75 ワインをかけないと死ぬ病気
カースティア伯爵一家の姿を目にした瞬間、セリーナの胸には一瞬、暗い落胆の影が落ちた。だが、エドガーの身体にまとわりつくあの異様な黒い魔力を見た瞬間、彼女は「これは危険だ」と直感し、すぐさま自身の感情を立て直した。
セリーナは目立たない会場の隅へと戻り、誰にも聞こえないよう小さな声で胸元の妖精に話しかける。
「ご、ごめんなさい、サクラリア。私はもう大丈夫。それより、あの黒い魔力について、あなたにも何か分からないの?」
ドレスの胸元からひょっこりと小さな頭だけを覗かせたサクラリアは、真剣な表情で返した。
『あの魔剣の魔力に酷似していますわ。ですが、少しだけ性質が違うようです。悪意のようなものは確かに感じられますが、少なくともこちらへは向けられていません。わたくしにもはっきりとは分からないのです……お母様であれば、きっと見抜けると思うのですけれど』
「一応、警戒だけはしておきましょう。サクラリア、シルヴィアさんが会場に入場してきたら、すぐにこのことを彼女に伝えてもらえる?」
『分かりましたわ。……セリーナ、本当に大丈夫ですか?』
「……ええ。あれはもう、私の知っているお父さんではありませんから。今の私には、あなたたちやおばあちゃんがいてくれますもの」
『ええ、その通りですわ! あなたの側にはこのわたくしがついていますもの。後で一緒に会場の珍しいお菓子を全種類制覇いたしましょうね!』
「ふふ、いいですね」
顔はキツネの仮面で覆われていたが、セリーナは今、仮面の下で精一杯の作り笑顔を浮かべていた。
(それにしても、あの黒い魔力は一体何なの? 呪いの類? 精霊さんがこちらへ来てくれたら、あの『真実の目』で呪いかどうかを見抜いてくれるかもしれないけれど……。ひとまずは、シルヴィアさんをお父さんに近づけないように気をつけましょう)
今のセリーナには、肌に伝わる感覚で分かっていた。エドガーからはそれなりの強者特有の気配を感じるが、もし本当に彼と対峙することになったとしても、全身UR装備で固めた今の自分なら、余裕を持って彼をねじ伏せることができる。
でも相手は一応この国の高位貴族だ。こちらから先に手を出してしまえば、状況的に損をするのは目に見えている。そのため、黒い魔力をまとったエドガーが怪しい動きを見せない限り、セリーナたちから動くつもりはなかった。……ただ、問題は「もしもの時」、自分が本当にお父さんと戦うことができるのか、という点だけだった。
セリーナは小さく深呼吸をして、胸の奥に湧き上がる嫌な感情を押し殺した。手元にある腕輪型の不可視の武器、〈インビジブルナックル〉の感触をそっと確かめながら思考を巡らせる。もしエドガーが何か行動を起こしたとしても、周囲に被害を出さないよう、格闘術のみで対処するしかない。
ここは一時間ごとにリセットされるダンジョンではないのだ。セリーナの規格外のステータスでは、中位魔法を一つ放つだけでこの美しい王宮の会場を半壊させてしまう。そのため、魔法の使用は威力を極限まで抑えた下位魔法のみに縛り付ける必要があった。
伯爵たちには近づきたくないが、しばらくは一定の距離を保ちながら、彼らの動向を厳重に監視することにした。
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あれから貴族たちが続々と会場へ入場し、最後には聖王国に隣接する諸外国の王子たちが、令嬢たちの黄色い歓声に包まれながら華々しく姿を現した。
王子たちの入場が終わると会場の喧騒はすっと引き、やがて典礼官から国王陛下の入場を告げる大声が響き渡った。
