敵なお店だね」
「白瀬さんの引っ越し祝いですから。ちゃんとしたところにしたくて」
照れくさそうに笑う神崎くんに、私も自然と口元が緩んだ。
メニューを開いて、しばらく二人で悩む。
食事はコースで、あらかじめ予約しておいてくれたみたいなので、私は飲み物を選んでいく。
店員さんが下がっていくのを見送ると、神崎くんが少し姿勢を正して、こちらを見た。
「白瀬さん、なんか元気ないですね。何かあったんですか?」
いきなり切り込まれて、私は一瞬、言葉に詰まった。
顔に出していたつもりはなかったんだけど。
「あ……ごめん、そんなに分かりやすかった?」
「顔に出てますよ」
ごまかしても、無駄そうだった。
せっかくのお祝いの席で、こんな話をするのもどうかと思ったけれど、神崎くんの顔は本気で心配してくれているようだった。
「実は、ちょっと……嫌な場面に遭遇しちゃってね」
「嫌な場面?」
「うん」
言おうかどうしようか、少し迷う。
でも、神崎くんは急かさず、じっとこちらを見て待ってくれていた。
「なんでも話してみてください。俺でよければ聞きますから」
その言葉に、私はぽつぽつと話し始めた。
名古屋で美容院に行ったこと。その帰りに、栄でウィンドウショッピングをしていたこと。
そこで、亮くんと早坂さんを見かけてしまったこと。
「二人とも、すごく仲良さそうにしてて。腕組んだりしてね」
「……」
「驚いて体が固まっちゃってね。気がついたときには、もういなくなってた」
話しながら、あのときの感覚がじわりと蘇ってくる。
もうあきらめたつもりだったけれど、あの二人が幸せそうにしていたことが私の胸を締め付ける。
神崎くんは、黙って聞いていたけれど、話が終わる頃には、明らかに表情が変わっていた。
「……あの二人、まだ付き合ってるんですね」
「うん、みたいだね」
「懲りないな」
珍しく、低い声だった。
いつも柔らかい神崎くんの、初めて見る類の不機嫌さに、少しだけどきりとする。
「白瀬さんがあんな目に遭ったのに、二人とも普通ににしてるとか、なんか腹立ちますね」
私のために怒ってくれている。
それが分かって、胸の奥がじんわりと温かくなった。
でも同時に、こんな空気にさせてしまったことに、ちょっと申し訳なくなる。
「ううん、ごめんね。もういいの。私が考えすぎなだけだよ。せっかく呼んでくれたのに、暗い話しちゃったね」
「いえ、そんな……全然、いいんですよ。白瀬さんは何も悪くない」
神崎くんは、我に返ったように慌てて表情を緩めた。
「でも、うん。話してくれてありがとうございます」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
これ以上引きずるのも良くない気がして、私はわざと明るい声を出した。
「そういえば、聞いてほしいことがあるんだけど。引っ越し先なんだけどね、たぶん神崎くんもびっくりするほど古い建物なんだよ。写真見てみる?」
「え、そうなんですか?」
話題を変えると、神崎くんも興味を持ったように身を乗り出してきた。
私はスマホを取り出して、部屋の写真を何枚か見せた。
色褪せた壁紙、年季の入った建具、玄関先のひび割れたコンクリート。
「うわ……本当に年季入ってますね、これは」
「でしょ? でも、意外と収納が広くて、中は住みやすいんだよ」
「いや、うーん。これは……」
神崎くんは、写真を拡大したり戻したりしながら、眉を寄せている。
「これ、玄関のドア、鍵一つしかついてないですよね?」
「うん。そうだね。でもそれがどうかしたの?」
「オートロックとかは……」
「ないない。そんなにいいアパートじゃないんだってば」
あっさり答える私に、神崎くんの表情がだんだん険しくなっていく。
「白瀬さん、女性の一人暮らしですよね? しかも、あの辺って結構人の出入りが多いエリアじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
「防犯カメラとかは?」
「防犯カメラなんてつけてるような感じじゃないけど……そんなの気にしてなかったからわからないなぁ」
正直、部屋を決めた日は、収納の広さと家賃にしか気が回っていなかった。
防犯とか、そういうことをちゃんと考えたのは、今この瞬間が初めてかもしれない。
「大丈夫だって。魔装もあるし、いざとなったら返り討ちにできるだよ。今度私の力見せてあげようか?ふふ」
「私意外と強いんだから」と、軽い調子でそう言うと、神崎くんは、はぁ、と小さくため息をついた。
テーブルの上で組んだ手に、少し力がこもるのが見える。
「白瀬さんって、たぶん自分のことが全然わかってないですよね」
「え?」
急に真顔になった神崎くんに、私は思わず身構えた。
これは怒られているんだろうか。
「戦闘力の話じゃなくて。……白瀬さんって、結構美人なんですよ。自覚ないかもしれないですけど」
一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。
