84 執務室
聖王国の大聖堂地下にある【封印の間】へ転移した俺たちは、その厳重に封印された部屋に入り、警戒しながら空間の裂け目の中へと足を踏み入れた。
空間の裂け目に一歩入ると、一瞬の浮遊感ののち、俺たちの足元にカサリと軽い音が響いた。
俺たちが立っていたのは、金色の魔力で編まれた無数の「紙」が、まるで光の床のように幾重にも降り積もった場所だった。
ふと周囲を見回した俺たちは、その光景に思わず息を呑んだ。
見慣れた普通サイズの本棚が、一体何千、何万あるのだろうか。それらが隙間なく組み合わさり、ぐるりと360度、横向きの巨大な円柱の形を構成しているのだ。
右を見ても、左を見ても、真上を見上げても、びっしりと本棚が並んでいる。俺たちはその本棚のトンネルの、ちょうど真ん中に浮いている金色の紙の上に立っていた。
この水平に伸びる本の回廊の後ろを振り返ると、あの大聖堂へと繋がっていた裂け目は跡形もなく消え去っていた。
前後を見渡しても、吸い込まれそうなほど遥か先まで続いており、どこが終わりなのか全く分からない。
俺の首元から、タピオカくんが呆然としたように呟く。
『……すごい。どうやらここが、ステラ・ビブリオテカみたいね……』
セリーナ:すごい……本がいっぱいです……!
サクラリア:すごいですわ! 花に関する本はあるかしら?
足元できらきらと輝く金色の紙、そして世界を埋め尽くす無数の本棚。タピオカたちは言葉を失ったまま、終わりのない書庫を見つめていた。
……どうやら周囲を最大限に警戒しているのは俺だけのようだ。ミニマップを確認してみるが、周囲は真っ暗で何も表示されていない。
入り口の裂け目が消えてしまったため、俺はすぐにワールドマップを開いた。当然のように現在地は表示されず、試しにカフェの小屋へ転移するボタンを押してみたが、何の反応も返ってこない。
クエストログが更新されたが、そこにはただ【前に進め】としか表示されていなかった。
気は進まないが、一応水晶玉の説明文を確認してみる。
説明文:
「ボケっとするな! さっさとお前に進め! 俺様を本体に連れ戻せ!」
「ネザーヴェイル様、このままこの方向に進んでもよろしいでしょうか?」
説明文:
「いちいち聞くな! バカかお前は!」
腹立つな……! “説明文”のくせに、この水晶玉は嫌な上司みたいな圧をかけてくる。ここには敵もいないようだし、さっさとこの生意気な水晶玉を返却して小屋へ帰ろう。
どのみち前に進まなければここから出られないのだから、俺は足を進めることにした。
一歩歩くと、金色の紙が同調するように新しい道を形成し、同時に歩いてきた後ろの道は消えていく。
こんな終点も見えない本棚のトンネルの中では、本当に前に進めているのかどうかすら怪しくなってくる。
タピオカ:この水晶玉、ここに置いていっちゃダメ?
飛べる豆腐:俺もそうしたい。後ろに投げ捨てたいよ。
俺とタピオカくんがチャット欄で日本語を使って水晶玉への愚痴をこぼしていると、テキストの意味は分からないはずなのに、セリーナとサクラリアもなんとなく察したようでこの嫌味合戦に参戦してきた。
セリーナ:この水晶玉は私たちにお願いした立場のはずなのに……何ですか、その態度は!
サクラリア:その水晶玉、ここに置いていってもいいですか、精霊様?
普段はおとなしいセリーナまで少し怒っているのは意外だった。サクラリアは完全にタピオカくんに毒されて、思考パターンが似てきている。
金色の紙を踏みしめながら、俺たちは本棚のトンネルを真っ直ぐ進んでいった。時間感覚も方向感覚も曖昧なまま歩き続け、どれくらい経っただろうかと思ったその瞬間——
唐突に、空間全体に重々しい音が響き渡った。
――ズズズズズッ……!!
