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(5-2-3)


(5-2-3)


 ワタシたちは昨日、(いさか)いをした。

口喧嘩程度の諍いは、珍しくもなかった。冗談半分、ふざけ半分、どっきり半分。やだ、半分が三個もあったら一個余る?軽口の行き着く先に不安を感じたとき、美香は鼻にかかった媚声の語尾を、キュンと上げるのが癖だ。どっちにしたらいいと思う?ねえ昭ちゃん。


 笑い飛ばして済むような小さな諍いなら、始終やっていた。けれど昨日の諍いは、いつもと違った。深刻の度合いが否応なく増して、どうにも笑い飛ばせなかった。


 そうなった根本の原因がなにかは、わかっている。唯一それしかない、つまりワタシの猜疑(さいぎ)(しん)だ。数えて七十八歳のワタシが、たった二十四歳の美香を妻に迎えたために、避けようもなくついてまわる猜疑心だった。致し方ないと、言うより他はない。


 それもこれも、充分に承知していながら、昨日のワタシは自制が効かなかった。思いつく限りの汚い言葉をかき集め、口を極めて美香を(ののし)った。売女(ばいた)、スベタ、泥棒猫と連打しつつ、いやそこまでひどい事実は確認できていないぞと、頭の隅でささやく自分の声を聴いた。


 それでも、やめられなかった。胸の奥底に巣食った病原体が、猛烈な勢いでワタシを浸食しつつあることを実感し、(おび)えていたからだ。ワタシと同量かそれ以上の苦痛を美香に投げつけ、無理やり食わせたかった。


 美香も黙ってはいなかった。赤い唇を震わせて、いつになく激しく言い返した。涙が滲んだその目を見たとき、ワタシは美香を失ってしまったことを悟った。我が身の愚かさと臆病さが招いた結末だった。以前と同じ美香は、もう永久に取り戻せないと観念した。


 美香はいまのところ上機嫌で、ぐるぐると電話機の呼び出しハンドルを回している。受話器を耳に当て、交換台からの応答を待つ。ウチの壁掛け式電話機は、居間の出入り口の脇に取り付けてある。電話機のベルが鳴って、家政婦のイトウさんが台所や廊下から駆けつけるとき、なるべく近いようにと考え、決めた位置だ。


 ワタシが事実上隠居して、美香がウチに越して来た頃から、ワタシを呼び出す電話のベルは、めっきり聴かれなくなった。電話機のベルがどんな音で鳴ったのだったか、もはや思い出せないくらいだ。ウチの電話機は、もっぱら美香が架けるものになっていた。


 いまも美香は呼び出しハンドルをぐるぐると回した後、交換手の応答を待っている。相手が出ると、美香の赤い唇がほころび、明るく張った声を放つ。

「こちらは西高岡五十六番、蛯子川です、こんにちわ、いつもお世話になっています」


 馴染みの交換手と朗らかに挨拶を交わす美香の声を聴きながら、ワタシはぼんやりとテーブルの上を眺めた。特注特大のテーブルの面は今日も磨き抜かれ、重厚な輝きを放っている。


 きちんと並べ置かれた三つの花見弁当。三膳の箸。三つの湯飲み茶わん。ワタシ用と美香用と、もうひとつは客用のものだった。まるで、宴会の準備が調った予約席のように、ひっそりと客の着席を待っている。


 オトという子も、待っていた。けれども、自分の家に電話を架けようとしている美香には、あまり関心がなさそうだ。愛玩犬のようなまなざしでひたすらワタシを見上げ、食事を始めてよしと号令がかかるのを、今か今かと待っている。


 ワタシは強烈な違和感を覚えて戸惑った。テーブルの面が、整い過ぎていると気づいたのだ。つい先刻だったか今朝方だったか、定かではないが、ワタシが家を出たときには散らかり放題、見る影もない有り様だった。小皿や小鉢やガラスのコップが転がり、食いさした料理や飲み残した酒がこぼれ、テーブル面のそこかしこを汚していたはずなのだ。


「美香ちゃん。あんたがお膳の支度をしたのか?」

「まさか、そんなのムリよ、すぐ飛び出して探しに行ったんだもの。イトウさんが来て、やってくれたんじゃないの?

