(終章 6-3) 利土里×山田衛士
(終章 6-3) 利土里×山田衛士
自動ピアノが奏でる“エリーゼじゃないほう”の演奏に、僕は浸っている。この数日は連続してここへ通っていた。真夜中に父と交わした会話以来、心がざわついてどうにも鎮まらない。来ずにはいられなかった。“エリーゼじゃないほう”の旋律が必要だった。
あの翌日にはマリアンヌのビスケット缶を持参した。於兎の部屋に置かせてもらおうと思ったのだ。父の家にある“僕の部屋”はもはや安全ではなく、留守中に紛失しそうな気がしたからだった。
自動ピアノが“エリーゼじゃないほう”を奏でて一巡する間に、ビスケット缶を用いて決行された僕の日本上陸の顛末を、山田衛士に話した。養母と世乃子姉を一括りに、欺瞞で塗り固めた“嫁入り”のことも包み隠さず話した。聴いてもらったと言うべきか。初等部以来続いている長い付き合いの集大成のごとくに、洗いざらい打ち明けた。“エリーゼじゃないほう”の深遠な旋律に鼓舞されたからこそ、為し得た告白だった。
山田衛士はわが家の滑稽な恥の逸話を、慎ましく微笑みながら聴いてくれた。マリアンヌさんは大した女性だと思うよ。つくづく感嘆したように、感想を述べてくれたのがありがたかった。けれども、僕の入隊が来春に迫っているというくだりになると、その表情はキリリと引き締まって一変した。
山田衛士は心ここにあらずの体で、そのまなざしは僕を通り越し、天井の一隅でなにかを探すように彷徨った。考え事に深く嵌り込んだとき、山田衛士は大体いつもこんな顔になる。僕にはお馴染みの“ヤマダのマジ顔”だった。
あのな、利土里。
山田衛士がその口を開きかけたとき、どどっと怒涛の勢いで廊下を走る複数の足音が雪崩れ込んで来た。何事かと見遣れば、於兎とオトくんが競り合い、そのふたりを蛯子川美香さんが追う恰好で駆けて来る。三者とも、真剣勝負の全力疾走だ。
先頭の於兎は、勢い余って僕に体当たりした。小さく柔らかなその身体を左の腕に抱きとめ、同じくらいの背丈のオトくんを右腕に受け止めようと構えた。するとオトくんは自力で一歩手前に転がり、恥ずかしそうにモジモジしながら親指をくわえた。代わりに美香さんのワンピースの柔らかな生地が、僕の右腕を掠めた。
四歳かそこらの子どもにしては、ふたりとも破格の速さだった。僕は目を瞠り、舌を巻いた。子どもたちの速さにも驚いたが、それ以上に魂消たのは、やはり、蛯子川美香さんの走りっぷりだ。
美香さんはいつもの長い巻き髪と、丹念に描いた弓形眉と猫目張りと朱色の花びら唇でぴしりと決め、どれひとつも手抜きはなかった。その上で、ワンピースのフレアスカートをバサバサとはためかせ、本気の走りをやってのけた。さほど息を切らせていないのが、さらに驚きだった。美香さんは僕と目が合うなり、控えめに微笑んで身を引いた。
僕の腕の中で身をくねらせた於兎は、ポケットから懐中時計を取り出し、しかつめらしく眺め、厳かに告げた。
「於兎が一等賞だよ。ええと、4足す17秒」
松枝侯爵の遺品である懐中時計は、最早ピクリとも動かない。事故当日の4時17分に止まったきりだ。たまさか動いて時を刻んだとしても、幼い於兎はアナログの時刻を完全には読めない。ただ、4と17を知っているだけだ。
「すごいな。於兎もオトくんも美香さんも、みんな速かった」
「於兎が一等賞だよ」
「ああそうだ。於兎が一番だった」
「トーキョーオリンピックはいつあるの?於兎も出られる?」
「いつかはあるさ。たぶん。二十五年くらい先かも知れないが」
「それでもいい。トーキョーオリンピックに於兎は出る、絶対出る」
会話しながら僕は気づいている。昭和十一年生まれで今年四歳の於兎は、二十五年後の昭和四十年(1965年)には二十九歳になる。そんな年齢のオリンピック出場者が、しかも女子の陸上選手があり得るか?あると言ってしまったら、それは無責任な嘘っぱちになりそうだ。
たとえ五十年後であっても、この国でオリンピックが行われるなど、万に一つもありそうにないことだと、僕は考えている。それなのにまたしても空手形を振り出し、子ども相手に気休めを口走った。
二十五年後という数字にも、なんら根拠はなかった。四半世紀という区切り方があるから思いついただけ、おそらく見当違いも甚だしいだろう。目下オリンピックと駆けっこに熱中している於兎が、キラキラ輝く瞳で僕を見上げるたび、実はチクリと胸が痛むのだ。