「国王陛下、並びに王妃殿下、第一王子殿下のご入場でございます!」
会場にいる全員が一斉に頭を下げ、専用の通路から現れた王族一同は、ゆっくりと威厳に満ちた足取りで玉座へと歩みを進めていく。
そして最後に、今宵の宴の最大の貴賓である聖女の入場が告げられた。
「――聖王国が至宝、聖女シルヴィア様、並びに大司教マティルダ様、ご入場でございます!」
巨大な二重扉がゆっくりと左右に開かれた瞬間、会場の騒めきはまるで沈黙の魔法で消されたかのように、一瞬で静まり返った。
大司教マティルダ様と並び、その後ろに一糸乱れぬ足取りで追従する正装姿の護衛聖騎士たちを引き連れて現れたのは、まるで光そのものを身に纏ったかのような高貴な少女の姿だった。
人々がまず驚嘆の息を呑んだのは、その類稀なる髪型だった。
普段の聖職者として髪を下ろした姿とは全く異なり、今日の彼女の美しい銀髪は、洗練された技術で芸術的なアップスタイルにまとめ上げられていた。その結い目には、こぼれ落ちんばかりのダイヤモンドと色とりどりの魔石を贅沢に散りばめた、眩い宝石だけの髪飾りがまるでティアラのように燦然と輝いている。高く結い上げられたことで、白磁のように滑らかで美しい完璧なうなじが露わになり、居並ぶ人々の視線を釘付けにした。
そして何より、そのドレスの美しさだった。
上半身は、最高級の真珠のような上品な光沢を放つ純白。大きく開いたオフショルダーのデザインは、彼女の豊かな胸元を惜しげもなく覗かせており、普段の清楚な聖女のイメージを覆すような、神秘的かつ扇情的な魅力を強烈に放っている。
その純白の布地は、腰から下へ向かうにつれて、ゆっくりと深淵のような黒みがかった紫色へと見事なグラデーションを描いていた。
「……見つめていると、光が動いているわ。まるでドレスの中に、本物のオーロラが閉じ込められているみたい……」
誰かが感嘆と溜息の混じった声を漏らす。
ドレス全体には特殊なオーロラホロの光沢が走り、光の当たる角度によって虹色に揺らめく。そして深い紫色のスカート部分には、無数の小さな宝石が、まるで本物の満天の星々のようにキラキラと瞬いていた。
シルヴィアは会場中の熱い視線を一身に受け止めながらも、表情一つ変えない。背後の聖騎士たちに強固に守られながら、完璧でクールな聖女を演じきり、氷細工のように整った美貌のまま、真っ直ぐに王座を見つめて歩く。
そして、シルヴィア人々の視線が集中する中で手袋を嵌めた白くなめらかな手をさりげなく動かし、結い上げた髪から一筋だけ意図的に残されていた、頬にかる銀の横髪を指先でゆっくりとかき上げたのだ。
会場中から、言葉にならない陶酔しきったような呻き声が一斉に上がった。老若男女問わず、その場にいる誰もが彼女の圧倒的な美しさに魂を奪われていた。
その光景を、会場の四方に陣取っていた各国から集まった王子たちは、苦々しい沈黙の中で見つめていた。今、彼ら全員の心には全く同じ思考が去来していた。
(……私が贈った最高級のドレスではない。だが、これほどまでの仕立て、一体どこの国がこれほどのものを用意したというのだ?)
彼らは内心で苦笑いを浮かべ、自らの自尊心を根こそぎ削り取られていた。自分が用意させた自信作のドレスが、目の前で輝く極上の仕上がりに比べれば、ただの布切れに等しいと悟らされたからだ。
選ばれないのも無理はないと納得しつつも、王子たちの視線が音もなく交錯する。
(まさか、隣国のあいつが裏で手を回したのか?)
(いや、あの魔導国が秘密裏に職人を動かしたのでは……)
(あいつ……の仕業ではないよな?)
