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於兎 (5-1)

(5-1) ()()


 サッちゃんに手を曳かれて()()は、ゆうべ積もった雪に(くる)まれ、まぁるくなった丘を斜めにくだってゆく。もともと丸い形の丘だけど、ふわりと積もった雪に包まれたら、前よりもっとまぁるくなった。つるりとして可愛らしい真ん丸さだ。


 つつじヶ丘にこんなにたくさんの雪が積もり、真っ白に変わった景色を見たのは初めてだ。つつじヶ丘のちょうど真ん中あたりに建っているおうちの窓から、背伸びして上の方を眺めた景色は、深々と静まりかえってただひたすらきれいだった。ここより上におうちはなく、人の姿もないからだ。


 けれども反対側の丘のふもとに目を向ければ、村の人々の気配が(ただよ)いのぼって来た。とりわけ、子どもらの声。なだらかなふもとの斜面で雪遊びに興じる子どもらの、楽しそうな叫び声や笑い声。誘われて於兎は窓からそっと身を乗り出し、目を凝らした。


 なんとまあ、子どもらは板切れのようなものに(またが)り、斜面を滑って降りようとしている。乗り損ねて雪面に放り出された子どもを置き去りにし、板切れだけが勢いづいてまっしぐらに滑り落ちる。放り出された子どもはもんどりうって転がり、雪まみれで追いかける。やっとこさ板切れをつかまえる。それを引きずってまた、斜面を一歩ずつ踏みしめ、のぼってゆく。


 なんて面白そうなんだろ。於兎は思う。そして、自分もあれをやってみたいと、腹の底から突き上げるように思った。だから勇気を振り絞って、サッちゃんに言ってみた。


「あれ、やりたい」

(そり)遊びのこと言ってんの?於兎、やったことなかったっけ?」


 あるわけないよ。於兎は唇を(とん)がらせ、心の奥底で密かに思う。だれも教えてくれなかったから、きょう見て初めて知ったのだ。

そういうことは、わりとよくあった。最近になってふっと気づいた。このサッちゃんが教えてくれなければ、於兎はあれもこれもなんにも知らない子どものまま、いくつになっても真っ白なのだ。


サッちゃんは電話を架けた。

「母さん?あのね…」

呼びかけたそのひと声で、相手は滝田のおばあ様だと知れた。わりと高めに声を張って、サッちゃんはさらに言った。

「納屋にしまってある、あたしのナベソリ探してくれない?於兎がやりたいって言うから」

ナベソリとは一体どんなものか。於兎には見当もつかないナゾの言葉が放たれた。

「それと、あたしが小さいときに履いてた長靴、そうそう、あの赤いやつ、まだあるよね?毛糸の手袋と帽子も持ってきて、於兎とあたしの分、引き出しにいくつも入ってるでしょ。なるべくきれいなやつ、だれかに持たせて寄越してよ、急いで」


 於兎はサッちゃんの手を借りずに、一人で紺色のズボンを穿いた。自分でやってみなさいと言われたので、やってみた。後ろ前を間違えないように気をつけて、穿けた。うまく出来た。

次いで青色のセーターを頭からかぶったとき、廊下からサッちゃんの声が聴こえた。高く張ったキンキン声だ。


「わ。母さんが来たの?お遣い頼める孫たちなら大勢いるでしょ」

「そりゃ孫は大勢いるけど、遊んでる子は一人もいないよ。学校行ったり雪かきしたり、いくらでも用事はあるからね」

「あー、これこれ。ちゃんとあったんだね、あたしのナベソリ」

「あんたのソリなのかい?これは百年以上も昔から村の祭りのときに山菜汁つくって、みんなに振舞うためのナベだったよ」

「やめてよ母さん。底に穴が開いたのも、取っ手が片っぽもげたのも、あたしのせいじゃないでしょ。百年以上も山菜汁つくったから穴が開いて、あたしのソリになったんでしょ」


