(終章 6-2)海軍中将山尾
(終章 6-2) 利土里×海軍中将山尾
「利土里。入るぞ」
言うなり父は襖を引き開けた。慌てて起き上がり、正座した僕を睨み据えるその手はなんと、抜き身の長刀を握っている。練習用の竹刀でも装飾用の模造品でもなく、正真正銘、海軍中将の必携装備である軍刀だ。
常夜灯に照らされたその刀身が、銀鼠色の鈍い光を放った。僕は冷水を浴びた如くに、寝ぼけまなこが一挙に醒めた。怖気をふるい、夜具の上に正座していても腰が抜けた。どうにか舌のもつれを抑え、声を絞り出した。
「お父様。賊ですか?」
「おまえは動くな。そこにおれ」
僕は居住まいを正して父の言葉に従った。身じろぎが出来ないままで塑像に変身する。父は握りしめた軍刀の構えを一時も緩めず、僕の部屋の物入れや戸棚を手当たり次第に開き、中のものを検めた。先刻の叫び声の主が隠れているかと疑い、捜しているのだと気づいて僕は赤面する。
父は僕が女を隠していると疑っているのか。心外だった。ここは抗弁すべきと腹をくくったとき、父が押入れの奥から錆びてひしゃげたブリキの缶を引っ張り出して僕の出鼻を挫いた。
あらかた剥がれているがその缶の塗装は、明らかに子ども向けの意匠が凝らされてあった。笑顔でビスケットをつまむ幼女の輝きが失せた金髪には桃色のリボン、そこかしこに不明瞭な横文字。このブリキ缶と中身の菓子が外国製であることを示していた。
海軍中将である僕の父は、その風貌とまるで似合わない外国製の絵柄がついたビスケット缶を、長刀の先端で突いた。
「どうしておまえの部屋に、こんなものを隠してあるんだ?」
だからこのビスケット缶に描かれた異国の幼女が真夜中に叫び、こうして自分を煩わせているのだ。父の口調からそんな言いがかりに等しい底意を感じて僕はムッとした。言い返したくなった。ふだんは努めて堪えていたが、いまこの時は堪えきれなかった。
「お母様が、ここに仕舞っておきましょうと言ってくださったのです。中等部に上がった年でした。マリアンヌという人が船に乗って、赤ん坊の僕を連れてきたことを、話してくれました」
「なんと。あれがおまえにあの女のことを、話したと言うのか。しかも中等部だと。一体全体何年前から、おまえは知っていたんだ?」
「僕の目が片方だけ青いのは、マリアンヌという人から生まれたせいだとわかって、ようやく納得できました、そのときの、僕なりに」
「私はあの女の下船を許さなかった。迅速に判断し、即刻出航するよう船長に命じたのだ。妻はあの場にいなかった。港に来たことさえないはずだ。自分の目で見てもいないことを、どうしておまえに話せたというのか。大方が無責任な又聞きの出鱈目に決まっておる。そんなものを真に受けてはならんぞ」
「お母様は、ビスケット缶を仕舞っておく理由を教えてくれました。いつか、僕がマリアンヌさんを探したくなったとき、目印になるものを持っていたほうが絶対にいいからと、棄てずに取っておいてくださったのです」
途端に父はなにやら咆哮し、すでに充分みすぼらしいビスケット缶を真っ二つに斬り捨てる勢いで軍刀を振り上げた。が、それがブリキ製であることに思い至り、大切な軍人としての装備品に刃こぼれを拵えては一大事と断念した。軍刀は鞘に納められた。
「しかし利土里。おまえはあの女が叫んだ言葉を覚えていたのか。それとも、どこかのだれかの減らず口から、聞かされたか」
「なんのことを言っておられるのか、さっぱりわかりません」
「ついさっき、『ユンゲ(Junge=男の子)』と叫んだのはおまえだろう。ほかにはだれもいないのだ。まるであの女が乗り移ったように、そっくりな声だった。赤ん坊のおまえをこのビスケット缶に詰め込み、船の上から海に落として私に叫んだあの声だ。
『男の子よ。欲しいでしょう。あなたにあげるから拾って』などと、事もあろうにあの女は言い放った。しかし幸いにしてドイツ語だったので、部下や港湾関係者には詳細を知られずに済んだ」
「そのマリアンヌさんの目は、両方とも青い色ですか?それとも僕みたいに片方だけ、別の色なのでしょうか…」
「考えてもみなさい。いくら港の中でもこんなちっぽけなブリキの缶に、赤ん坊を入れて投げ落としたのだぞ。私が果敢に飛び込んで掬い上げるまで、さほど流されず沈みもせず、波間にぷかぷか浮いていられたのは、まさしく神の恵みのような奇跡だった。
まったくもってひどい仕打ちをする母親だ。しかし利土里、おまえは並外れて光るものを持った子だった。無情な母親の手から私のもとへ逃れ来て、こうして無事に育ち、医学まで修めた。
