第20節 其を形創るもの
「おいアクバール!」
二ヶ月が経って。雀が元気に囀る朝、グラナートは苛立った様子でアクバールの部屋の扉を開けた。本を読んでいたアクバールは、顔を上げて来訪者の様子を伺う。
「どうしたのだね」
「どうしたもこうしたも! あいつ消えたぞ」
「消えた?」
「あのクソガキだよ! 修行させるんだろ! 家に呼びに行ったら留守だったんだ!」
口が酷く悪い。怒り心頭といったところだ。
怪我が治ってきたローエンは数週間前から自宅に戻って療養していた。そしてそろそろ完治した頃だろうとアクバールはグラナートを彼の自宅へ遣ったのだが……。
「……外出だろう」
「いーや逃げたね! 連絡したんじゃないのか彼に!」
「………いや……」
「は? してないのか」
「したら逃げるだろう?」
「………」
グラナートは口を閉じ、そしてアクバールはパタリと本を閉じる。
「ワタシは知らんよ」
「……どうするんだ」
「どうするも何も。探したまえ」
「ハァ⁈ なんで僕が」
「躾などそういう荒っぽいことは君の仕事だろう」
「……半殺しにしてでも連れて来いってこと?」
「それだとまた二ヶ月待つことになるが……」
そこで会話は止まり、グラナートは少しして大きなため息を吐く。
「………分かった。分かったよ。探せばいいんだろう」
「頼むよ」
「期待しないで聞くけど、彼の行くところに心当たりはあるかい?」
「………そうだね。まぁ、あるといえばあるが」
「あるんだ?」
グラナートはへえ、と戸枠に寄りかかった。アクバールは窓の方を見て、少しだけ呆れた顔をすると言った。
「あぁいう男がこういう時に行く所と言えば、女の所の他にあるまい」
* * * * *
「へぶしっ」
「……大丈夫? 風邪引いた?」
「あー……いや。……埃だと思う」
「そう?」
アクバールの言う通り、ローエンはとある女の家にいた。裸体を起こしたローエンは、先に起きていた女からワイシャツを受け取る。
「……二ヶ月ぶりだからってちょっと気合い入りすぎじゃない?」
「二ヶ月待たせたお詫びじゃないか……」
「そ。全くほんとどこ行ってたのよ。みんな心配してたんだからね」
「悪かったよヴェローナ」
名前を呼ばれて、女は肩を竦める。彼女とローエンはそう……肉体関係にあるが恋人ではない。ヴェローナは娼館で働いている娼婦で、ローエンとも店で知り合った関係だが今日は仕事外である。
……恋人ではない、と言ったがそれは二人の間の共有された認識の話、プライベートで体を許すヴェローナが彼に好意を持っていない訳がないのだが。
「……あんたまた傷増えたわね」
「ん? あぁ……」
服を着るローエンに向かって、ヴェローナはそう言った。
「また喧嘩? いい加減懲りないの」
「強い男は好きだろ?」
「………自分のことは大事にして。顔がめちゃくちゃになっても知らないわよ」
「………」
「何よ」
既にめちゃくちゃになった後だがもうすっかり治っている。歪んだりしなくて良かったと包帯が取れた時鏡を見て心底ホッとした。
「……心配してくれるんだな」
「当たり前じゃない。あなたが店に来ない間寂しかったのよ。連絡も寄越さないで」
「皆んなにもまた会いに行くよ。一人ずつ相手してあげないと」
「それはそれは。どうもご苦労様なことですね」
「……? 何怒ってるんだ」
「怒ってません!」
そう言ってそっぽを向いて腕を組むヴェローナ。ローエンはその背中に向かって笑う。
「もしかしてヤキモチか? かわいいな」
「やっ、妬いてないから」
「俺がお前一人のものじゃないなんて始めから分かってることだろ?」
「そうよ。そうだけど」
と、ふと背中に温かさを感じたかと思うと、後ろから抱きしめられてヴェローナは思わず息が止まる。
「っ……!」
「でも今日はお前のものだよ。それでいいだろ? なあ」
「……」
低くて甘い声がヴェローナの体に響く。それは悪魔の囁きのような魅惑的で甘美な響きを持っていた。魂をぎゅっと握られて、取られてしまいそうな。
しかしヴェローナには彼が“これ”を打算的にやっていることは分かっていた。“こうすれば女は大人しくなる”とそうした……彼の若さにそぐわぬ可愛らしくない部分……数多の経験から得た技。
それにまんまとかかりそうに────かかってやっても悪くないと思っている自分が少しだけ腹立たしかった。
「……ずるい人。じゃあ私の言うこと何でも聞く?」
「聞くよ。俺の体で出来ることならね」