俺は即座にその方向へ剣を向け、首元のタピオカくんが悲鳴に近い声を上げる。
『な、なに!?』
驚く俺たちの目の前で、それまで壁を形作っていた無数の本棚が一斉に、まるで生き物のように規則正しく動き始めた。ある本棚は奥へと引っ込み、ある本棚は左右へとスライドしていく。
カチリ、とパズルのピースが噛み合うような小気味よい音が響いたかと思うと、俺たちの左側に、今まで存在しなかった新しい通路が出現していた。
その通路の突き当たりには、古めかしい一筋の扉がぽつんと佇んでいる。
近づくと、扉は自動で開いた。だが扉の向こう側は真っ白な光に包まれており、中の様子は窺えない。
「ここに入るしかないようですね……入りますよ」
『うん、気を付けてね』
意を決して中に足を踏み入れると、そこは先ほどの本棚のトンネルとは打って変わり、まるで中世の王族が使うような、重厚で静謐な執務室が広がっていた。
使い込まれた高級な木製デスク、中央に置かれた応接用のソファーとテーブル、壁際に整然と並ぶ古い資料、そしてかすかに漂うインクの香り。ここが終点なのだろうか。
しかし、執務室の中に人の姿はなかった。そして当然のように背後の扉は自動で閉まった。
ふと気づくと、装備していた剣と盾が手元から消えていた。メニューを確認すると、勝手に装備が解除され、ストレージに戻されたらしい。システムの根幹に干渉できる以上、仮に武器を構えていたところで敵う相手ではないのだろうが……。
「武器が……強制解除されました」
『ま、まぁ……ここまで敵も出なかったしね。武器を解除されるような相手なら、たとえ武器があっても倒せるとは思えないわ。今はクエストの指示に従って進むしかないわね』
セリーナ:た、大丈夫ですか、精霊さん……? 私たち、元に戻れるのでしょうか……?
サクラリア:精霊様のメニューの力すら敵わぬとなると、ここは本当に神様の世界なのですか……?
確かに……俺たちはすでに手詰まりだ。転移は使えず、武器も勝手に解除され、出口もない。手には邪竜の魂。もしここで邪竜の肉体とこの魂が融合し、完全体の邪竜が現れたら確実に詰む。
ログアウトできるかどうかも分からないが、流石にセリーナとサクラリアをここに残すわけにはいかない。
自分を含めて全員の心を落ち着かせるため、俺は意識的に前向きな言葉を口にした。
「大丈夫ですよ。女王様も『ここには信頼できる者がいる』とおっしゃっていましたし、この執務室を見る限り、単なる話し合いの場だと思います。すぐに戻れますよ。帰ったら、セリーナは昨晩レオンさんと何があったのか詳しく教えてくださいね」
セリーナ:せ、精霊さん!? それを今ここで言わないでください!!
サクラリア:昨晩、わたくしたちはレオンさんととても楽しくお話ししましたわよ?
セリーナ:サクラリア! 大丈夫だから言わなくていいの! あとで私が説明するから!
『セリーナ、ものすごく焦っていますね……。どうやら昨晩、私が帰ったあとにも続きがあったみたいですね……?』
セリーナ:ないですってば! 昨晩はすぐに寝ました! はい、この話は終わり!
セリーナ:だいたい、これは今言うべきことではないでしょう!?
タピオカくんも乗ってきてくれたおかげで、ひとまず場に少し前向きな空気が戻った。良かった。確証はないが、神様のクエストである以上、理不尽な害を及ぼすようなことはしない……はずだ。たぶん。
……とはいえ、現状が変わったわけではない。本来なら執務室の中央にあるソファーに腰掛けてこの空間の主を待つべきなのだろうが、女王様から『許可が出ないうちは何一つ触れるな』と警告されているため、俺はソファーに座ることもできず、その場で佇んでいた。
本当に気は進まないが、もう一度水晶玉の説明文を確認してみる。
説明文:
「リーンベル! リーンベル! 出てこい! 俺様が帰ってきたぞ! おい~~!!」
どうやらこの水晶玉は、この空間の主を呼んでいるらしい。
しばらく待っていると、扉をノックする音が聞こえてきた。
ゴン ゴン
ノックしておいて誰も入ってこないということは……返事待ちだろうか?
