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(5-2-1)蛯子川昭三が野茨美香にしたことは


(5-2―1) 蛯子(えびす)(がわ)(しょう)(ぞう)()(いばら)美香(みか)にしたことは


 いつの間にかワタシは、ハルさんの光の並木道に迷い込んでいた。一体どうやってこうなったのか、さっぱりわからない。気持ちのよい陽ざしを浴びて、雑木林の中の散歩道をぷらぷらと歩いていた。それだけのことで、そこまでは覚えがあった。


 ふと見上げて、空を背景にした木立の枝葉が、まるで違った姿をしていることに気づいた。そこでようやく、ここはいつもの散歩道じゃないとわかった。


 ワタシが美香と一緒に住んでいる家のまわりにも雑木林があり、散歩道がある。ワタシと美香の間で散歩をするといえば、あの道のことだ。てっきり、そこを歩いているつもりだった。

 けれど改めて見上げれば、ワタシが美香と住んでいる家のまわりの馴染みの木々とは、姿かたちはもとより、風情からして大いに違っていたのだ。


 木々の背丈はとりどりだったが、逆光のせいで黒々として見える枝葉が整然と、意志を持ったようにからみ合って並んでいる。そんな風景が遥かに遠くまで延々と、果てしなく伸びる道に沿って続いていた。


 木々はどれも、我こそが降り注ぐ陽ざしを漏らさず受けてみせると言わんばかりに、縦横無尽に枝葉を広げていた。まるで観音様のごとく、千本以上もありそうな腕を伸ばして競い合い、頭上を覆っている。空に向かって開いた大きな傘のようでもあった。


 そして、溢れる光だ。四方八方から、強烈な陽ざしが容赦なく降り注いだ。千手観音の傘が連なる木立の下にいても、目を開けていられないほどまぶしい。脳天に突き刺さるようなまぶしさを堪え、老体に鞭打ち、辛うじて足もとが見える程度の伏し目で進んだ。すると、以前にもそっくり同じことをしたのを思い出した。


                   ***



 そうだった。あのときもこんなふうに、溢れる光のまぶしさを堪え、その光を発している方角に向かって並木の道を歩いていた。すると、ワタシの二十歩ほど前方にその人影がひょいと現れた。


 長く生きてきたが、子どもというものに縁の薄かったワタシは、その小さな男の子がいったい何歳くらいか、見当もつかなかった。自分の足で立ち、危なっかしくとも歩いている以上、赤ん坊と呼べないことくらいはわかったが。


 しかしその足取りは、どうにも覚束なかった。それなのに、そばに親らしき人影はない。たったひとりだ。それだけですでに、強烈な違和感を放っている光景だった。

話しかけて何歳か、親はどこにいるかと尋ねてみたところで、果たして返答を得られるものか、それもまた覚束なく思われた。


 ワタシは逡巡していた。どうしてだか頭の中に深い(もや)が立ち込めたようで、うまく働かないのだ。耳の奥にしつこい痺れにも似た鈍痛があった。考えがまとまらず、考えることそれ自体が億劫でならない。子ども相手に気の利いた言葉ひとつ、思いつけない。なんとも情けない有り様だった。


 子どもの面相もわからなかった。紺色のズボンを穿き、髪は坊ちゃん刈りのようなので、男の子だろうと見当をつけたまでだ。可愛いと言えるか、言っていいかどうかもわからない。

 どうするべきか決めかねたが、このまま通り過ぎる気にもなれず(実はくたびれていて、休みたかったのだ)、ワタシは十歩ほど手前で立ち止まり、子どものすることを眺めた。


 子どもは木立の根元に座り込み、下生えの草むらを探っては、拾い上げた何かを無造作に口に入れていた。それが何なのかよく見ようと、三歩ほど近づいた。すると、ワタシの目を避けるつもりか、子どもは拾ったものを急いでポケットの中に押し込んだ。入りきれずにこぼれ落ちたそれは、サクランボの実だった。


 赤く熟したのもまだ黄色っぽいのも頓着せず、一緒くたにして、子どもは次々と口に押し込んでゆく。尋常ではない、危険な食べ方だった。見てしまった以上、ワタシは黙っていられなくなった。


「だれも盗りはせんよ。そんなに急いで食べるな。喉詰まりするぞ」


 ワタシがそう言った途端に、子どもはサクランボの実を喉に詰まらせた。見る見るうちに顔色が青褪め、人形のように平坦だった面立ちが、切羽詰まった苦悶の形相に変わってゆく。


 どうするべきか、筋道立てて考える余裕はなかった。気づいたら、ワタシは子どもの両足をつかみ、逆さまにして振っていた。これでもかと際限なく、背中を叩いた。子ども相手にやり過ぎではないかと迷いつつ、いやこれしかやりようがないと自分に言い聞かせ、関節炎で痛む腕を振り上げては、夢中で叩いた。


 もはや腕の力が尽きるかと観念したとき、子どもは激しくむせてえづき、赤いサクランボの実を吐き出した。丸々と熟して噛み痕のひとつも見あたらない、無傷のままのサクランボだった。