 青いセーターをかぶった於兎は、二人の声高なやりとりを聴きながら、頭の出口を見つけられずにもがいた。すると駆け寄ってきただれかの手が、勢いよく青いセーターの裾を引っ張り下ろした。てっぺんの出口から飛び出た於兎の頭の真ん前に、滝田のおばあ様のお顔があった。

「あらあら大変、おへそが見えちゃいますよぉ、於兎ちゃま」


 おばあ様は歌うように言いながら、大きすぎてずり落ちそうな於兎の紺色のズボンをぐいっと引っ張り上げた。紺色のズボンのゴムベルトは脇の下まで伸びて、青色のセーターとその下にあるはずの於兎のおへそを、しっかりと包み隠した。


 それから滝田のおばあ様は、ずずっと三歩分ほど後ずさった。上体をぺたんとふたつに折って額を床に擦りつけ、すっかりお馴染みになったいつもの口上を、またしても朗々と述べた。


「於兎ちゃまには本日もご機嫌うるわしゅうて、(ばば)はなにより嬉しくありがたく、存じおりまする…」


 こんな具合に滝田のおばあ様だけが、於兎に向かってちょっとばかり大袈裟な土下座をしてくれた。やっと目が開いた赤子の時分から四歳になった今日まで、いつ会ってもそれが何度目であっても、そのたび滝田のおばあ様は於兎にぺたんと土下座をして、同じような口上を述べてくれるのだ。


 するとそのたびに、サッちゃんは言った。

「もうやめてよ母さん。それ、仰々しくて古臭くてきまりが悪いわ」サッちゃんは何度も言ったのに、滝田のおばあ様は平気の平左、馬の耳に念仏、一向にやめようとはせずに言い返す。


「あらま。なんたって於兎ちゃまは、侯爵様の若様でいらっしゃるのでしょ?そりゃまあウチの孫には違いないけど。それにしてもほかの孫たちとは、段違いの桁違いの大違いだわ。いまのうちからきっちりと、ケジメつけておかなくちゃね。それこそが、この世の中の正しい道理ってものだわ」


 滝田のおばあ様はもと来た道を、つつじヶ丘の南側の斜面をくだって帰る。滝田のおうちがある集落へ行き来するとき、みんなが通る近くてゆるやかで安全な道だ。ナベソリと長靴などを届けてくれたお駄賃に、サッちゃんから貰った洋菓子の詰め合わせの箱を大事そうに抱え、滝田のおばあ様は軽やかに弾む足取りで、帰り道をくだってゆく。


 こうして滝田のおばあ様を見送ったサッちゃんと於兎は、いよいよ北側の斜面にゴム長靴の足を踏み入れたのだった。サッちゃんがどんどん行くので、手を曳かれた於兎は否応なくつき従って行くしかない。それというのも実のところ、於兎の気持ちはあんまり進んでいなかった。なにしろそこはみんなが通らない、つづら折りの道だったから。


 ふだん於兎はこの道を通ってはいけないし、この辺りで遊んでもいけないことになっている。それが決まりだった。だから於兎はさっきから、その決まりのことをサッちゃんに言いたくてたまらない。今日だけ破っていいのか、それともこれからはずっといいのか、ちゃんと訊いておきたい。


 だって。

衛士さんも敏江おばちゃまも利土里(りどり)センセイも、だいたい同じような意味合いのことを、それぞれの言い方で於兎に告げた。遠まわしだったり、オブラートに(くる)んでいたり、真綿ごしだったり。いろいろだが折に触れては繰り返し、何度も言い聞かされてきた。


 つまり於兎は、北側のつづら折りのこの道から、つつじヶ丘をくだってはいけないのだ。なぜか知らないが、わりと厳しめに禁じられていた。於兎はいまそのことを、サッちゃんに言いたかった。よく知ってるはずなんだから、ぜひ思い出してもらいたいのだ。


 そればかりを考えながらサッちゃんに手を曳かれ、つづら折りの一段目をくだってゆくうち、於兎はふと気づいた。どうやらいまはトクベツなときみたいだ。そもそもこんなふうに、サッちゃんと手を繋いで外を歩くこと自体が珍しく、於兎の心はすでにトクベツ感でいっぱいだった。


