(5-2-2)
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「昭ちゃん?ねえ、どうしちゃったのよ、そんなところに寝たりして」
地面に転がったワタシの視界は、駆け寄る美香の素足が迫り、ふさがれた。ふだんはまず、見ることが出来ない角度のいい眺めだ。つい、見惚れてしまった。美香のふくらはぎはむっちりと肉厚だが、その先端の足首は意外にもキュッと細く締まり、駆け寄る躍動感を強調して美しかった。
ワタシは新たな発見に感動していた。美香は女としては大柄だし、本気で走れば思いのほか、足が速いかも知れない。細いベルトがついた赤い靴の足を前に蹴り出すたび、同じ赤の小花を散らしたフレアスカートが、バッサバッサと勢いよくめくれ踊った。それでも、そんなことには一切お構いなし、美香は息せき切ってワタシのもとへ駆けて来る。
「どこ行ってたの?家に帰ったら昭ちゃんもイトウさんもいないんだもの、びっくりしてあちこち探しちゃった。あら、やだ、怪我したの?血が出てるみたい、転んだの?どうしよう。利土里センセイに来てもらう?それにしても、まず家に帰らなきゃ」
美香はまるで看護婦のような口調で、テキパキと畳みかけた。そういえばワタシの店に来る前は、見習い看護婦だったと聞いたことがあった。採用面接のときだったか。もっと後、打ち解けた仲になってからだったか。いずれにしても、そのときは軽く聞き流した。どうせろくに勤まらず、すぐ辞めたのだろうと、思ったからだ。
ワタシの店に流れ着くオンナたちの経歴は、概ねそんなものだ。たとえ短い間でも別の真っ当な職場で勤まるようなら、ワタシの店のオンナにはなるまい。それがワタシのオンナたちに対する解釈であり、世間の大方の道理に当てはまる基準だった。
ところがどうだ。いまこうして雑木林の中の散歩道にへたり込み、脱力しているワタシの前に膝立ちした美香は、ためらう素振りもなく額の流血の跡をたどり、傷口を探している。
その手際のよいことといったら、元見習いなんてものじゃなかった。まるで数十年も現役を勤めた熟練の看護婦ではないかと、見紛うほどに滑らかなのだ。
「変ねえ。たしかに血が出たみたいなのに。肝心の傷口が見つからないなんて、そんなことある?ねえ、おでこ痛い?これって、ほんとに昭ちゃんの血かしら。まさか、もしかしてあたしの口紅かなんか、おでこに塗ったりした?」
「なんでワタシが、そんなこと、せにゃならんのだ」
「だから。ふざけてビックリさせる気だったとか。まあ、ないよね?」
「あるわけない」
けれども、この世の人ではない青年の額に、ワタシのものらしい傷がパックリと口を開いた瞬間はこの目で見た。たしかに見たのだが、口にするのは憚られた。口紅を塗った云々のふざけた悪戯よりも、さらにいっそう憚られる事態だ。そこでワタシは、この件に関して一切口をつぐむことにした。
熟練看護婦的な手つきでワタシの頭皮を撫でさする美香の指先の感触と、甘い歌声のような軽口のさえずりが心地よかった。あまりにも心地よくて、このまま眠ってしまいそうだと思ったとき、美香がいきなり素っ頓狂な声を上げた。
「だれ?この子、どっから来たの?昭ちゃんの知ってる子?」
ああそうだった、子どもがいたのだった。やっぱり本当にいたのかと独り言ちながら、ワタシは渋々身をよじって背後を見た。子どもはワタシのベルトにしがみつき、上着の裾を被っていた。いわば、頭隠して尻隠さずの体だ。そして先刻と同じように、泣きも笑いもしない顔を上げ、至極平坦なまなざしでワタシを見た。いかにもつまらなくて仕方なさそうな、にこりともしない仏頂面だった。
しかしそのあと、美香を見上げた子どもは、目をパチクリさせて二度見した。濃いめの化粧を施した外出用の顔と、胸もとで揺れる長い巻き髪を見つめ、次いで、赤い小花模様のワンピースをしげしげと見た。いたく気に入った様子だが、それよりなにより子どもの目を奪ったのは、美香が履いている赤い靴だった。