昭和十五年の今年は、東京オリンピックが開催されるはずだった。しかし、僕たち国民には知らされない事情があったらしく、我が国は開催権を返上し、東京オリンピックは中止となった。当事者にとっては苦労の末にようやく勝ち取った開催権だろうに、そのことについて語り合うのさえ、この家の外ではご法度だった。
〈注:東京オリンピックは二十四年後の昭和三十九年(1964年)に実現した。利土里が咄嗟に思いついた“二十五年後”は、それほど的外れではなかったことになる〉
なにしろ於兎は、僕たち“オトナの男”と走りたがる。子どもたちに勝ち、美香さんにも勝った以上、次に勝つべきは“オトナの男”だからだ。しかしもちろん、僕も山田衛士も手加減はしなかった。
僕たちは全力で走った。結果、すばしっこい小型犬のような於兎を僅差でかわした。“オトナの男”の面目は辛うじて保たれた。そしていまは、疲れ切って寝落ちした於兎の寝顔を二人で眺め、あがった息を鎮めているところだ。
「畜生、脚が攣った。痛たたた。おまえはよく平気でいられるな」
山田衛士は片脚を押さえて呻き、のたうつ。
「平気じゃないが。おまえよりは脚を使って生活してるからな」
「それだ。なんせこっちは四六時中座りっぱなしの会計士だ。圧倒的に体力面で及ばない。いや、平均値よりかなり劣ってる」
「なにが言いたい?」
「真実、というか実体だ」
「だれの?」
「オレの。決まってるだろ」
山田衛士がボヤキ始めた。その胸に巣くっている悩みは、思うに任せないあのことに違いない。僕はいっそ単刀直入に訊いた。
「サチさんに求婚したことはあるのかい?」
山田衛士は即答した。口ごもりもしなかった。
「あるさ、もちろん。だいたい年に一度はしてる。春生くんの命日が来るたびに、一応確認の意味でするんだ。だから少なくとも、通算して五回は求婚したことになる」
「五回か。サチさんの返事は?」
「『結婚はまだできない』んだと。『ダメ』でも『ムリ』でもなくて、『まだ』がつくのさ。言外に希望の含みがあるだろ?四回目まではそれだったんだが」
「だが?」
「五回目の今年は、『於兎が一年生になれたらね』だった」
「なれたら?」
「なったら、じゃなくて、なれたら、だ。忘れんな。於兎は松枝侯爵家の跡取り息子であらねばならない」
「ああそれか。アホくさい伝統の縛りだな」
「まったくだ。アホくさいことこの上ない。アホくさついでにオレが温めていたプラン①を聞いてくれるか?於兎がまだ赤ん坊だった頃に考えていたことさ。
花街に行けば男の赤ん坊くらいすぐ手に入る、母親つきで。存在はしないが父親の素性たるや折り紙つきだ。やんごとないご身分である殿様のご落胤という触れ込みで、公然の秘密なのさ。まあ、たぶんに眉唾な話ではあるが。
その母子をサチさんと於兎の代わりにこの屋敷に置いて、オレは二人を引き連れ旅に出る。なんてことを考えていたんだ。アホくさいだろ?」
「いいや。アホくさいというよりアオくさい。危うい感じがする」
「それだ。まさに危ういのさ。サチさんはつつじヶ丘を離れるどころか、オレと一緒になる決心さえついていないのに。オレはといえば会計士業務以外に就労経験がなくて、この通り基礎体力も乏しい。女子どもを連れての長旅を敢行できるか、実はわからない。自信もない。ナイナイづくしだ。
いまさらだが、つくづく思い知ったことがある。どうやらオレは“旅に出ない”側の人間らしい。中等部の頃に読んだ歴史の雑学本、覚えてるだろ?昔々、古代人の集落が生存の危機にさらされたとき、新天地を求めて旅に出た人々が一定数いた。彼らにその勇気と行動力があったからこそ、人類は絶滅しないで済んだという主旨の、あの本だ。授業で使った教科書より、よっぽど面白かった」
「ああ、あれか。うん、面白かった。でもたしか、居残った人々が死に絶えたとか、旅に出た人々が全員生き延びたとか、断定してはいなかった。そりゃそうだ、そんな記録があるわけじゃないし。あくまで推論の雑学だった」
「だから面白かったのさ。未だに覚えていた。この危機に直面してつくづく身に染みた。なあ利土里。サチさんとオレは、紛うかたなき“居残り組”なんだ。未知の土地なんか行きたくない。生涯見ないままでいい、ちっとも損したとは思わない。それよりか、知らない土地を当てもなく彷徨う破目になるほうが怖い。真っ平ご免だ。