 加えて、おうちからどんどん離れてゆくこともトクベツ感を倍増した。なにしろ今日は白い雪がいっぱい積もり、つつじヶ丘の姿を変えたトクベツな日だった。きっともっとなんか、トクベツなことが起こりそうな予感がする。起こってくれたらいいのにと、願う。


 生きものらしき足跡のひとつも見当たらない、所々吹き溜まって波打つ雪の斜面を、サッちゃんは足早にサクサクとくだってゆく。おぼつかない於兎の足取りに合わせて、ときどき立ち止まる。於兎が転びそうになったら、思いがけないほど素早く力強く、片手だけでしっかりと支えてくれた。もう一方の手は、百年越えのナベソリを曳いていたからだ。


「かかとじゃなくて。ほら、つま先に力入れて、ガッと踏むの。そうしたら滑りにくいし、転びにくいからね」


 じれったそうにサッちゃんは、早口で於兎に小言を浴びせた。けれどその声は、もうカン高いキンキン声じゃない。低めでゆったりとして、芯にやさしい感じのこもったいつものサッちゃんの声だ。


 ついさっき、滝田のおばあ様が差し出す赤い帽子と手袋を見たとき、サッちゃんの声はカン高くてキンキンだった。

「なんでこんなに真っ赤なのよ。大っきなポンポンまでつけて」

滝田のおばあ様に向けたサッちゃんのキンキン声は、心底怒っているみたいだった。


 滝田のおばあ様が於兎のために、秋口から新品の毛糸で編んでおいてくれたという、この赤と白の縞々帽子についている赤いポンポンは、たしかに大きくてよく目立った。

でも、可愛らしいのだ。その上大層あたたかい。こんなに可愛らしくてあたたかい、縞々の毛糸の帽子が於兎はうれしい。

 でも、赤いポンポンが大きすぎると、サッちゃんは怒っているみたいだった。そのことが、於兎は気にかかっている。そして、なんだか悲しい気持ちになる。


 二段目のつづら折りの道は、より幅広でゆるやかにくだっている。サッちゃんはひと息ついて、あたりの静けさをたしかめるように見まわし、きりりと冷たい空気の匂いをくんくんと嗅いだ。それから於兎を見下ろし、とっくりと眺めた後、大きな赤いポンポンに向かって言うようにつぶやいた。


「ここから乗って行こっか?」

うん行こう。於兎は元気いっぱい答えたかったが、息があがって言えなかった。代わりに何度もうなずいた。弾みで帽子のてっぺんについた赤いポンポンが、前に後ろに揺れた。


 赤いゴム長靴で底の穴を塞ぐように踏んで、百年越えナベソリの中に於兎はしゃがみこむ。赤と白の縞々もようの棒っこ手袋をはめた両手は、硬く冷たい百年越えナベソリのふちをしっかりとつかんでいる。サッちゃんからそうしなさいと、言われた通りに。


 百年越えナベソリのもげていない方の取っ手に、固く結びつけた綱を握ると、サッちゃんは一歩一歩、雪を踏みしめて歩き出す。

初めはそろそろとおっかなびっくり、於兎を乗せた百年越えナベソリが路肩の溝に落ちないよう、慎重に綱を引いて坂道をくだった。やがて綱を引くサッちゃんも、ナベソリのふちにつかまる於兎も、だんだんと慣れ、どんどん楽しくなった。


 サッちゃんが走り始めた。於兎は歓声をあげる。ナベソリも勢いづいて走った。思いがけない早さで雪面を滑った。サッちゃんは負けじと突っ走る。雪煙が盛大にあがる。右に左に傾くナベソリの中で踏ん張る於兎の頭上に、大量の雪が降りかかった。於兎はキャッと声を上げ、振り向いたサッちゃんもキャハハと笑った。