子どものまなざしが自分の足元に落ち着いたところで、美香はやさしく話しかけた。ふだんよりも高めだが、耳障りなほどの高さではない、小さな子どもをあやすのに最適な高さの柔らかな声だ。
「ねえ、ずっとこの小父さんについて来たの?転んだとき、どこか打たなかった?どこも痛いところない?」
「ない。おじさんがゴッツンしないように、ひっぱってあげたんだよ。それ、かわいい、あかいくつ」
「あら。そうだったの。ねえ、可愛い靴が好きなのね?あたしも好きよ。この靴はね、メリ―ジェーンという名前があるの。あたしの名前は美香っていうんだけど、あなたのお名前は?」
「おと」
「オトちゃんは、いくつですか?」
「ええと、みっつ」
「三歳なのね。オトちゃんはどこから来たの?」
「わかんない」
「そっか。じゃあ、オトちゃんのおうちはどこにあるの?」
「わかんない」
「それじゃ、お父さんとお母さんがどこにいるか、知ってるかな?」
「しらない」
事程左様に、子どもはなにを訊かれても、素っ気ないたったひと言を発して首を振るばかりだった。辛抱強い美香もさすがに深い吐息をついて目を泳がせ、助けを求めるようにワタシを見た。
「どうしたらいいのかな?ねえ昭ちゃん、駐在所に連れて行く?」
それはまずい。この子を迷子として警察に届けようにも、一体全体どこで出会ったのか、説明のしようがないから、まずいのだ。父親らしき青年に連れて帰ってくれと頼まれた、だから連れて来た。そんな言い分が通用するわけがないのは、明々白々だ。
「警察へ行ったら、根掘り葉掘り訊かれる。しかし、ワタシはなんにも覚えてないから、ろくに答えられない。怪しまれるかも知らん」
「なにを?」
「つまり、ワタシが誘拐かなんか、したんじゃないかと」
「まさか」
「いや、わからんぞ。奴らは物事をわかりやすくまとめるのが好きだからな。こんなご時世だし、ワタシみたいな年寄りの金持ちが、若くて美人の妻を連れて、ややこしいハナシを持ち込んで来たら、さぞかしムカつくだろう。で、腹いせにぶち込みたくなるかも」
「あら。そんなことが、あったみたいな言い方」
「まあな、大昔だったが」
現役時代のワタシなら、駐在所へたどり着くまでの間に、尤もらしいハナシを三通りくらい、でっち上げてのけたかも知れない。
しかし、いまはもうムリだ。とりわけ今日のこの事態は摩訶不思議、さらには複雑怪奇で手に負えない。老いと病の靄が色濃くたちこめるワタシのこの頭から、駐在所の巡査を納得させるに足る、筋の通った説明を捻り出せる気はしなかった。そのことがまた、癪に障ってイラつく。そんな気分を誤魔化したくて、つい美香に絡んだ。
「しかしおまえ、やけに子どもの扱いがうまいじゃないか。看護婦も悪くないが、保母のほうがずっと向いてるのと違うか」
「かもね。保育所で働いたこともあるって、言わなかったっけ?」
「そうだったか?聞いた気はしないが。なあ、なんか面白くないことでもあったから、辞めたのか?」
「まあね、いっぱいあったけど、なんたって、お給料が少なかったわね。掛け持ちでやってた調理場の下働きと大して変わんないんだもん、ハナシになんなかったわ。
けど、どうせヨメに行くまでの腰かけなんだから、そんなもんが当たり前だって、雇い主の社長さんたちは言ってた。だからね、もし昭ちゃんのお店と同じくらいのお給料をもらえるなら、ずっと保育所で働きたかったな、今更だけど」
数え年でやっと二十四歳になったばかりの、美香が言う〈今更〉にこもった無念の響きが、雨に濡れた稲藁のようにずしりと重く、ワタシの背にのしかかった。返答に窮したワタシが口ごもっていると、思いがけず子どもが脇から口を挿んだ。
「おと、ほいくしょ、いくんだもん」
美香はすかさずその機をとらえ、返した。
「あら。いいわね。オトちゃんは、なんていう保育所に行くの?」
「つつじがおか、ほいくしょ」