彼らはお互いを疑惑の目で睨み合い、静かに嫉妬の火花を散らせていた。
聖女が王の前へと進み出ると、国王陛下は一段高い壇上から、会場全体に響き渡る朗々とした声で語りかけた。
「聖王国の至宝、シルヴィア殿。そなたを我が国に迎えること、これ以上の喜びはない。そなたの来訪は、我がエルセリス王国に新たな光をもたらす福音となるであろう。今宵は堅苦しい儀礼を忘れ、この宴を心ゆくまで楽しんでほしい。……大司教マティルダと共に並び立つ、そなたのその輝かしい姿に、乾杯を!」
国王の乾杯の音頭と共に、聖女歓迎パーティーが華やかに幕を開けた。
セリーナはすぐさまサクラリアにお願いし、シルヴィアの元へと向かわせた。カースティア伯爵の息子であるエドガーの身体に、謎の不気味な黒い魔力がまとわりついていることを報告するためだ。
詳細を聞いたシルヴィアは内心で少し驚いたものの、まさかそれがセリーナの父親のことであろうとは夢にも思わず、すぐにさりげなく周囲を見渡した。……だが残念ながら、彼女は妖精の女王の祝福を受けていないため、その目に黒い魔力の姿は一切映らなかった。ただ、ほんの少しだけ、特定の方位から嫌な気配を感じるだけだった。
それに、今の彼女は伯爵家を警戒したくても、ひっきりなしにアピールを仕掛けてくる各国の王子たちの攻勢を凌ぐだけで、すでに右手を上げる余裕もないほど手一杯だった。
シルヴィアはサクラリアからの警告に対し、周囲に悟られぬよう軽く頷いて了解の意を示し、役目を終えたサクラリアはセリーナの元へと戻った。
この会場には人間の目しか存在しないが、セリーナの元に戻ったサクラリアは念のため、再び彼女の胸に潜り込んで姿を隠した。そして小さくため息を漏らしながら、セリーナと話す。
『セリーナ、一応シルヴィアさんにはお伝えいたしましたわ。ですが、向こうは各国の王子たちに完全に囲まれてしまっていて、周囲を警戒する余裕すらなさそうでしたわ』
「それは仕方がありませんよ。あれほど華やかな入場をして、あんなに綺麗な姿を見せられたのですもの、誰もが魅了されてしまいます。どうやら、私たちも簡単には近づけそうにありませんね」
『あの様子でしたら、彼女から受けていたドレスの依頼は完全に達成扱いで間違いありませんわね。大丈夫ですわ、わたくしの目には、セリーナが世界で一番綺麗に映っていますもの』
「あ、ええ……ふふ、ありがとう、サクラリア」
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そんな時、会場の隅で煌びやかな扇子を揺らしていた貴族の令嬢たちが、まるで獲物を見つけた蛇のように冷酷に目を細めた。彼女たちの視線の先にいるのは、自分たちが身に纏っているドレスよりも遥かに洗練された衣装を着こなしている――「アリス」を演じているセリーナの姿だった。
「……ねえ、ご覧になって。あのご令嬢が着ていらっしゃるもの……」
「あんなドレス、今まで見たこともありませんわ。この国のどの大貴族であっても、あのような素晴らしい生地は用意できないはずですもの」
「妙なキツネの仮面などで顔を隠して……一体どちらのご令嬢かしら」
令嬢たちの鋭い視線は、セリーナが纏う変則的なハイローヘムのドレスに釘付けになっていた。
前方のスカート丈が短く、後ろが長く尾を引くその独特なデザインは、セリーナの若々しく健康的な脚のラインを大胆に見せつけつつも、その脚を飾る〈月のガーターストッキング〉の存在感を際立たせていた。短い前裾から覗くそのストッキングは、まるで月光そのものを繊維の中に織り込んだかのように白く淡い光を放っているように見え、彼女の太ももの上で神秘的な紋様を描き出している。
「あんな……あのような高度な魔力細工、この国のどの高名な魔導師であっても不可能ですわ。それに見てご覧なさい、あの手袋を」
セリーナが何気なく身体の前で揃えていた両手には、〈月光のオペラグローブ〉が嵌められていた。指先まで吸い付くような美しい漆黒のシルク地の上に、瞬く星々が刺繍などではなく、「本物の星の輝き」そのものを湛えて散りばめられているのだ。