…もしもし。ええ、そうなの、番号は聞いたけどお名前を聞きそびれて、万一人違いをしたら失礼でしょ、そうそう、つつじヶ丘の八番、電話の加入者名義はどなたか、確かめておきたいと思って…」


 馴染みの交換手と会話する美香の声を聴くうちに、ワタシはイトウさんに暇をやったことを思い出した。もう来なくていいと、解雇するつもりで言い渡したのだ。泥酔してどん底の状態だったが、意図は伝わったはずだ。それなのにイトウさんがわざわざ舞い戻って来て、頼まれもしない余分な仕事をしたのか。そんなことは、どうにも考えにくい。


 長年に渡ってよく働いてくれた家政婦だったのに、ワタシは根拠のない悪口雑言を浴びせ、追い払ってしまった。胸の奥底の痛みに、虚しさと後悔の疼きが加わり、じくじくとワタシを苛んだ。気を逸らそうと、電話機に向かって話し続ける美香の声に耳を傾けた。


「もしもし。もう一度言ってくれる?つつじヶ丘八番の加入者は、マツガエ侯爵ですって?あらま、侯爵様なの?でも、ご夫妻はもう亡くなられて、いま住んでいるのはご家族の方ね。わかりました、ありがとう、つつじヶ丘八番につないでください」


 ワタシは卓上に置かれた赤玉ポートワインの瓶を手に取った。カラだと思ったのに、持ち上げてみると、底に指二本分ほど残っており、揺するたびにごく少量の赤い液体が跳び跳ねた。その色合いかうねり方かなにかが、気になった。なんだったかを思い出そうと、指二本分の赤玉ポートワインを()めつ(すが)めつ、しげしげと眺めた。


 残った酒はほんのわずかでも捨てるな。常日頃からオンナたちに言い聞かせていたワタシの口癖だった。その甲斐あってか、たった指二本分の赤玉ポートワインが、こうして捨てられずに残されてあった。それはいい。いや、なにかが良くない。気にかかる。


 ウチで赤玉ポートワインを飲むのは、美香だけだった。ワタシは舶来品のウィスキーを飲む。どんなに高級品だろうと、美香はウィスキーを飲まない。だからウィスキーの瓶は中身がほとんど減っておらず、黄金色の液体を湛えてずしりと重い。


 そのことがまず、ヘンだ。ワタシはしたたかに酔った。実際に死にかけたくらい、飲み過ぎていたのだ。それなのに、卓上にあるワタシのウィスキーの瓶は、ほとんど手つかずの状態だった。


「…あの、初めまして。こちらは西高岡の蛯子川と申します。実はいまここに三歳のオトちゃんがいらして、はい、そうです。つつじヶ丘八番がおうちの電話番号だとおっしゃるので、お掛けしています。オトちゃんの、お母さんですか?」


 品よく礼儀正しい口調で語る美香の声を聴きながら、ワタシはそれを見た。指二本分残った赤玉ポートワインの赤い液中に、溶け切らず微かに残って浮かぶ、粉末の小さな粒。目を凝らせば、ごくごく微細な(おり)のような跡を、瓶の内側にも見出せた。


 老いたこの胸の痛みがどうにも治まらず、眠れない夜が続いたこの春先、利土里センセイに頼み込んで分けてもらった特別な痛み止めは、よく効いた。ただし、耳かきスプーンに摺り切り一杯が服用一回分の限度、きっちり守るようにと利土里センセイは、いつになくしつこく念を押したのだった。


『うっかり呑みすぎたら、蛯子川さんは一巻の終わり。処方したボクも一蓮托生(いちれんたくしょう)です。後生(ごしょう)ですから、くれぐれもお忘れなく』


 物騒なことをさらりと言いながら、懐っこい笑顔を見せた利土里センセイは、本気度が読めない医者だ。それは、濃いめの茶色をつけた伊達(だて)眼鏡(めがね)のレンズの奥にある瞳が、流氷の海のように青いせいかもしれない。それとも。ただ単に、新たな漢字言葉を覚えるたび、得意げに披露したくなる少年っぽさのゆえかも。