ローエンは手を広げて見せる。ヴェローナは振り向いて、彼の顔をじっと見た。闇色の目がキザに細められている。そこにあるのは優しさ、ではなく弱者に対して力を誇示しようとする意志だった。
「……ローエン」
「なに?」
「私あんたのこと嫌いになりそう」
「なんで。でも好きだろ?」
「……それがよく分かんないのよ」
ヴェローナはハァ、とため息を吐いて腰に手を当てた。
「………あんたは私のこと好きでいるの?」
さも愚問だと言うようにローエンは肩を竦める。
「当たり前だろ?」
……彼は自らその言葉を口にはしない。自分が彼の中でどれくらいの存在なのかがヴェローナには計りかねた。それがどうしようもなくもどかしく────……ただの客の一人だと割り切るには彼女自身の感情が強すぎた。
様子を伺うように見下ろして来る目。その目を少しばかり呆れた目で見返して、ヴェローナは再び彼の名を呼ぶ。
「ローエン」
「なに」
「あんたってほんとバカね」
* * * * *
「嫌われるようなことはしないんじゃなかったのか」
一人歩いていたローエンは聞き覚えのある声に顔を上げる。ひとけの少ない裏通り、目の前にただ一人グラナートが立っていた。
「……俺お前にそんなこと言ったっけ?」
「アクバールが言ってたよ。そう豪語してたってね。何だいその顔は」
「うっせぇな……」
ローエンの左頬には赤く手形が残っている。それを隠すように彼は左手で覆う。
「女のビンタも避けられないのか」
「避けられるもんじゃねーっての、馬鹿か」
「そ。まぁ僕には関係ない。そんなシチュエーション一生ないだろうからね」
そう言って肩を竦めるグラナート。ローエンはただでさえ良くはなかった気分がますます悪くなる。
「………何しに来たんだお前」
「君を呼びに。家にいないから逃げたのかと思ったよ」
「誰が………」
「逃げないの? そうか。逃げられるものなら逃げた方が賢明だと思うけどね僕は」
「……何なんだよお前は本当に…………」
「君に稽古をつける。今のままの君じゃ、あまり使い物にならないからね。怪我はもう治っただろう? でなきゃ女遊びに精を出したりしないでしょ」
「お陰様でな」
と、そう言うローエンにグラナートは近づいて来て、右手を差し出した。
「……何だよ」
「握手。治ってからにするって言ったじゃないか」
「………律儀だな……」
「これはケジメだよローエン。仲良くするためのね。もう君をクソガキと呼ぶのはやめる」
「まだ呼んでたのか」
「一人の大人として、友人として認めるって言ってるんだよ。君がこの手を取ればね」
グラナートはそう言ってほら、と握手を催促した。ローエンは左手を下ろし、そして渋々右手を持ち上げ……少しだけ躊躇ってからその手を掴もうとしたその時、素早くグラナートの方から手を捕まえられた。
ビクッ、として手を引こうとしたローエンを逃すまいと、握る手に力が篭る。ミシ、と手が音を立てる一方でグラナートは満面の笑みを浮かべた。
「じゃあよろしくローエン。これから仲良くしよう」
「……お前人と仲良くするの苦手だろ……」
「まぁね」
あっさりとそう答えるグラナート。ローエンの手を確かめるようにブンブンと上下に手を振ったあと彼の手を離す。血が止まって白くなっていた右手をローエンは振り、少し後ずさる。
そんな彼の様子を気にすることなく、グラナートは笑う。
「良ければ名前で呼んで欲しいな。“お前”じゃなくて」
「……気が向いたらな」
「そう。ありがとう」
「お前会話する気ある……?」
「ついておいで」
ローエンの言葉を無視してグラナートはくるりと踵を返して歩き出す。ローエンも少し距離を置いてその後をついて行く。
「で? どうしたの。カノジョにフラれたの」
背中越しにグラナートはそうローエンに話を振る。ローエンは不機嫌な顔をして答える。
「フラれてない……」
「じゃあその手形は何さ」
「怒られただけ」
「それをフラれたって言うんじゃないの」
「今日は帰ってって言われただけ。俺は彼女の言うことを何でも聞かなきゃなんないから言われた通りにしただけ」
「何それ……馬鹿馬鹿しい」
肩を竦めるグラナート。
「虚しくないの?」
「お前には分かんねェだろうな」
「分からない。分かりたくもない」
「じゃあ訊くな」
無言のまま、しばらく歩く。
やがて、スラムを新市街から隠すコンクリートの大きな壁が見えて来た。スプレーで意味の分からない絵が描かれているその前で、不意にグラナートが足を止める。遅れてローエンも足を止めた。怪訝に思ったローエンは、その背中に問う。
「何」
「君は自分をまともな人間だと思ってるかい?」
