第19節 黎明の契約
「やれやれ、こっ酷くやられたものだな」
扉を開けて開口一番、アクバールはそう言った。ベッドの上からローエンが睨んで来る。アクバールはフッと笑う。
「すまないね、あれは狂犬なものだから。あぁ、折角の綺麗な顔が台無しじゃないか、可哀想に」
「……からかってるのか?」
「まさか。すまないと思ってるよ」
アクバールは扉を閉めると、椅子に座る。
「気分はどうだね?」
「いいと思うか」
「それはそうだね。……グラナートと何か話したかい?」
「………」
「まぁいい。では今後の話をしよう、リタ・ローエン」
「! ……何で俺の名前……!」
驚き、そして彼はアクバールに掴みかかろうとするが怪我のせいでそうは行かなかった。
「少々調べさせて貰ったよ、君が寝ているうちにね。ワタシの下で働いてもらう以上は少しは身元を調べておかないとね……」
アクバールは足を組むと、ふむ、とローエンの顔を見た。
「なかなか良い家の出だそうじゃないか。母親と二人、兄弟はおらず一人っ子。……随分甘やかされて育ったんじゃないかい?」
「………」
「怖い顔だ。どうやら違うと言いたいようだね」
「……どこまで……?」
「どこまで調べたか? まぁそうだね、君の生い立ちについてはワタシの知るところではないよ。君がこの街へ来た時期と、それからの人となりくらいだね」
ローエンは落ち着かない様子だった。この得体の知れない胡散臭い神父が、一体自分の何を知ったというのか。まるで心臓を掴まれているかのような気持ちだった。
「一年半くらい前から、君がアザリアの娼館に出入りしているという話を聞いた」
「!」
すり、とアクバールは顎を撫でて首を傾げ目を瞑る。
「……まぁ何だ。ワタシの知り合いにも君のような……いわゆる“女たらし”というのがいるのだが……」
「遊び人は嫌いか」
アクバールは片眉を上げる。彼は“知り合いの女たらし”を思い浮かべていたが、どうも彼とは様子が違う。真面目、とは違うが“彼”のように軽い印象ではとてもない。人は見かけによらぬのか、それとも様々なタイプがいるのか、ともかくアクバールは目の前の一回りも歳下の若者に対して意外さを感じていた。
「君が刺されるようなタイプではなければいいが……」
「女のコに? ないな」
「なぜ言い切れる」
「俺は嫌われるようなことはしない」
そういう彼の声は自身ありげだった。ここにいるのがグラナートならば「また勘違いをしている」と冷たく言い放ちそうなものだが、アクバールはただ呆れていた。
「……料理を喜ぶのは女性たちか」
「そう」
「何人も相手を?」
「向こうも承知の上だ」
淡々としてローエンは答える。アクバールはそこに謎の真剣さを感じ取った。アクバールはそしてため息を吐く。
「……分かったよ。その辺のことは放免にしておこう。ワタシが口を出す問題ではないな」
「問題ですらない」
「………そうか」
さて、とアクバールは膝を叩く。
「では仕事の話をしよう」
それを聞くなりローエンの顔は曇る。彼が乗り気ではないことはアクバールには分かっていた。
「まずは仕事の内容だが。君にはスラムを荒らすならず者たちを掃除してもらう」
「………ならず者?」
「君が普段から相手にしているような奴らだよ。彼らはこの街の弱き人々を食い物にする。ここに懸命に生きる人たちを人と思わぬ害獣どもだ」
「……人を人と思わねェのはアンタの方だろ」
「害獣は害獣だ」
アクバールは肩を竦め、そして続ける。
「シンプルな暴行から人身売買、クスリに見世物、あらゆる悪意がこのスラムを闊歩している。何故だか分かるかね? ここは捨てられた街だからだ」
アクバールの目が一瞬怒りを帯びたのを、ローエンは見逃さなかった。しかし、それはすぐにいつもの笑みの中に紛れて消えてしまう。
「政府はこの惨状を見て見ぬフリをする。無いものとして蓋をする。誰も手を差し伸べようとはしない。……だからワタシが助ける」
「……アンタが?」
「だがワタシには力がない。見ての通り非力でね。悪漢の一人もこの手では倒せない。だから君のような人間の力がいる」
「………あいつもその一人?」
「グラナートかね。そうだ」
「あいつが一人いれば十分だろ」
「そうも行かない。確かに彼は桁違いに強くはあるが……今後は医者に専念させたくてね」
「どうして」
「彼の身の上の都合だ。彼が殺しを働いていては都合が悪い」
────本当の理由は少し別のところにあるのだが。アクバールはあえて本当の理由は言わなかった。
ローエンはふーん、と天井を見た。
「……俺はたくさん人を殺すのか」