「頭にあしらわれているヘッドピースもそうですわ。あれは宝石かしら? いいえ、まるで夜空の欠片そのものを、そのまま頭上に浮かべているみたいですわ……」
ご令嬢たちは、自分たちが纏う最高級のシルクや、父親にねだって買ってもらった希少な魔石のネックレスが、目の前の素性も知れない女が身に着けている「理解を超えた何か」の前に完敗している事実を悟ってしまった。
「あんな身分不相応な極上品……どうせ、この会場にいるどなたか高貴な方を言葉巧みに誘惑して、盗ませたものに決まっていますわ」
「ええ、本当に。私たちの税によって整えられたこの神聖な王宮を、あのような出処も知れぬ怪しげな宝飾品で汚すなんて、到底許せることではありませんわ」
彼女たちは知る由もなかった。それがこの世界の一般的な理から完全に外れた、ゲームの二周年を祝して神から授けられた限定の至宝であるという事実を。ただ、自分たちの自尊心を粉々に踏みにじるその圧倒的な「輝き」が、憎くてたまらなかったのだ。
「少し、身の程というものを教えて差し上げましょうか」
毒の混じった囁きと共に、嫉妬を抑えきれなくなった一人の伯爵令嬢が、取り巻きの二人を引き連れてセリーナの方へと歩みを進めた。
彼女たちがセリーナを目の敵にしたのには、別の理由もあった。聖女のドレスが一体どこの店で仕立てられたのかを探りたくても、今の聖女の周囲には近づくことすら不可能なほどの壁ができている。その上、自分たちが狙っていた各国の王子たちは、会場にいる他の令嬢など眼中にないほど聖女に魅了されてしまっていたからだ。
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「その不気味な仮面をお付けになったあなた、一体どちらのご令嬢かしら?」
突然声をかけられたセリーナは、普段悠希が演じている“アリス”の態度を思い出し、見様見真似の優雅なカーテシーを披露しながら、落ち着いた声で答えた。
「私は、ただのしがない冒険者でございます」
「ふん……冒険者の分際で、このような場にこれほど身分不相応なドレスを着てくるなんて。一体どこのお屋敷から盗み出した盗品ですの?」
「いいえ、決して盗品などではございません」
「わたくしは由緒正しき伯爵令嬢よ。このわたくしの前に立ちながら、いいえ、このめでたい国王陛下主催の場面で仮面などを付けたまま列席するなんて、なんと無礼なことかしら!」
「私のこの風貌に関しましては、事前に国王陛下より直々にお許しをいただいておりますが」
「わたくしはあなたのその身勝手な発言を許可していないわ!」
激昂した伯爵令嬢は、ちょうど近くを通りかかった給仕の使用人が持っていたトレーからワイングラスを無造作にひったくると、勢いよくセリーナのドレスに向けて中身をぶちまけた……が。
その劇的な展開に、セリーナのドレスの胸元に隠れていたサクラリアは、不謹慎にも大興奮して話しだした!
『キターーー! この人間、まさにタピオカ様が仰っていた、美しいドレスを見つけるとワインをぶっかけないと死んでしまう奇病に罹った人ですわ!』
セリーナは慌てて、周囲に聞こえないような極小の声で「しっ――!」とサクラリアを宥め、落ち着かせる。
まるで三流の悪役のように上から目線で相手を見下ろし、満足げに冷酷な勝利の笑顔を浮かべた伯爵令嬢は、この瞬間までは確かに……勝利を確信していた。
しかし、彼女のすぐ後ろに控えていた取り巻きの令嬢たちが、小さく短い悲鳴を上げた。
「な、何よ……?」
不思議に思った伯爵令嬢が横の取り巻きたちを振り返ると、二人は真っ青な顔をして、震える指で伯爵令嬢が持っているワイングラスを指差していた。
見れば、完全に逆さまにされたグラスの内部で、赤ワインは一滴も下に落ちることなく、まるで底にくっついたかのように虚空に留まっていたのだ。
ワインは、目の前に立つ生意気な冒険者のドレスに……ただの一滴もかかっていない!?