「…では、オトちゃんと代わりますね。はい、お母さんとお話しして」

「おかあさんじゃない、サッちゃんだよ…やだ、みかちゃんとおじさんと、おはなみのおべんとう、たべるんだもん。あとでいーの、あしたかあさってでいーの、おむかえ、いまでなくていーの」


 利土里センセイの笑顔を思い浮かべると、さすがに気は(とが)めた。それでも打ちのめされた昨夜のワタシは、震えて思うに任せない指先で、容器に残った粉末を搔き集めた。耳かきスプーン三杯分はあったと思う。


 完膚なきまでに傷ついた美香は、自室に閉じこもった。きっともう二度と出て来ない。ワタシは絶望していた。美香の赤玉ポートワインの瓶は、ほとんど飲まれていないまま、そこにあった。


 ワタシは衝動的に、ありったけの粉末を手近の紙切れに移し、赤玉ポートワインの瓶口に入れようと試みた。指の震えが止まらず、きっとこぼれてしまうと思ったが、噓のように少しもこぼれなかった。筒状に丸めた紙片の先端から、粉末は折り目正しくさらさらとこぼれ出て、赤い液体の中に吸い込まれていった。


 耳かきスプーン三杯程度の粉末は、赤玉ポートワインの瓶一本分が、丸々残った赤い液体の中に難なく溶け込んだ。と、思ったのだが、どうやらワタシがガブ飲みした赤玉ポートワインは、上澄みだったらしい。利土里センセイの特別な粉末の大方は、瓶の底に沈んでいたようだ。故に、致死量には足りず、ワタシは死に損なったのだ。


「さあオトちゃん、お花見弁当食べましょうね」

「たべるの?いいの?サッちゃん、おむかえにくるのに」

「あのね、お母さんはつつじヶ丘からウチまで、山三つ越えてお迎えに来るの、けっこう時間かかるから、お弁当食べながら待っていてちょうどいいのよ、ねえ昭ちゃん?」

「そうだ、一時間くらいはかかるぞ。ゆっくり食べても、大丈夫だ」

「うん。ゆっくり、いっぱい、たべる」


 オトは惣菜の中の煮しめた笹竹が気に入ったらしく、コリコリサクサクと楽しそうに噛みしめる。

「笹っ子竹、好きなのね。でも次は、大根と人参も食べようね」

口ではそう言いながら、美香の箸は自分の弁当から笹竹をつまみ出し、オトのそれに加えた。ならばとワタシも、自分の笹竹をつまみ上げて美香の惣菜入れに移す。美香は微笑み、笹竹の根元の固い部分を齧り取ってオトに与えた。


 甲斐甲斐しく子どもの世話を焼く美香は、いつになく楽しそうだ。このワタシの世話をしているときよりも、はるかに。しかしまあ、よしとしよう。ただ、こんなふうにすぐそばにいて、未来永劫この女を見ていたいとワタシは願う。それが叶うなら、手放して惜しいものなどない、なにひとつも。


 不意に、美香の手が赤玉ポートワインの瓶をつかみ上げ、自分の湯飲み茶わんにとくとくと注ぎ入れた。指二本分残っていた赤玉ポートワインは、美香の湯飲みにちょうど八分目で、ぴたりと収まった。少なからず、ワタシは慌てた。

「新しい瓶を開けたらいい、そんなものは飲むな」

「これくらいでいいの。あんまりたくさんは、飲まないから」


 サバサバとしたその口調が、ワタシに思いを至らせた。美香は、ワタシのもとを去るつもりなのだ。今度こそ、きっと。そうする(はら)は、すでに固まっている。だから、素面(しらふ)でいようとする。


 一時間後、迎えに来た母親に連れられて、オトがつつじヶ丘へ帰ってしまったら。その後美香がどうするつもりか、もう明らかだ。口に含んだ塗り箸をギリギリと噛みしめ、ワタシは呻いた。悪態の限りを尽くして自分を罵った、嫉妬深い年寄りの夫と二人きり、この家に留まりたいと、美香が望むはずはないのだ。


 ワタシの胸中は千々に乱れた。

 死ね。いっそのこと、死んでしまえ。

 毒づきながら心の目で、美香がいないこの世界に、ひとり生き残った自分の姿を見た。一片の喜びもなく、痛みと孤独と後悔に苛まれる日々。その味気なさ、その恐ろしさをありありと見た。