「……はい、どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは——メイドさんだった。
艶やかな黒髪をきっちりと上品なアップヘアにまとめ、知的でクールな目元には、冷ややかな光を宿す眼鏡をかけている。
身に纏っているのは、床まで届くようなロングスカートのメイド服だ。
しかし、それはただの地味な服ではない。随所に現代的なカッティングや、どこかゲームの主要キャラクターを思わせる装飾が施されており、彼女の美しい胸元や腰のラインを引き立てるデザイン性の高い逸品だった。クラシカルな重厚さとファンタジーが見事に融合している。髪飾りやアクセサリーの細部まで凝っており、明らかにただのNPCメイドではない。
そしてその容姿は、『セレアグ』作中で屈指の美貌を誇る聖女シルヴィアと並ぶほどの、次元の違う二次元美人なお姉さんだった。彼女は間違いなくメインキャラクターだ。
部屋に入ってきた彼女は、感情の読めない涼しげな瞳をゆっくりとこちらに向けた。
そこに立っているだけで部屋の空気がツンと冷たく張り詰めるような——圧倒的なオーラを放つクールビューティー。
「……ようこそ、ステラ・ビブリオテカの深奥へ」
そのメイドさんの放つ圧倒的なオーラに反応し、現代日本で染みついた悲しきサラリーマンの習性が爆発した。俺は「ハッ!」と息を呑むと同時に、直角に近い角度で深くお辞儀をしていた。
チャット欄の反応は実に極端だった。セリーナとサクラリアはメイドさんの美しさに見とれて褒めちぎっている。逆にタピオカくんは、俺と同じく「このメイドは大手企業の社長クラスだ、絶対に敵対してはいけない」と直感したようだ。
……だって、このメイドさんの頭上には、名前もレベルも一切表示されていないのだから。
深く頭を下げる俺を見て、メイドさんも丁寧にお辞儀を返してくれた。
「私はここ、ステラ・ビブリオテカの管理人のリーンベルと申します。お客様、ここではどのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」
その問いかけに対し、セリーナたちは疑問を抱いたようだ。
サクラリア:なぜこのメイドさんはそのような質問をなさったのかしら……?
サクラリア:まるで、わたくしがここにいることまで知っているかのようですわ。
セリーナ:神様のメイドさんですから、お見通しでも不思議ではないですよ。
セリーナ:もしかして精霊さんのことを『アリス』と呼ぶか、それとも私の名前の『セリーナ』と呼ぶか、どちらが良いか聞いてくれたのではないでしょうか?
サクラリア:なるほど! 今の精霊様は仮面をつけず、セリーナの姿のままですものね。
……たぶん、違います。彼女はこの空間の『管理人』と名乗った。この世界で俺たちしか使えないシステムの力に干渉できる以上、俺とタピオカくんが異世界から来た存在であることも把握しているはずだ。
この質問は恐らく、俺とタピオカの本名、プレイヤーネーム、偽名である『アリス』、あるいはセリーナたちが呼ぶ『精霊さん』のどれで呼ぶべきかを確認してくれているのだろう。
「ご配慮ありがとうございます。ここではどうぞ『アリス』とお呼びください」
『私のことは、そのまま『タピオカ』とお呼びいただけますでしょうか』
「承知いたしました、アリス様、タピオカ様。どうぞお掛けになってください」
「ありがとうございます」
ソファーを勧められたため、俺は水晶玉をテーブルの上に置いた。これで安心してソファーに腰掛けることができる。リーンベル様は俺たちの対面に腰を下ろした。そして彼女は、実に不快そうな表情で吐き捨てた。
「……うるさい! 貴様は黙っていなさい!」
思わず体がビクッと跳ねる。驚く俺たちを見て、リーンベル様は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、すぐに謝罪した。
「あ……申し訳ございません、アリス様、タピオカ様。お二人に向けてではなく、この“ゴミ”と話していたのです」
テーブルに置いていた水晶玉が宙に浮き、彼女の隣へと移動していた。
あの生意気な水晶玉の説明文を見てみると——
説明文:
「はぁ!? 何なんだよ! 俺様を誰だと思っていやがる!!!」
どうやらリーンベル様は水晶玉の説明文を見るのではなく、声として聞こえているらしい。冷ややかな視線で水晶玉を睨みつける彼女に対し、説明文の表示は一瞬で切り替わった。
説明文:
「…………ちぇっ……はいはい、黙ればいいんだろ」
すごい……一瞬で二人の上下関係が理解できた。
リーンベル様はコホンと咳払いをし、柔らかい声で俺たちに向き直った。
「失礼いたしました。この度は、この生意気な欠片を持ち帰ってくださったことに深く感謝申し上げます」
深々と頭を下げる彼女に対し、俺は慌てて言葉を返す。
「いいえいいえ! ワタシたちもただ神様のクエストに従っただけですので……どうぞ頭をお上げください」
「ああ、そうでしたね。あのゴミが勝手にクエストを発行したのですね。少々お待ちください」
そう言うと、リーンベル様はメニューを操作するような仕草を見せた。直後、俺の視野の左上に表示されていたクエストログが更新される。
【※ クエスト:ちぃ……ネザーヴェイルの魂の欠片の返却 ※】
— クリア —
クエストがクリアになった……え? このクエスト、これで終わり!?