突然そんな事を訊かれ、彼の意図をはかりかねながら少し考えて、答える。
「……いいや」
「そうか。そうだよね。じゃなきゃこの向こうになんて足を踏み入れないだろう」
グラナートは空を見上げた。壁は地面を隔てているが、青い空は変わりなく繋がり、白い雲が流れて行く。
「形はどうあれ、僕たちは同類だよ。この壁の向こうに生きるものは皆ケダモノさ。アクバールは外から来るものをそう言うけどね」
「……」
「普通の生活が出来ると思わないことだ。君には大事な女を捨てる覚悟がある?」
「は?」
グラナートは振り向くと、手を広げた。
「分かるだろ? 君はこれから殺人者になる。今までのお遊びとは比にならないほど、残忍で残虐なことをする。そんな血に汚れた手で、今まで通り女を抱くのかい君は」
「………俺は俺だ」
「……そう。そういう覚悟か」
グラナートは首を傾け、フッと彼を試すように笑った。
「────ローエン。少し散歩をしないかい?」
* * * * *
スラム街の薄暗く湿った路地を、二人は歩く。息を潜める気配をグラナートは感じながら、堂々としてスタスタと歩いた。
「……おい、どこ行くんだよ。教会に行くんじゃないのかよ」
「まぁ……少しくらい寄り道したって怒らないよ彼は。僕と君は友人だろう? なら仲を深めるために少しくらい散策したって、ね」
文句を言いながらもついて来るローエンにそう言って、グラナートは不意に壁の雨樋に手をかけ、足を止めた。
「これなら君でも登れるか。上に行こう」
「えっ」
とローエンが呆気に取られている間に、グラナートは建物に向かって地面を蹴ったかと思うと、正面の壁を蹴り、そして今度は向かい側の壁を蹴り、そうして狭い路地の壁を交互に蹴ってあっという間に屋根の上へ登って行った。
「……嘘だろ…」
「ほら。早く登っておいでよ。木登りは出来るかい?」
「いや……普通に考えて無理だろこれ、壊れる」
「そんなことないよ。まぁ普通に登ろうと思ったらそりゃ……壊れるけど。上手くやれば登って来れる」
「………」
「落ちたところで大した高さじゃない。ほら早く」
「大した高さだよ!」
そう叫んでみるも、グラナートは屋根の上からこちらを見下ろすばかりで手を貸したりとか、諦めて降りて来るような素振りはなかった。
────どうにかこうにかして、ローエンが屋根に登り切ると、グラナートは彼が体勢を整えるのを待たずにある方向を指差した。
「あれが見えるかい?」
「……ん」
指の先を見ると、周りの建物より一つ頭の出た建物があった。レンガ造りの、昔何かの施設だったらしいものだ。
「……あれは?」
「僕が以前気に入って根城にしていた建物さ。元々……何だったかな。忘れたけどまぁ丈夫で良い建物だよ」
「それを見せたかったのか?」
「いいや? ほら、僕は今もう住居を貰ってあんな所に住んでないじゃないか。まぁ、スラムの住人に住んでもらう分には良いんだけど、どうも最近イヤなのが住み着いちゃって」
と、グラナートはそうため息を吐きながら言うと、ローエンの方を向いた。
「さぁ、もっと近くに行こう」
* * * * *
屋根伝いにぴょんぴょんと進んで行くグラナートに少し遅れながらもついて来たローエン。近くで見るとその建物は本当に頑丈そうだった。立地的にはスラムの中心……より、少し北にずれた所だろうか。周囲は住居跡のようだった。北の果てには壁に隔てられた新市街が見え、南の方は使われなくなったたくさんの工場や倉庫が見える。
「………ここも昔は街だったのか……」
「今さらじゃないか? アクバールが来た頃は賑わっていたそうだよ。今ここに住んでいるのも、新市街に移れなかったここの住民だったり、新市街から溢れて来た人たちだ。……捨てられた街さ」
憐れむような、鼻で笑うようなどちらとも取れるような態度でグラナートは言うと、レンガの建物に飛び移り、窓へ向かう。中を覗く彼にローエンは続く。窓は長いこと掃除されていないようで酷く汚れていて、中はとても見辛かったがどうやらそこは吹き抜けになったロビーの二階部分のようだった。
「……役所とかそんな感じ…?」
「そうかも。まぁ今住んでる人間には関係のないことだ」
下の方で人の気配がする。何か物音がしているが姿は見えない。
「なんかいるな」
「分かるかい。新市街から来たろくでなし共さ。丁度何か獲物を連れ込んでるみたいだ」
と、グラナートは窓から離れると隣のローエンに向かって変な笑みを浮かべる。
「ね。ローエン」
「何──……」
「あいつら、殺してきて」