「奴らだってたくさんの人を殺す。罪のない人々をたくさん傷つける。目には目を、歯には歯をくれてやる。それだけの話だよ」
「………」
「納得行かないという顔だ。………君は強くなりたいと言った。だから喧嘩を仕掛けると。その行動にワタシが“意味”を与える。その力を人助けに使うのだ。その上報酬もワタシから支払う。何か不都合があるかね」
ローエンは答えない。アクバールはじっと彼を見る。なんて事はない一人の青年である。凶悪な人間ではない。少し腕が立つというだけ、時たま人は死なせる……だが普通に“普通の”暮らしをしている女とつるむ……という具合のアウトローに片足を突っ込んだような生活をしている青年だ。元から殺し屋のルチアーノ達や、殺人鬼だったグラナートとは少々訳が違う。
「………分かった」
思った以上に淡白な返答だった。そこに渋々さや乗り気さもなく、ただそれは提案を受け入れたというだけの返答だった。
「俺、やるよ。いつまでかは分からないけど」
「やるからには夢の達成まで付き合ってもらうよ」
「はは、無理だろそれ」
「無理だなんて言ってはいけない。作るのだ。我々で新たな幸福な世界を」
「……宗教勧誘はお断りだって言っただろ」
「そういうわけではないのだがね……」
アクバールは立ち上がると手を広げた。
「ま、本格的な仕事は君の体が治ってからになるね。やれやれ。その様子だとしばらくは無理そうだな」
「…………ここ、アンタの部屋だろ」
「動けるようになるまでここで休みたまえ。その後は……家があるのだったね」
「あぁ」
「なら帰って休むといい。それまではワタシのことは気にしなくていいよ。君とは違ってどこでも寝られるからね」
「……バカにすんなよ………」
「おや、気に障ったかね。それはすまない」
心底心外だったという顔をして、アクバールは謝罪する。どことなく……ローエンは彼の中にある無意識下の嫌悪を感じ取った。
「ではね」
バタン、と扉を閉めて彼は出て行った。また一人残されたローエンは雇い主となったあの神父について考える。
変な男だ。厄介なのに拾われたとそんな気がしていた。あの医者も変だ。二人合わせるともっと変だ。何か間にやんごとなき事情があるのは明らかだった。グラナートはアクバールをどこか憎んでいるように見えた。あの神父についているのは不本意だとそう言っていた。アクバールの方は分からない。それでも二人は一見して友人のように振る舞っている。しかしそれは非常に脆い関係だ。少しでも……何か波が立てば崩れてしまいそうな。ローエンにはそう見えた。
彼は教会というものに来たことがなかったが、本来“神父”があぁいうものでないのは分かる。ましてや人殺しを依頼する神父なんてあり得ない。聖職者だろ、とローエンはモヤモヤとするがどうにもならない。
しかしそれでも、彼がこのスラムに抱く慈愛のような感情は本物に見えた。彼は本気でこの捨てられた街を救いたいと思っている。その為なら手段を選ばない。慈愛の深さゆえに、この街の敵への憎しみが大きくなって………。アクバールの目に一瞬見た怒りを思い出した。普段はにこにこしている彼だが、胸の内にはいつもあんな感情が揺らめいているのだろうと思った。だとしたら、やはり彼は恐ろしい人間なのではないか。
(……俺もつくづく運がねェ)
何ひとつ、生まれてからこの方上手くいったことなんてない。内に刻まれたある“呪い”から逃げ続けて、今日まで来た。ふと家のことを思い出した。帰りたいのだろうか? 帰れば少しはまた……いや。そんなはずは。あの人が心を入れ替えるはずがない。帰ったところで居場所はない。それならば、まだ幾分かここの方がマシかもしれない……とそう思えた。神父もあの変な医者も、この名も無き自分を受け入れてくれる。それだけでただ……幾分かマシなのだ。
*****
「最近どうです」
スラムのとある酒場にて。定期的な金の受け渡しにやって来たルチアーノと、一緒にやって来たラファエルと共にアクバールはいた。古びて色んな染みがついた円卓を囲んで、三人は味気ない水を口にしていた。ここは辛うじて営業している酒場で───最近はアクバールが目をつけ専らルチアーノ達との会合場所となっており、営業出来るのもアクバールが支援をしているからなのだが────他にひとけは一切ない。店主は顔見知りの神父のために奥に引っ込んでいるし、店の中は時折天井裏を這い回るネズミの足音が聞こえるくらいの静けさだった。
「あぁ、まぁぼちぼちといったところだ」
「……なんだか嬉しそうですけどね?」
「そう見えるかね」
ふふ、と笑ってアクバールは水を飲む。ルチアーノは肩を竦める。
