ファルソ・マリオネッタ
物心ついた頃には自分は“女”だった。
そういう風に育てられた。“リタ”という名もそういうものだ。母にとって“リタ”はたったひとりの娘だった。
「今日もとっても可愛いわリタ。私に似たのね、あぁ、本当に……」
ドレスを着て鏡の前に立つ“リタ”の後ろで、母は恍惚とした表情をする。対して当の“リタ”はむすりとして、どこか落ち着かない様子でスカートを掴む。
「……もうやめてよ、母さん。私、もう着たくないよ」
その喉から発された声は少女にしては低かった。スカートを握る手はややしっかりとして、力んだ前腕には薄く筋が浮かぶ。
「どうして? こんなに可愛いのに」
母の甘い声が“リタ”の耳を撫でる。肩に手が置かれる。背筋がぞわりとした。
「リタは可愛い私の娘なんだから、可愛くしてなきゃダメよ」
鏡に写るその姿は、少女といっても差し障りなかった。肩まで伸びた闇色の癖毛と、垂れた闇色の瞳。整った鼻筋とおとなしい口元……ただ少し首元のたくましさを除いては、それは可憐な少女に見えた。
鏡越しに、後ろに控える使用人の女を見た。彼女は目を瞑っていた。何も見ないように。静かに、息を殺して。自分は憐れまれているのだと子供なりに“リタ”は思った。
「母さんには……見えないの?」
「何が?」
「分からないの?」
見上げた母はきょとんとしてこちらを見下ろしていた。
……そこで“リタ”は諦めた。
*****
「どうして! どうしてこんなことするの!」
母のヒステリーな声に耳を塞ぐ。“リタ”の姿は少年だった。ワイシャツに、黒のズボンを履いて。それはごく普通の良い家の少年だった。
「やめて! やめてちょうだい! そんな格好しないで!」
「かあっ、母さん! ちがっ」
バシバシと握った拳で叩かれる。目の前に湧いた悪い幻を消し潰そうとするかのように、母は少年の姿をした“リタ”を叩く。
「違う! 違う! あなたは! どうして! ……っ、どうしてっ…」
叩く手が止まって、母は泣き崩れた。体を守っていた腕を下ろしながら“リタ”は彼女の姿を見る。
「どうして……あなたは男なのよ………」
現実を見た母は心底悲しんでいた。
その頃から少年は勝手に街に出るようになった。少年の格好をして。その姿は裕福な家の人間に見えた。きっかけはそんな理由だったのだろう。
「おいお前」
どこへ行くでもなく、街の静かな裏通りを歩いていた時そんな声を掛けられた。見れば16歳くらいの男が複数人、薄暗く狭い路地の壁に寄りかかってニヤニヤと笑っていた。奥の暗がりの中に誰かが倒れている。少年はどきりとした。
「良い家の坊ちゃんが一人で何ほっつき歩いてんだ?」
「……あなたたち、何してるの」
「あん? はは、なんだその言葉遣い」
少年が発した女っぽい言葉に男たちは笑う。
「何ってまぁ、そうだなぁ。この辺りを取り仕切ってる。というわけでそう、通行料置いてけよ」
「通行料……?」
「金だよ金。持ってるだろお前」
リーダーらしき一人が近付いてくる。少年は後ずさる。
「……いやよ」
「何だお前、気持ち悪いな」
突然頬に衝撃が走った。母に叩かれることは何度もあったが、その比ではなかった。わけが分からないまま地面に転がる。痛い。少年は動けなかった。
「っ……!」
「オラッ! 黙って金出せや!」
「っぐぁ!」
腹を蹴られる。繰り返し、繰り返し。何かを吐いた気がするが、それが何かは分からない。ただ、痛い。痛くて、なんだか悔しくて、何も分からなくなって、やがて意識がなくなって────
……気付いた時には、自分の部屋だった。
夢だったのかと体を起こすと体が痛んだ。顔も痛い。家の使用人が見つけたのか────ともかくとして自分は倒れていたところを運ばれて帰って来たらしい。
身につけている服はフリルのついた寝巻きだった。
────心底吐き気がした。沸々とした知らない感情が湧いてくる。この服にも、あの男たちにも────そして、姿のない母親にも。
腹の中をかき乱されるような気持ちの悪い感情に、青年は拳を握り締め、布団を叩いた。
別の日に。カラカラと音をさせて少年は歩く。街で買った真新しい黒いパーカーのフードを深く被って。手にはその辺で拾った鉄パイプ。あの日と同じ裏通りを……あの日とは違う足取りで彼は歩いた。
やいやいと、声が聞こえる。忘れるものか。あの声だ。
同じような路地で、あの日の男たちが別の誰かを殴っていた。あの日と同じような言葉を吐いて。
少年は息を潜める。静かに彼らの背後へ忍び寄る。妙に冷静だったが心臓は激しく跳ねていた。鼓膜に鼓動が届き、目の前の男たちの声は遠くに聞こえる。持っているものを振りかぶる。あの日自分を殴った男目がけて。