あまりの怪奇現象に恐怖を覚えた伯爵令嬢は、悲鳴を上げながら慌ててグラスを持つ手を放した。当然、手から離れたグラスは床へと落下……しなかった。
セリーナは自身の魔法操作によって、グラス内のワインをまるでただの水を操るかのように完全にコントロールしており、ついでに落下しかけたグラスそのものも魔法の力で中に浮かせ、支えていたのだ。
そしてセリーナは浮遊するグラスをそっと手で掴み取ると、驚愕で固まっている使用人のトレーの上へと何事もなかったかのように静かに戻した。
彼女としては仮面の中で「大丈夫ですよ」と笑顔を返すつもりだったのだが、ご令嬢たちの目には、その無機質な白いキツネの仮面から底知れない威圧感が放たれているように感じられた。当然のように、恐怖に駆られた悲鳴が会場に響き渡る。
「きゃーーーーっ!!!」
その鋭い悲鳴を聞きつけ、周囲の貴族たちはすぐに何事かと現場に視線を向け、巡回していた警備の騎士たちも即座に反応して現場へと駆けつけてきた。
騎士たちの目に飛び込んできたのは、怯える令嬢たちの前に立つ、見るからに怪しい仮面姿の人物だった。誰もがその仮面の者が問題を起こした張本人だと誤解し、警備の騎士たちはすぐさま令嬢たちを庇うようにして剣の柄に手をかけた。
「お嬢様方! 一体何があったのですか!?」
「この、この無礼な冒険者がわたくしに不審な魔法で無礼を働きましたのよ!」
このまま黙っていれば一方的に悪者扱いにされて捕まってしまうと判断し、セリーナは小さくため息を吐くと、警備の前に毅然とした態度で割り込んで口を開いた。
「えっと、騎士様。こちらのお嬢様方は急にこちらへ押しかけてこられ、私のドレスを盗品だと決めつけられました。その上、そちらの使用人さんが運んでいたワインを私にぶちまけようとされましたので、私はただ、自身のドレスが汚れないよう魔法でそれを受け止めただけにございます」
セリーナは指先で、先ほどからガタガタと震えている給仕の使用人を指し示した。
(あの使用人さんが、目の前の伯爵令嬢の権力を恐れて真実を証言してくれないかもしれないけれど……やっぱり先にこちらの言い分をはっきりと主張しておいた方がいいわね。もしこれでも理不尽にこちらを捕まえようとするなら、その時はシルヴィアさんの方へ逃げ込みましょう)
セリーナは怪しげな仮面を被ってはいたが、非常に冷静かつ大人びた態度で、先に状況の全容を説明した。周囲の貴族たちも「またいつものワイン掛けの嫌がらせか」と察し始めたその時、騎士たちが令嬢側に詳細な尋問を始めるよりも早く、人混みを割って一人の人物が朗らかに口を挟んできた。
「おやおや、アリス嬢ではないか! 先日はあの悪辣なトーマスの確保を手伝っていただき、本当にありがとうございましたな!」
突然声をかけてきたのは、美しい茶髪に口元に綺麗に整えられた髭を蓄えた、四十代ほどの立派な紳士――エトワール・アマースト子爵だった。
ドレスの胸元から、サクラリアがセリーナに聞いた。
『セリーナ、あなたの知っている方ですか?』
その質問に対し、セリーナは仮面の下で小さく首を傾げた。
(ええと……誰だったかしら?)