 地面にへたり込んだ子どもは、涙目だったが声を上げて泣くでもなく、ぐったりしていた。それがふいに頭をもたげ、丸く見開いた目を輝かせ、ワタシの背後を注目してつぶやいた。


『ハルさんが来た』


 その人物は忽然と現れた。

まぶしくて顔はよく見えないが、立ち姿と身のこなしから察するに、まだ年若い青年だとわかった。少年の方に近いかも知れない。いずれにせよ、子どもの父親というには若すぎた。しかしだからと言って、兄と呼ぶには大人すぎると思われるのだ。


 年まわりはどうにも不釣り合いだったが、ハルさんと呼ばれたその青年は、ためらいなく駆け寄って子どもを抱き上げ、ひとしきり強く抱きしめた。なだめすかすように、なにやら小声でささやきかける。いかにも、子どもを保護する者に相応しい振る舞いを目の当たりにして、この青年に釈明しなくては、とワタシは焦った。


「なあ、にいさん、聞いてくれ。この子がサクランボを喉に詰まらせて、窒息しそうだったから背中を叩いたんだ。跡が残ったかも知らんが、叩いてやっと詰まりが取れた。ああするしかなかった。あんたがだれか知らんけど、この子の親に言っといてくれないか」


 ハルさんと呼ばれた青年は、子どもと息を合わせたように、二人そろって顔を上げた。あっと思った。涼やかな目元と瓜実形の輪郭と、その他諸々の顔立ちの特徴が、びっくりするほどよく似ていた。もはや尋ねるまでもない、二人の親密さの由来を物語る相似だ。たしかに年まわりは不自然だった。しかし、この二人は間違いなく父子だ。ワタシはストンと腑に落ちた。


 ハルさんと呼ばれた父親は、ワタシに悠然と微笑みかけた。

『わかってますよ。あんたのおかげで、子どもが死なないですんだ。恩に着ます、えびすがわ、しょうぞうさん。バンバン叩いてくれてよかった。オレ、まだこいつを死なせるわけにはいかなくてさ』


 ハルさんの声は周りの空間に広がらず、ワタシの耳の奥に直接響いてきた。まるで精巧な糸電話を通したように、ワタシにだけ聴こえる声だ。そのうえハルさんは、ワタシの名前まで知っていた。


 それでまた、事の次第が腑に落ちた。こうした不思議な出来事について、ワタシは特に世人より詳しいわけじゃないが、あちらこちらで小耳に挿んだことはあった。わりあい頻繁にあった。なにしろ、長く生きてきたのだ。だから、ここがどういう場所なのか、さほどの驚きも覚えず、なんとなしに見当がついた。


 しかし、だとすればワタシはもう死んだのか?いや、百歩譲って死にかけているのか?一体全体、どこでどうなって?なにか突発的な出来事があったはずだ。しかし、それがなんだったのか、まるで思い出せない。そのことに苛立った。


 ハルさんは、口に出していないワタシの問いかけを、聴き取ったかのように言った。


『あんたはまだ帰れるよ、えびすがわさん。オレの子どもを連れて行ってくれたら、あんたは帰れる。それでいいかい?』


 もちろん、帰れるならば異存はなかった。ワタシがうなずくや否や、ハルさんの手が伸びて、ワタシの右腕の肘をつかんだ。思いがけなく強い力でつかまれたと感じた。


 途端に、脳天にズキンと衝撃を感じた。そこで覚醒した鋭い痛みが、右の額から肩を伝って肘へと駆け下りた。残っていた血が額から流れ出し、右の目尻をかすめて涙のように伝い落ちた。


 そうだった。ここに来る前、ワタシは怪我をしたのだと思い出した。いつもの散歩道だった。ワタシはそこで転んだ。どうしてだか、両手がふさがっていたせいで、ひどくまずい転び方になった。額の右側をしたたかに打った。


 さっきから悩まされていた、頭の中に深い(もや)が立ち込めたような、しつこい鈍痛と落ち着かない気分は、転んで頭を打ったせいだったのだ。

 ハルさんはワタシの右肘をつかんだまま、子どもに向かって言い聞かせた。


()()。このおっちゃんと一緒に行きな』

『やだ。ハルさんといる』

『駄目だ。於兎はサチといるんだ。オレのことを内緒にしていられたら、いつかまた、来てもいい』

『うん、来る。またサクランボ、いっぱい食べる?』

『いや。あんなことはもうするな。呼んでやるから、待ってるんだ』


 子どもはうれしそうに微笑んでうなずき、素直にワタシの手を握った。入れ替わるようにハルさんの手が離れた。子どもと見つめ合い、またねと言い交わし、手を振り合った。


 意識が途切れる間際、ワタシはハルさんの右の額から目尻に、一筋の血が流れ落ちるのを見た。不思議だった。この世のものでない人たちも怪我をし、血を流すのか?しかもそこはワタシの傷口とほぼ同じ個所だ。妙なことだと思いつつ、恐る恐る自分の傷口に触れたとき、遠くでワタシを呼んでいる美香の声が聴こえた。







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