カラスの声がする。ハッと我に帰った時、自分は血まみれで目の前でうずくまった男が一人、怯えていた。足元には男たちが転がっている。まだ微かに息がある。でもちっとも動かなかった。
「……ハア………ハア……」
やけに大きな自分の呼吸に、唸りのような声が乗る。カランと音を立てて真っ赤な鉄パイプが落ちる。
急に体が震えた。しかしそれは恐怖によるものではなく、ある種の悦びのような感情だった。
「強い……」
血に汚れた手を見て、握りしめる。倒した。一人くらいは殺したかもしれない。この男たちを倒した。自分は強い。可憐な少女なんかじゃない。
たとえこれがまぐれだったとしても、少年には大いなる自信になった。強くあること。これが本当の自分のアイデンティティだと。
「…………あの……」
暗がりからの声に、少年はハッと我に帰る。
「たす……たすけ」
そんなことを弱々しく言う男に少年は冷たい目を向けた。そのまま踵を返して歩いて行く。帰ったら母がなんて言うかなんて考えなかった。怖くない。あんな女なんて怖くない。
口角が上がる。自由だ、とそう思った。
バシッ、と頬を叩かれる。痛みなんて、男に殴られたのに比べればやさしいものだった。だけれどそれ以上に少年の心には響くものがあった。それが衝撃で、少年は目の前でワナワナと震える母に何も言えなかった。
「汚らわしい……汚らわしい! 何てことを!」
母が現実を見て諦めることはなかった。少年を“リタ”の枠に収めようとする。
「あなたは女の子なのに! どうして分からないの!」
「……分からないのは母さんの方だよ」
「うるさいうるさいうるさいうるさい‼︎ リタはそんな口きかないの! その野蛮な口を閉じなさい! 汚らわしい!」
母は男を憎んでいるようだった。きっと何かきっかけがあったのだろうが、そんなことは少年の知るよしもない。我が子が女であることに拘るのもそのせいだった。だから家の中には女しかいない。
────私一人。
少年はそう思うと、家の中には敵しかいないように思えた。だから彼は、日中ほとんどの時間を家から抜け出すようになった。
*****
少年は18歳になって、青年に成長した。大人と言えるようになった年頃の彼は、きっぱりと家から飛び出した。母には勿論何も言わなかった。声変わりして男の声になった我が子に、母は口を閉ざすことを要求した。だから何も言わなかった。
もう、関係ない。俺はアンタの娘じゃないのだから。
「そこの素敵なお兄さん」
行く先もなくフラリと夜の街を歩いていた時、不意に声を掛けられた。誘うような女の声。振り向けば歳上そうな女が壁際に佇んでこちらを見ていた。
「お時間ある? あたしと楽しいことしない?」
それがいわゆる客引きだということを青年は知らなかったが、彼は彼女について行ってしまった。
単純に嬉しかったのだ。“異性からの男扱い”にこれ以上ない満足感を感じたのだ。
「あれっ、あなた未成年⁈ ごめんなさい、あたしより歳上に見えたの」
ホテルの部屋に入ってから年齢を訊かれ、答えるとそう謝られた。青年には意味がよく分からない。
「…………えーと、何…?」
「えっ嘘っ、何にも分からずについて来たの? 危ないよー。……あたしが言うのもなんだけど」
はぁ、と彼女はため息を吐くと部屋を見回した。
「まぁ仕方ないか。あたしのミスだし。今日はここで泊まって行きなよ。お金は全部あたし持ち。お詫びよ」
「あの……」
「だぁいじょうぶ、寝込み襲ったりしないから。こっちも仕事なの。…ってそうだ、何にも分かってないんだっけ……」
ガリガリと頭を掻いた彼女はビッ、とドアの前で呆けている彼を指差した。
「ちょっと待ってて! とりあえずシャワーだけ浴びてくるから!」
部屋に備え付けられたシャワールームから水の音がする。その間、青年は初めて見る部屋の中を見渡す。
部屋の中には大きなベッドと、小さなテーブルしかない。大きめの窓からは夜の街が見渡せる。自分の家は見えない。彼の家は大きな屋敷なので、見えれば遠くからでも分かるのだが。方角が違うのだろう。
ベッドに座ってみる。家のベッドの方が良かったなぁ、とそんなことを思った。
「お待たせ〜、あら、何?」
ローブを纏った彼女は座る青年を見て驚いたようだった。
「座るところがないから…」
「………ああそっか、そうだよねーごめん」
またひとつため息を吐いた彼女はよいしょと青年の隣に座る。
「……いい家の坊ちゃんなのかな?」
「!」
「仕事柄服装とかで分かっちゃうんだ。お金のない人引いても意味ないからさ。良い服着てるから社会人のお兄さんに見えたんだよ」
「…………」
「通りで世間知らずなわけだね。こんな怪しい人にホイホイ着いて来ちゃうなんて……いいの? こんな時間に出歩いて」
「……帰りたくないんだ」
「そうなの? まぁそういう時期もあるよね」