首を傾げて記憶を辿っているセリーナの様子を見て、エトワール子爵はすぐに苦笑いを浮かべながら自己アピールを始めた。
「は、ははは……もうお忘れですかな? 私ですよ、あなたが前に滞在していたバールヴィレッジの領主を務めております、エトワールです」
その言葉に、セリーナは「ああ!」と思い出したように手をポンと叩く仕草を見せた。やっと目の前にいる紳士が、色々と面倒な事件に巻き込まれる原因となった現地の領主様であることを思い出し、すぐに丁寧な挨拶を返す。
「お久しぶりでございます、領主様」
「あ、ははは! お久しぶりですな、アリス嬢……」
すると今度は、子爵の背後から一人の威厳ある老貴族がゆっくりと近づいてきて、セリーナに向けて非常に恭しく挨拶をした。
「おお、これは素晴らしい。実に見事なドレス姿ですな、アリス殿」
その老貴族の姿を見た瞬間、周囲の空気は一変した。エトワール子爵を先頭に貴族たちがすぐさま居住まいを正して最敬礼をし、先ほどの伯爵令嬢たちも顔を真っ青にしながら慌てて深いカーテシーを披露した。警備の騎士たちも即座に一歩後退し、直立不動の姿勢で敬礼を捧げる。
「ロドリック侯爵様! ご機嫌麗しゅうございます!」
この国の重鎮であるロドリック侯爵は、片手にワイングラスを持ったまま、もう片方の手を軽く上げて「礼は良い」と示し、そのまま令嬢たちを無視してセリーナへと話しかけた。
「何やら騒がしい声が聞こえましたが、アリス殿、一体何があったのですかな?」
「はい。こちらのお嬢様から急にワインを掛けられそうになりましたので、魔法でその液体を受け止めただけにございます」
「ほう……。それは本当ですかな、シェリー伯爵令嬢?」
侯爵の凍りつくような鋭い眼光に射すくめられ、先ほどの伯爵令嬢はガチガチと全身を震わせながら、すぐにその場に平伏せんばかりの勢いで謝罪した。
「も、申し訳ございませんでした……っ!」
「ふむ。謝罪の相手は私ではないと思うのだがね?」
その言葉に促され、ご令嬢たちは涙目になりながら一斉にセリーナに向けて何度も頭を下げた。セリーナは逆に恐縮してしまい、「私も別にドレスが汚れたわけではありませんので、どうかお気になさらないでください」と告げ、この騒動を一応は無かったことにした。その後、騒ぎを聞きつけた彼女たちの父親である伯爵が血相を変えて駆けつけ、重ねて何度もセリーナに平謝りすることとなった。
「ははは! まさかエトワール子爵から聞いていた、あのバールヴィレッジで“影なき処刑人”を単独で制圧したという凄腕の冒険者が、この美しいアリス殿と同一人物だったとは夢にも思いませんでしたぞ」
「いいえいいえ、侯爵様。非常にお恥ずかしい話なのですが、当時アリス嬢はうちの執事であるセバスチャンの悪い癖に巻き込まれてしまっただけでしてな。その一件の後も、彼女は一切の謝礼を受け取ることなく風のようにバールヴィレッジから立ち去ってしまわれたのですよ」
「ほう、あの神速のセバスチャンの悪い癖か。彼はまだ元気にしているのかね?」
「ええ、元気があり余っているようでして、最近はナイジェリアの森の奥で新しく発見されたダンジョンにずっと籠りきりなのです」
「ああ、あの新発見の遺跡か! いかにもあいつらしいな。だが、あのダンジョンは調査では最高ランクの難易度だと聞いているぞ?」
「ええ。ですが、どなたかさんの手厚いご指導のおかげで、入り口に立ちはだかるクリスタルゴーレムだけは今は結構安定して倒せるようになったらしいのですが、中のモンスターも強すぎてなかなか奥へは進めないようでしてね」
「ほう、それは興味深いな……」
セリーナは今、とても楽しそうに会話を交わしている侯爵様と子爵様のすぐ傍でお菓子を物色しています。
ロドリック侯爵様は、アリスの正体を「天使様から直々に使命を授かった高貴な精霊」だと認識しています。そしてエトワール子爵様は、冒険者ギルド長のエルドラーナさんからの報告によって、アリスのことを「絶対に怒らせてはいけない人物」だと思っていました。
だからこそ、この貴族のお二人はアリスに恩を売りつつ、彼女の身の安全を完全に守るため、あえて盾となるようにずっと私たちの傍を離れずにいてくれたのです。
お二人の高度な政治的会話を聞き流しながら、たくさんのお料理とお菓子でいっぱいの皿を抱え、離れるタイミングを探していたセリーナでしたが……その時――。
彼女にとって、今この会場で最も顔を合わせたくない、そして最も恐れていた人物が、静かな足取りでこちらへと近づいてきていました。