彼女、ガチの神様側の存在だ……!
訊きたいことは山ほどあったが、立場的には明らかに向向こうが上だ。俺たちは質問の許可が出るまでは黙っているのが無難だろう。例えるなら、社長が会議室に入ってきた際、発言を求められるまで息を潜めている平社員のような心境だ。
幸いにも、リーンベル様はすぐに話を続けてくれた。
「詳しいお話は、このうるさいゴミを元に戻してからにいたしましょう」
「は、はい! 承知いたしました」
リーンベル様が“メニュー”を操作すると、ガラン……と音を立てて執務室の木製の壁と天井が消え去り、周囲には底知れぬ「宇宙」が広がった。
そして、リーンベル様の隣に浮かんでいた水晶玉は執務室の境界から離れた瞬間、黒いエフェクトを纏い始め、俺たちの目の前に一頭の黒き竜となって姿を現した。
しかし、それは俺とタピオカくんが知っている邪竜の姿ではなかった。『セレアグ』の2周年のイベントレイド戦に登場した邪竜は、某狩猟ゲームの黒竜のような、西洋風のトカゲに近い巨体だったはずだ。
だが、目の前に現れた邪竜と思われるドラゴンは、「頭部はドラゴン、身体は人型でスタイリッシュ」というシルエットをしていた。
その黒竜は変身を終えるやいなや、即座に俺たちに向かって激しいブレスを吹き込んできた!!
「なっ……!?」
『きゃー!!』
タピオカくんは反射的に俺の服の中へ隠れ、俺も咄嗟に両腕で前をガードする。
「ここは別の空間ですので、ご安心ください」
リーンベル様の静かな声が聞こえた。どうやら俺たちは無事……だったらしい。
目を開けてみると、音こそ届かないものの、黒竜は未だに宇宙空間を飛び回り、俺たちに向かってブレス攻撃を浴びせ続けていた。
この執務室の範囲内にいる限り、本当に安全なようだ。
しかし、黒竜の暴虐もそこまでだった。
真上の宇宙空間に眩い白い光が溢れだし、そこへ神々しい巨体を持つ一頭のドラゴンが姿を現したのだ。
部屋の領域を遥かに凌駕し、全貌すら視界に収まりきらないほど巨大なドラゴン。黒竜がテニスコート級だとすれば、その神々しいドラゴンは東京ドーム級の巨大さだ。
その神々しいドラゴンも一般的なドラゴンの姿ではなく、頭部はドラゴン、下半身はどこか人間のようにしなやかで長く美しい手足を持っていた。全身を覆う鱗は眩いばかりの白銀に輝き、翼の膜や節々からは宇宙の星々を閉じ込めたような深いコバルトブルーの光が、呼吸に合わせて静かに明滅している。
その後、俺たちはまるで音のないVR映画を観ているかのように、執務室の中からその神々しいドラゴンが圧倒的な力で黒竜を叩きのめす光景を見守っていた。
いや、これは戦いとすら呼べない。神々しいドラゴンが多様な魔法を行使し、黒竜を一方的にお仕置きしている状態だ。
黒竜は1分ともたずにボロボロとなり、その身体は神々しいドラゴンの光の中へと溶けるように吸収されていった。
あまりのスケール感に、俺たちは言葉を失うしかなかった。
……っていうか、あのドラゴンたちは一体何なんだ!? 姿も俺たちの知っている『セレアグ』の設定と全く違うし、俺たちが知っていた“邪竜ネザーヴェイル”の正体とは一体何なんだ……!?