 ワタシは立ち上がった。自分でも思いがけない勢いで素早く腕が伸び、美香の湯飲み茶わんをひったくり、その中身を(あお)った。甘い葡萄酒と、混じりきらない苦い粉末。最悪の味と舌ざわり。美香なら飲まずに吐き出していたかも知れない。しかし、ワタシは飲む、一滴も余さずに。


 驚き、呆気にとられる美香と、やっぱり泣きもせずにワタシを凝視するオトの幼い顔が、この世界で見た最後の光景になった。


                   ***


「於兎は、聞き分けよくしていたかい?蛯子川さん」


「ああ、いい子だったよ。煮しめの笹竹と、ウチのヨメの赤い靴がえらく気に入って、機嫌よくていい子だった」


「笹竹と、赤い靴か」


 於兎についての新しい知識を反芻するように、ハルさんは口に含んだサクランボの実をシャリシャリと噛み、ワタシに先を続けるよう促した。聴きたくて話したい、そんな気分でいるようだ。


「於兎ちゃんの世話なら、ウチのヨメがちゃんと焼いてる。まあ、ワタシがこうなったんで、てんやわんやだろうが。でもじきに、あんたのヨメさんが迎えに来るから、心配せんでもいい」


「サチは、於兎の母親は、ヨメじゃない。オレは、サチから逃げる気でいた。そうしたら、このザマだ」


「そうなのか。まあ、いろいろ事情があったんだな。なあハルさん、ひとつ訊いていいかい?松枝侯爵夫妻とあんたは、どういう関係なんだ?」


「オレの、祖父さん祖母さんだとさ。こっちは円タクの運転手だが」


「ほう?…ああ、思い出したぞ、新聞で読んだ。円タクが崖から落ちて、侯爵夫妻は亡くなったんだ。あんたが運転していたのか。しかも、孫だとは」


「言っとくけど、オレの円タクのブレーキに細工したやつがいた。オレがしくじったんじゃない。運転は好きだし、得意だった」


「なんだか、えらく訳アリみたいじゃないか。もしイヤでなかったら、話、聞かせてくれるかい?」


「オレの祖父さんである松枝侯爵は、お(かみ)が御幼少の頃から爺と呼ばれて親しまれ、直々(じきじき)にもの申せる間柄だった。そのノリでつい、もうお子様ではなくなったお上に、申し上げたんだと。


『…如何なる事象が起ころうとも、日本国は諸外国のいずれともコトを構えてはなりませぬ。そんなことをなされば、われらは祖国を失いかねませんぞ…』とかなんとか。当人はお上との間だけ、茶飲み話のつもりだったらしいが、どこからともなく漏れた。


 何某(なにがし)から別の何某へと伝わり、伝わるほどに真意は大仰に曲解されて手に負えなくなった。ついには、松枝侯爵の不遜な亡国思想は言語道断なりと、気炎を吐く者たちが寄り集まり、暗殺計画に発展して…といったような成り行きだったらしい」


「なんとまあ」

ワタシはそれよりほかに言葉が出なかった。


「なあ、蛯子川さん。オレにはさっぱりわからんのだが、これってそんなにもヤバイことだったのかい?祖父さんがお上に申し上げたこと、あんたはどう思う?」


尋ねるハルさんの目はいかにも純な少年っぽさを湛えており、ワタシは胸を突かれた。


「さあね。ワタシみたいな飲み屋のオヤジには、なんとも言えんな。その話、侯爵様から聞いたのかい?なら、続きをもっと聞いてみな、じっくり話し合ってみれば、わかってくるんじゃないのかな」


 ハルさんはしかし、ワタシが懸命に考えた返答をもう聞いていない様子で、どこかうわの空だ。


「なあ。あんたも逃げて来たんだろ?赤い靴のヨメさんから」


「ほう?ハルさんみたいな二枚目でもない、この年寄りが?」


「なんか、そんな感じするよ」



 それはないと言いかけて、ワタシは口をつぐんだ。自分は美香を置き去りにして逃げて来たのだ。その考えはいかにも斬新で、痛快だった。



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