「また何か面白いものを見つけたという顔ですねそれは」
「やれやれ。その隻眼は何でもお見通しかね」
「オルラントさんは比較的分かりにくいですけど、まぁこの付き合いですし。段々分かるようになって来ましたよ」
「心を覗かれるのはあまり良い気分ではないね」
「すンません」
「いいや。謝ることはないさ」
ルチアーノも老けた。40歳を過ぎて随分と落ち着きが出た感じだ。傍らのラファエルも18歳の青年になった。相変わらず中性的で眉目秀麗といった顔立ちだが、その中には確かに青年らしい逞しさも存在した。無口で喋らないのも相変わらずだが。
「まぁ何だ、良き拾い物をしたというだけの話だよ」
「拾い物?」
「使えるようになるには、しばらくかかるがね」
そう言って苦笑すると、アクバールは水を口に含んだ。
「……仔犬とでも言っておこうか。可愛らしいものだよ」
「…………仔犬、ねぇ」
ルチアーノは頬杖をつく。その視線を受けてアクバールは肩を竦める。
「言いたいことは何となく分かるよ」
「俺たちみたいなロクでなしですか。それともウィリアムみたいな怪物ですか」
「さてね。今はまだ……だが、いずれどうなるかは彼次第だ」
「……その彼も殺しを?」
「ウィリアム……グラナートを下げる代わりにね。君たちとは別に働いてもらう」
「俺たちだけじゃ不服ですか?」
「そんなことはない。ただ……この街の脅威になる前に手懐けておこうと、それだけの話だ。手駒が多いことに越したことはないからね」
ウィリアムのような快楽のために人を殺すようなものではない。彼は人殺しがしたくて殺しているわけではなかった。ただ強さを求める。その純粋な気持ちがどこへ向かうのかは分からない。だが、手中に収めておけば少なくとも弱者を喰らう怪物にはならないだろう。
「その“仔犬”、噛みませんか?」
「噛もうとするが、噛むほどの力はないと言ったところかね」
「噛もうとするんですか」
「まだ警戒されているだけさ。その内心を開いてくれる。君たちだってそうだろう?」
「………少なくとも、俺はですけど」
「おや、それは少し寂しいものだね」
まだ彼らの中にはワタシを警戒している者もいるということか、とアクバールは内心ため息を吐いた。
「まぁ何だ。いざとなればそこはそれ、君たちが何とかしてくれるだろう」
「はぁ。そうですか……」
「何だね」
「呆れてるンですよ、俺は」
やれやれとルチアーノは首を振る。
「優しいンだか薄情なンだか。オルラントさんのそういう所は何年経ってもまったく変わらないですね」
「薄情? ワタシが?」
「無自覚なのも……」
ハァ、とルチアーノはため息を吐いた。そしてトントンと指で机を叩いた。
「……それで。久しぶりに俺らに仕事のひとつも無いンですか」
「あぁいや、あるとも。少々大きな相手でね。君たちの力を借りたい」
「それはどうも」
アクバールは仕事の話を始める。ルチアーノはそれを真剣に聞き、その傍らのラファエルは神父の話を聞きながら思案する。
10年……青年にとっての半生を、この神父の元で過ごして来たわけだが。ラファエルはルチアーノの言葉を受けて、自分が果たしてこの神父についてどう思っているのかを考える。……分からない。彼は特別他人への感情を考えたことがなかった。ただ、ルチアーノのことだけ。自分を拾い育ててくれた人として他にはない信頼を置いている────のだろうと、思っている。他人事のようなのはそれも実感としてよくわからないからだ。自分を愛していた両親の死すら自分はあっさりと受け入れた。どうしてあの時、真紅の海の中でこの両親の仇に心奪われたのか。10年前の自分に問うても分からない。ただ、こういう事実が今ここにあるだけだ。
ルチアーノは神父を「薄情だ」と言ったが、それは自分のことを言うのでは……? と、ラファエルは凪いだ心の内で思う。
自分には何かが欠如しているのだと青年は理解していた。たとえば、ルチアーノに何かあったら自分はどうするのか。仲間たちに何かあったら────誰かが、失われることがあったとしたら。
常に命の危険と隣り合わせで生きて来た。仕事に赴けば明日があるとは限らない。それでも今日までを生きて来た。誰一人欠けることなく。自分を除く仲間たちは皆“復讐”という強い目的を持って。この穏やかに見えるルチアーノも。女遊びに耽る呑気なリアンも、いつも死にたそうに見えるテオドラも、無邪気に見えるハルも。
強く燃える心を持って生きている。それなのに、自分は────。
(────ルチアーノさん。僕の心を知ったら失望しませんか?)
そこに芽生えた感情の名前を、ラファエルは知らなかった。