でも、単語の意味が頭に染み込んでくると同時に、顔のあたりがぶわっと熱くなる。
「な、なによ、急に」
「だから、そういう意味でも狙われやすいんです。魔物だけが相手じゃないんですよ」
神崎くんは、真剣な顔のまま続けた。
からかっているわけじゃないようだ。本気で心配してくれているのが、声のトーンから伝わってくる。
「……変なこと言ってすみません。でも、本当に思ってることなので」
そう付け加えられて、今度はこっちが平静を保てなくなった。
テーブルの下で、両手をぎゅっと握りしめる。
顔が熱い。きっと真っ赤になっている。
「あ、その……ありがとう。ちゃんと、鍵はかけるようにするから」
声が、思っていたより上ずってしまった。
平静を装おうとすればするほど、逆にぎこちなくなる。
神崎くんも、少し照れくさそうに視線を逸らして、水の入ったグラスに口をつけた。
しばらく、どちらも何も言えないまま、店内のBGMだけが流れていた。
とりあえず、運ばれてきた飲み物で乾杯して、前菜に手をつけたところで、神崎くんがふと声のトーンを落とした。
「あの、白瀬さん。実はちょっと、話しておきたいことがあって」
いつもの軽い調子とは違う。
何か込み入った話をするときの声だ、と直感的にわかった。
私も自然と、フォークを置いて姿勢を正す。
「うん、なに?」
「会社のほうで、今、大きなプロジェクトが動き始めてるんです」
神崎くんは、周りを軽く気にするように声を落としたまま続けた。
「それがダンジョン関連の、新規事業なんですよ」
「え……」
思ってもみなかった単語が出てきて、私は思わず息を呑んだ。
「ダンジョンの事なので白瀬さんの方がご存じかもしれませんが、最近法整備がいろいろ進んできたのは知っていますよね。それで、企業がダンジョン事業に参入するケースが増えてきてるらしいんです。うちも、その流れに乗ろうとしてるみたいで」
「詳しいことは、もう決まってるの?」
「いや、俺もまだ詳しくは聞かされてないんですけど……今その事業部のメンバーになる人を募集しているんです」
まさか、こんなところでダンジョンの話がつながっていくとは思わなかった。
休職している身としては、どこか遠い世界の出来事のように聞こえる。
神崎くんは、少し言葉を選ぶように間を置いてから、こちらを見た。
「それで……その選定の際に重要視されるのが、ダンジョンに入ったことがあるか。もしくは、探索者の協力者がいるかどうか。らしいんです。その、俺がこんなこと言うのは間違ってるってわかってるんですけど」
「うん」
「白瀬さん、そろそろ復帰しませんか」
思いがけない言葉に、私は一瞬、固まってしまった。
「復帰……」
「白瀬さんなら、絶対に力になれると思うんです。今、実際にダンジョンに潜ってる人間なんて、社内にはいませんから。だから、俺とダンジョン事業部に入って、また一緒に仕事しませんか」
真剣な目で見つめられて、返す言葉に詰まる。
でも、答えは、もう自分の中で決まっていた。
「ごめん。気持ちは嬉しいんだけど……まだ、戻るつもりはないんだ」
はっきりと言うと、神崎くんは、少しだけ肩を落とした。
でも、無理に食い下がってくることはなかった。
「……そうですよね。すみません、急に」
「ううん、謝らないで。心配してくれてるのは、伝わってるから」
沈黙が流れる。
神崎くんは、グラスの水面を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……実は、俺、そのプロジェクトに入れないか、すでに上に掛け合ってるんです」
「え?」
「企業の中でダンジョンに関われるなら、白瀬さんを手助けできることもあるかもしれないって思って」
照れくさそうに、でも真面目な顔で言われて、私は言葉を失った。
まさか、そんな理由で動いてくれていたなんて。
「……そんなことのために?」
「俺にとっては大事なことなんですよ。また一緒に仕事したいって気持ちは本気なんです」
まっすぐな目で言われて、また顔が熱くなるのを感じた。
こんなにも一生懸命、私との接点を探そうとしてくれている人がいる。
それがどれだけ嬉しいことか、うまく言葉にできない。
「じゃあ、私も協力する」
「え?」
「今すぐ復帰はできないけど、ダンジョンのことで手伝えることがあれば、なんでも言って。全力で協力するから。協力者が必要なんでしょ?」
私はいたずらっぽくウインクをした。
神崎くんは、一瞬きょとんとした顔をしてから、ゆっくりと笑った。
「……ありがとうございます。すごく、心強いですよ」
私は、心の中で密かに決めた。
神崎くんがそのプロジェクトに入れるように、自分にできることは、全部やろう。
それが今の私にできる、精一杯の恩返しのような気がしたから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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