「真っ白になったねー、於兎の赤いポンポン、もう赤くなーいよ」

言われて於兎はびっくりする。可愛くてあたたかい帽子の赤いポンポンが、白くなってしまったなんて。びっくりして悲しくて、泣きそうになる。


「嘘、嘘。ほら、雪を払えば大丈夫。ちゃんと赤いポンポンだよ」

サッちゃんは於兎の目の前で帽子の雪を払い落とし、おかっぱ頭にかぶせ直した。一度頭から離れた毛糸の帽子はひんやりと冷たい。その感触が不安を誘った。於兎は帽子を脱ぎ、自分の手で残った雪を払い、ようやく気が済んでかぶり直した。


 その仕草を見守っていたサッちゃんは、疲れたような溜め息とともにつぶやいた。

「於兎は赤いポンポンの帽子が、好きなんだ」

「うん。好き。縞々の手袋も好き。長靴も好きだよ」

「赤いのが好き?じゃあ、赤くない服はキライなのか」

サッちゃんは於兎が着ている紺色の防寒着上下を指した。

「うん。この服の色キライ、赤いのがいい。赤くて、可愛いの」


 サッちゃんは黙りこくってナベソリをひっくり返し、底にたまった雪をかき出した。けれど、於兎を抱き上げて座らせたら、長靴とズボンについた雪がまた入りこんだ。底に空いた穴からも雪はずぶずぶと入った。キリがなかった。


 どうやらサッちゃんに、不機嫌の虫が取りついた。ときどき現れてサッちゃんを別の色で塗りつぶしてしまう、悪いクレヨンみたいな虫だ。

「ねえ。さっき、滝田のおばあ様は於兎のおへそを見た?」

 不機嫌の虫に取りつかれたときのサッちゃんは、大体こんなふうにイヤなことを言うヒトになる。なぜそうなるのか、於兎にはわけがわからない。けれども、それが於兎にとってイヤなことであるのはたしかだ。ものすごく、イヤなこと。だから於兎は、思い切り激しく首を振った。すると赤いポンポンが、千切れ飛びそうに揺れた。


 サッちゃんは於兎を乗せたナベソリを曳いて、いま来たばかりの道を戻る。つづら折りの二段目の道をのぼってゆく。傾斜はなかなかきつい。くだって来たときに比べると、大層きつい。

むっつりと黙り込んでいるけど、サッちゃんの背中の頑なさがそう告げている。橇遊びはこれでおしまい。トクベツなひとときもお開き。サッちゃんはナベソリの於兎を曳いて、おうちに帰る気だ。


 でも、於兎はまだ帰りたくない。せっかく楽しいのに。もっと楽しくしていたいのに。トクベツな一日がずぅっと長く伸びて、明日もあさっても続いたらいいのにと願う。


 於兎は赤と白の縞々の棒っこ手袋をはめた両手で、ナベソリの中に溜まった雪をかき集め、固く握りしめる。出来上がった雪つぶてを、サッちゃんの背中めがけて投げつける。けれども力が及ばず雪つぶては、サッちゃんのふくらはぎに当たり、長靴の中に入り込む。


 振り向いて屈み込んでくるサッちゃんをめがけて、於兎は雪を投げる。もはやつぶてを作る間はないので、棒っこ手袋の両手ですくった雪をかける。やみくもに腕を振り回す。きっとすごく怒られると思いながら、やめることができない。


 雪煙の合間に一瞬だけ、サッちゃんの顔が見えた。困りきったような、悲しんでいるような顔。声も聴こえた。静かな低い声。

「そうだよねー。於兎はイヤなんだ。あれもこれも、みんな」


 身体がぐいと後ろへ引っ張られるような、あり得ない衝撃を感じた。ナベソリの取っ手に結びつけた綱の先端がサッちゃんの手から離れ、ヘビのようにうねりながら於兎に向かって来た。ナベソリは滑り落ちてゆく。於兎も後ろ向きで落ちてゆく。つづら折りの斜面の、デコボコした雪面を、右に左に危うく傾きながら。


 あっと驚いているようなサッちゃんの顔が見えたとき、於兎のナベソリはカーブの端っこで木立に激突した。枝に積もっていた雪がどっと降りかかり、於兎は自分が埋め尽くされてゆくのを感じた。





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