於兎はこの通り、子どもらしい活力と好奇心に溢れている。いまのところは、オリンピックとクーベルタン男爵の寓話に夢中だ。こいつにとって“嫁に行く”とは、どこか遠くのおとぎの国へ行ける素敵なことなのさ。どういうわけか、そう思い込んでしまっている。
ただ、たしかに於兎は“旅に出た人々”の側の気質を備えている。まるで、早逝した父親の春生くんの分まで、旅に出たい望みを持って生まれてきたようだ。オレにはそんな気がしてならない。
ぐずぐずしていたら、もうじき於兎は就学年齢の六歳になる。一年生になれば否応なく、女の子だってことがバレる。相続は取り消されてパァ、下手したらオレは懲罰をくらって、投獄されるかもしれない。痛たた。おい、医者だろ、この脚なんとかしてくれよ」
山田衛士は攣った脚を抱え、この世の終わりのように呻いた。対して僕は曖昧な相槌を打ち、ごく当たり前な臨床的助言をするしかない。
「脚が攣る原因は、たいてい水分不足だ。じきに治まる」
「原因なんかどうでもいい。この痛みを今すぐ止めろ」
「ひたすらガマンだ。今日からは酒の代わりに水を飲むといいよ」
「くそ。今すぐなんかやってくれ」
やむなく僕は山田衛士の脚をグイとつかみ、持ち主の悲鳴と罵詈雑言を無視して左右に振った。ほどなくして、悲鳴は止んだ。
僕は於兎の額を撫でてみる。よく眠っていた。人の気配や大声のする環境にあっても、問題なく眠れる体質のようだ。
山田衛士も眠る於兎の頬に触れ、人が変わったように穏やかな口調で言った。
「爆弾が落ちても起きない子だと、サチさんが言ってた」
「いくらなんでも爆弾はムリだろ」
「ああムリだ。起きるか起きないかの前に死んでしまう確率大だ」
「なにが言いたい?」
「プラン②だよ。なあ、利土里。入隊するな。職業軍人のオヤジさんが言うことなんか真に受けるな。前線でも後方でも弾丸は飛んで来る。爆弾も降って来る。今日当たらなくても、明日はきっと当たる。そんなところへ行くな」
「…オレだけじゃないさ。いずれはだれにでも招集令状の届く日が来るだろう。おまえにだっていつかは…」
「かもな。だとしても、おまえが先に行くのは駄目だ。見送るのは嫌だ。なんでかなんて訊くな。考えただけでムカついてくるんだ」
そこで山田衛士はふっと声をひそめた。
「逃げろ。いまのうちに」
しばらくの間言葉が出なかった。僕はただひたすら、健やかな於兎の寝息に耳を澄ませた。自動ピアノが奏でる“エリーゼじゃないほう”の演奏はとっくに終わっている。静かだ。静寂も過ぎると耳に痛い。鼓膜に圧を感じる。
僕は認めなくてはならない。山尾家には寛太郎がいる。両方とも父と同じ濃い茶色の目をした、完全無欠の嫡男だ。マリアンヌ譲りではないと父が言う、片方だけ青い目を持つ僕は、六人の姉たちと同様、すでに無用の長物なのだ。
「そのプラン②は、いつから温めていたんだ?」
「たったいま思いついた。全然温まっていない。おまえに死なれたくない一心でひねり出した。訂正の余地は大いにある。さっそく訂正しよう。“逃げろ”はナシだ、一旦忘れてくれ。おまえはただ、マリアンヌさんを探しに行くんだ。於兎を連れて、あのビスケット缶の突飛な使い方を編み出した母親に会うべく、旅に出るのさ」
僕の心は動いた。否応なく、ぐらりと音立てて傾いた。それでも。どこか無理があるような気がしてならない。けれども。きっとあるだろうその無理は、僕に不安や恐れをもたらさない。むしろ。乗り越えてみせようという気をそそってくる。
「さっき走っていたオトくんが、於兎の代わりになる子か?」
「そうだ。父親は不明だが母親は納得済み、生来の気立てはいい子だと思う。イチかバチかだけど。それを言えば実の子だって、育てた結果がどうなるかは、やってみなけりゃわからない。イチかバチかは、どっちでも同じだ」
「総じてわるくないと思うよ、そのプラン②。しかしな。於兎はオレに懐いているといってもまだたったの四歳で、そのうえ女の子だ。母親代わりに充分な世話をしてやれる気は、全然しないんだが」
「そりゃそうだ。オレだって出来ない。そもそもの初めから、親子を装った三人での船旅を想定していたんだ。けど、居残り組のサチさんとオレが、旅に出るのがムリなことはすでに明らかだ。だから次善の策としておまえだ。おまえと…」
「オレと?」
「蛯子川美香さんだよ。決まってるだろ。ふさわしい女性がほかにいるか?補欠なんかあり得ないだろ」