ようやく知り得た実在の地名だった。〈つつじヶ丘〉は、ここより山三つ分ほど東方の地域一帯を指す名称だと、ワタシは記憶していた。だが、知っている場所とは言えない。通り過ぎたことはあっても、立ち寄ったためしのない、近くて遠い未知の土地だった。
〈つつじヶ丘保育所〉と連絡がついたら、この子どもの父母の名前と住所がわかるのではないか。美香は真剣に考え始めていた。子どもの父親はすでにこの世の人でないと、知っていたが口に出せないワタシは、もっぱら母親の身の上を思い描いた。子どもが家に帰りたがらないのは、おそらく継父がいるせいだろう。月並みではあるが、子どもの仏頂面を見るにつけても、この解釈はハズレていないはずと確信を持った。
「ねえ昭ちゃん、ほんとに利土里センセイを呼ばなくてもいいの?」
「いいさ。医者に診せるほどの怪我はないし、痛くもない。ウチにはえらく気の利く元看護婦がいるんだし、大丈夫だ」
「元看護婦じゃない、看護婦になってもいない、ただのおバカ」
「そろそろ腹が減ったな。あ、イトウさんは昼で早引けしたんだった。美香ちゃん、なんか飯になるもの買って来たか?」
「そうなの?たまにご馳走しようと思って、イトウさんの分もお花見弁当買ってきたのに。いつもご飯作ってもらうばっかりだから」
「三つあるのか?そりゃいい。なあ、オトちゃん。美香ちゃんはオトちゃんの分も美味しいお弁当を買って来たよ、一緒に食べような」
「うん。おと、おいしいおべんとう、たべる」
「あら。どうしよう。いいのかしら。いえ、お弁当食べるのは全然いいんだけど。オトちゃんのおうちの人たち、きっと心配してると思うから。ウチにいますよって、早く知らせてあげたいじゃない、電話か電報で。番号がわかれば、手っ取り早いんだけど」
「…つつじがおか、はちばん」
「えっ?なんて言ったの、オトちゃん?」
「だからでんわ、オトのウチのばんごう、つつじがおかのはちばん」
「八番、だって」
美香は目を瞠って驚いた。オトと名乗った子どもの家に電話があろうとは、これっぽっちも思い及ばなかった故の驚きだ。ワタシも驚いたが、それは八番という番号に意表を突かれたせいだった。
「えらく若い番号だから、個人の家じゃないかも知らんな」
電話の番号は、地区ごとに割り振られて定まるものだ。大抵はその町の役場が一番、二番は駐在所で三番が消防署、それから学校、診療所といった具合に、公的機関を優先した順序で決まってゆく。
公的機関の次には、町で一番の有力者の名前が登場する。代々続く大地主なり、地場産業の経営者なり、その地区の住民たちの多くを養っている人物だ。ワタシの知見では、有力者たちの電話番号は、概ね十番前後だったように記憶していた。
ちなみに、ワタシのような新興成金の加入者に、この現象は当てはまらない。若い電話番号を望むなら、欠番が出るまで待つしかないだろう。しかし、ワタシは望まないし、こだわりもないから今のままでいい。蛯子川昭三宅は、西高岡五十六番だ。
けれども、一般的な家庭がまだ電話を引いていないのは、ごくふつうのことだ。だから、美香が遠く離れた親元に連絡したいときは、ウチの電話を使って電報を打った。『アシタキョクドメデツク』等々、大抵は家族への仕送りが届く日を知らせる文言を送った。
『朝日のア、新聞のシ、煙草のタ…』、あいうえお順の和文通話表を、美香はそっくりそらで言える。すらすらと淀みないその口調の軽やかさといったら、本物の電報係以上に巧みだ。手紙より早く届くし、確かに送った手ごたえのある感じがいいと言って、美香は頻繁に電報を打っている。
だから美香は、電報のせいだと思っていた。ワタシの不機嫌は、電報電話局に支払う通話料金が嵩んだせいだと、受け取った。実は、ワタシがわざとそんなふうに装っていたのだ。カネのせいにしておけば、とどのつまり、正論を言い返しやすくてラクだった。なんといってもカネは、ワタシのただひとつの得意分野だから。