やはり、この私の子だ。戸籍上は養子としたのが今となっては若干残念だが、当時はそれよりほかに為す術がなく、最善の策だった。悪く思うな。なに、戸籍などは単なる世間向きの手続きだ、どうにでもなる。実子と養子をやりくりして帳尻を合わせるくらい、由緒と名のある家に於いては代々ふつうに行われてきたことだ。恥じるには及ばぬ。堂々と胸を張って自信を持て。真夜中に女の声色で叫ぶなど、女々しい真似はしてくれるな」
思いがけなく朗々と熱弁をふるった父は、もはや疲れ切ったと言わぬばかりに両の瞼が閉じかけていた。軍刀を杖代わりにしてようやく立っているものの、ときおり頭がぐらつき、いまにも寝落ちしそうな有り様だ。しかし、いつになくその口は緩い。もうひと押しを試みる甲斐はありそうだと、僕は踏んだ。
「世乃子姉さまは、どちらかへお出かけなさったのですか?」
毎日僕の帰宅に合わせて夕飯を調え、一緒に食してくれる四番目の姉が不在だった。今日で三日目になる。かつてなかったことだ。心やさしく聡明な世乃子姉は、僕が幼いころからよく世話をしてくれた。故にその不在は殊のほか寂しく、気がかりだった。
実はほかの姉たちも一人また一人と、いつの間にか姿も気配も消えた。僕はすぐ異変に気づいたが、口にするのは憚られた。“嫁に出した”と、父が客人に話すのを小耳に挿んだ。それきりだった。それきり五人の姉たちとは会えていない。
世乃子姉は歩くとき、ほんの少しだけ左の脚を引きずった。不揃いな脚を生まれ持ってしまったのだ。そのため“嫁には出せない娘だ”と、父が母に言うのを聞いた。
幼い僕は喜んだ。世乃子姉はどこにも行かない。ずっと家にいてくれる。ずっと僕と一緒にご飯を食べ、おしゃべりをして笑ってくれる。心細く不安な気持ちが吹き飛んだ。嬉しくてホッとした。
閉じかけていた父の両目がカッと見開いた。一気に眠気が失せたようだ。寝間着姿なりに、精一杯の威厳を正して語り始めた。
「この機会に伝えておく。今般、私は妻を離縁することと相なった。あれはすでに郷里に戻った。世乃子に供をさせて行ったのだ。どのみち“嫁には出せない”娘であるから、若いだけが取り柄の今のうちに、身を処してやった」
「もう戻って来られないのですか?お母さまも世乃子姉さまも?」
「来るものか。妻は地元でまずまずの旧家の後妻に納まった。とは言ってもあの通り、四十路をとうに過ぎた枯れ尾花だ。まだ若い娘を供につければこその、縁談成立だった。片脚を引きずっていても、夜伽の務めは果たせるからな。よってこの家に、あの者たちが戻る場所はもうないのだ」
僕は頭の中で父の言葉をなぞり、反芻する。隠された言外の意が露わになる。真夜中の思考にじわりと浸み込んでくる。まさかそんな。信じたくない事態だ。わが家のだれよりも聡明で思慮深い、世乃子姉の辛酸と無念を思う。僕は吐き気を催したが、どうにか抑え込んだ。
けれども。
腐臭漂う汚泥のようなこの話には、まだまだ続きがありそうだ。心底むかつくが、知っておかねばならなかった。
「それではお父様も、いずれ後添えの方をお迎えになるのですね」
「まあそうだ。ところで利土里、おまえも来春には研修期間が満了して、ついに一人前の医者となるのだな。喜べ。めでたいことに、早くも入隊の内示があったぞ。しかもただの軍医ではない、将校の身分が約束されておるのだ。なに、前線に立つには及ばぬ、将校だからな。後方にあってよくよく学んだ暁には…」
「入隊後でも休暇の折には、僕はこの家に帰って来られますか?」
「もちろんだ。後添えには九歳の子があるのだが、優秀なおまえから勉強法を授けてもらうのを楽しみにしておる。山尾家の嫡男としての心構えなど、教えてやってくれ。なに、留守中のおまえに代わる者としての、覚悟やらなにやらのことだ」
僕はその九歳だという、表向きは連れ子の名前を問うた。父は悪びれるでもなく、誇らしげに高らかな返答をよこした。
「カンタロウと名付けた。寛大の寛だ」
「寛太郎くんの目は、ふたつ揃って同じ色ですか。それとも…」
「いや。両目とも同じだ。私と同じ濃い茶色の、一般的な日本人の目をしている。そういえば、おまえを投げ捨てたあの女だが…」
「はい」
「あれの目も、ふたつ揃って同じ色だったぞ。闇夜のごとくに真っ黒で、墨汁を流し入れたような、なにも映さない目だった。西洋人だというのにな。まあ、先祖はどこから来たものか、わかりゃせんが」