あはは、と笑う彼女。何が面白いのか青年には分からない。
「あたしエヴァ。あなたの名前は?」
「…………」
「なーんで答えないの」
「……ローエン」
口から出たのは、名前ではなくファミリーネームだった。しかしエヴァはそれをそのまま名前として受け取ったようだった。
「ローエンかぁ、カッコいい名前だね」
「かっこいい?」
「うん。あなたにピッタリだよ」
にこりと笑うエヴァ。その時はた、と青年の膝に雫が落ちた。
「……えっ? わっ、どうしたの」
慌てて彼女は青年の顔を覗き込む。青年は顔を拭い、首を振る。
「わ、分からない」
胸の中に突如として溢れたのは、形容し難いふわふわとした感情だった。ぽろぽろと溢れる涙と一人戦っていると、エヴァがそっと背中に手を置いて来た。
「……大丈夫? お姉さんで良ければ話聞くよ?」
優しい声で言われて、初対面のこの人に青年はつい自身のことを話てしまった。
「────そっかぁ、それは大変だ」
エヴァは青年の話を過去にはしなかった。茶化すこともしなかった。眼前で目を赤くした青年の肩を優しくさすっている。
「ずっと否定されて生きて来たんだねぇ……」
「だから……逃げ出したんだ」
「偉いねぇ、ちゃんと逃げられたの」
エヴァは青年の両手を握る。顔を上げた彼と視線を合わせた。
「あたしは、逃げられなかった。だからこうなってる」
「こう……?」
「体でしか稼げないって。そう言われてそのまま……。あはは、情けな」
笑うエヴァは少し悲しそうに青年には見えた。
「あたしはあなたと違って本当に女だからね、ほら。うちは男兄弟ばかりでさ。なんか、そう虐げられてたわけ」
握った手を持ち上げるエヴァ。青年の目はそっちへと吸い寄せられる。華奢な手だった。細くてしなやかで。対して自分の手はゴツゴツとして大きかった。
「自信ない? 自分が男だってこと」
「……君が言うなら」
「じゃあ教えてあげるよ、あたしが」
そのまま自分の胸へ青年の両手を当てるエヴァ。青年はどきりとする。
「柔らかいでしょ? ね」
「…………あの」
「遠慮しないで。あたしは慣れてるんだから。あなたがきちんと男だってこと教えてあげる」
と、そこまで言って彼女は手を離した。
「……嫌だったら言って? 同意なしにするような人間じゃないから」
「………」
その時の青年には微かな予感しかなかったが、嫌な気持ちはなかった。むしろ不思議な高揚感に包まれていて、青年は彼女の言葉に首を振った。
「嫌じゃない」
「そっか。良かった」
エヴァは笑うと着ていたTシャツを脱ぐ。現れた肌に青年は鼓動が大きくなるのを感じた。
「ほら、力を抜いて目を閉じて」
柔らかな唇が青年の口を塞ぐ。息の仕方が分からなくなって、少しくらりとしてそのままベッドへ倒れ込む。
何かが満たされる感じがした。ふわふわとした頭の中、彼は彼女に身を委ねた。
*****
鳥の声に、目を覚ます。開いた目に飛び込んできた光が眩しくて何度か瞬きをして、体を起こす。
目覚めるとそこには誰もいなかった。残っていたのは裸の自分と隣のシーツのシワと、そしてテーブルの上の書き置きだけだった。
すぐ側に散らかっていた服を着て、テーブルの書き置きを見る。
『昨日はごめん…いや、違うか。ううん。何も言わないでおくね。お金はいいよ。あなたとのことは仕事じゃないから。じゃあね』
名前すら書かれていない。一夜限りの夢だったのか。
紙を持つ手に、昨夜の感触を思い出す。彼女の体は柔らかくて、細くて、少し力を入れれば壊れてしまいそうなそんな感じがした。
青年はこの6年間、ただ強くなろうとした。ただひたすらに同じ男を倒すことだけを求めていた。結果、体は傷だらけになりながらも確かに逞しくなった。成長期を終えて身長もかなり高くなった。
でも、何かが足りなかったのだ。それが今は満たされたような気がした。確かな自信。
──────母が求めていたものと自分は確かに違うものなのだと。
そんな確信が彼の中に生まれた。
寝起きでまだぼうっとしている頭で明るい窓の外を見る。空は青く澄み渡っている。小鳥の群れが飛んで行く。
「……これからどうしよう」
もう帰らない。あの家はもう自分の家ではない。母は自分を探すだろうか。分からない。彼女はきっとこの自分を受け入れてはくれない。
青年は大きく息を吸う。そしてゆっくりと吐き出す。
昨夜の彼女を思い出す。優しく隣で笑ってくれた彼女を。
「俺の名前は……ローエン」
そう呟く。“リタ”はもういない。その名は狂った女が求めた幻の少女のものだ。
窓に背中を向ける。部屋の扉へと歩き出す。その足取りはしっかりとして────まだ道先は暗けれど────その日、“悪魔”は初めて外界へと足を踏み出した。




