第三章
身体が痛かった。妙に軋むし、誰かにゆすられているような感覚もある。
真っ白だった世界が、徐々に色を取り戻していく。それと同時に記憶や意識もはっきりと戻っていった。
「京ちゃん!」
「京介!」
誰かが俺の名前を呼んでいる。だがまだ目は開かない。それだけの力が入らないのだ。
五感が元に戻るまで、どれだけの時間がかかっただろう。最初は薬の匂いと耳に入る声や音。そして、最後に目の前が徐々に開いていった。
「な……なんだよ……うるせーな」
俺は喉から絞り出すようにそう言った――と思うが、目の前の二人にそれが届いたかは分からなかった。
「きょ、京ちゃん!」
何かが強く手を握った。目だけを動かして見ると、それは由美の両手だった。
「京介、大丈夫か?」
泣き崩れる由美の横には、宏輝の姿があった。いつもはしっかりと着こなしている制服も少し乱れている様子だ。大丈夫――と言いたいところだが、ちょっとキツイかもな。身体の自由が効かない。声こそ発せられるも、俺の周りを囲む医者や看護婦、そして厳つい機械類を見る限り、どうやら俺は死にかけてたのかな。
「先生! 脈拍、正常に戻りました!」
一人の看護師がそう告げ、一人の医者が俺の目にライトを当てたりして状態を確認していた。その医者には見覚えがある。宏輝の親父さんだ。
「なんとか山は越えたみたいだ。とりあえずは大丈夫」
でも油断できないなどの説明をしている宏輝の親父さんを横目に、涙を滝のように流す由美と顔を隠す宏輝に笑顔を作ってみせた。
「京ちゃん! 本当によかった。よかったよぉ」
「まったく……大丈夫なら最初から言ってくれ」
「……悪かったな」
声が発せれるだけまだマシだろう。もうまともに身体は動かないけどな。
部屋にかけられたカレンダーを見る限り、医者の死の宣告日にはまだ二日あるが、どうやらそれよりも早く俺の身体はあの世に行きたがっていたらしい。
「では、また何かあったらすぐに駆けつける。ご家族はもうすぐ到着されるらしいが、宏輝も由美ちゃんも、京介くんと一緒にいてあげてくれ」
そう言って、宏輝の親父さんと看護師は病室を去っていった。
それを見送っていると、妙に頭が痛くなった。何かを忘れているような、そんな気分に襲われたからだ。
「ん? まだどこか気になるのか?」
これから医大に進むであろう宏輝が異変に気づき声をかけてくる。だが、そういう病気的な痛みではなかった。
「……大丈夫」
記憶が、一部丸々なくなっているような。そんな感覚だ。
「そうか。ならいいんだが」
なんだろう、この空虚感と喪失感は。俺は一体何を忘れて……。
「京ちゃん、お水飲む? それとも、りんごか何か剥こうか――って、食べられないよね」
涙を拭いた由美が、俺の手を握ったまま言った。食欲か。確かにお腹は空いた気がする。
「……今日は……カレーだろ?」
「え? カレー?」
え?
俺は何を言ってるんだ?
カレーなんて、この病室で食べれる訳がない。それに何か……くそっ! 思い出せない。
「京ちゃんカレーが食べたいの? なら退院してからね」
何言ってるんだ。退院なんて出来る訳……あれ?
そういや、俺は今までパラレルワールドに行ってて……。
「その時は、京ちゃんも買い物手伝ってよね?」
そうだ。パラレルワールドで俺は由美に夕飯はカレーだから買い物を手伝ってと言われたんだ。
欠けていた記憶が、パズルのように重なっていく。俺はそれから健康診断に向かうため、風音と花音を見送ってから病院に行ったんだ。
「まったく。死にかけたっていうのに、カレーなんて本当に死んじゃうぞ」
それで、宏輝を呼び出して。
「まぁこの様子なら、ドナーが見つからなくても治りそうな気もするけどね」
宏輝の言葉で、足りなかったピースが残りの穴に収まった。その瞬間、まるでダムが決壊したかのように記憶が流れこんでくる。俺は骨髄を持って、この世界に戻ってきた。そうだ、あの紙袋は!
「どうした京介?」
「何か探してるの?」
俺は持てる力を全て使い、首を動かした。辺りを見渡してもそれらしき物は見当たらない。もちろん手にも持っていないし、ベッドの上にもない。そこで全てを悟った。
そう。俺は失敗したのだ。
宏輝が確か言っていたな。強い想いの篭った物は持ち出す事ができるって。つまり想いが足りなかったのだ。あの髪飾りは十年近くパラレルワールドの由美が大事にしていた物だ。それくらいの想いがないと持ち出せないって事だ。
それが分かったからか、身体から力が一気に抜け、頭をベッドに預けた。
「どうしたの京ちゃん? 今お水持ってくるね!」
無駄だよ由美。そんな事をしても俺は助からない。最後の希望だった骨髄でさえ、いわゆる時空の狭間というやつに飲み込まれて消滅した。今から取りに行ったとしても間に合わない事は俺が一番よく知っている。悪いな、あっちの世界の宏輝。あれだけしてもらったのに、俺はどうやら助からないみたいだ。
「あれ?」
もう首は動かせないが、由美の素っ頓狂な声が耳に入る。それを聞いて俺の横で腕を組んでいた宏輝が、由美の方へと駆け寄った。
「どうした?」
「あのね、今お水を取りに行ったら台の横にこれが」
「ん? なんだこれ?」
会話だけが聞こえる。看護師が何かを落としていったか?
「とりあえず京ちゃんに見せてみるね。誰かの忘れ物かもしれないし」
そう言うと、由美の足音が近づいてくる。そして、そのショートカットが目の前に現れたと思ったら、その落とし物とやらを眼前に突き出してきた。
「ねぇ京ちゃん。これおばさんとかの忘れ物かな?」
俺は心臓が止まるかのような感覚に襲われた。いや、本当にこのまま死んでしまうのではないかと思うくらい驚いた。
それは、俺がパラレルワールドから持ちだした紙袋にそっくりだったからだ。
「……な、中身は?」
ただ、まだ確定した訳じゃない。もしかしたら本当に誰かの忘れ物の可能性だってある。
「え? 見ていいの? 失礼じゃない?」
「……お……俺のかもしれないから……見てくれ」
いいから早くしろ!
「分かった。えっとね……」
まるで時が止まったかのように時間が遅く流れた。勿論それは気のせいなのだが、俺の感覚がそれほど緊張していたのだ。
「中身は、変な瓶と手紙かな」
ビンゴだった。それは俺が持ち帰ってきた物に間違いない!
「本当に京ちゃんの?」
その言葉を聞いた瞬間だった。突然目の前がぶれ、由美の顔が二つ映る。
嘘だろ? こんな時に!
「え? 京ちゃん?」
耳もあまり聞こえなくなってきた。意識が遠のいていくのが分かる。
「京介!」
宏輝が近寄ってきて、俺の肩を揺すった。傍から見たら、俺は目が閉じかけて眠そうな感じなのだろうな。
だが、まだ意識を失う訳にはいかない。この紙袋を、どうにか宏輝に!
「……こ」
くそっ! 声が思うように出ない。
「ん? なに京ちゃん?」
「なんだ京介」
これは命がけだった。比喩じゃない。これで本当に死んでしまうかもしれないからな。
「……宏輝」
「聞こえてるよ京介」
よかった。どうやら聞こえてはいるらしい。
「……この……紙袋……は……お前に……だ」
「え? 何だ? この紙袋をって京介?」
やべ、意識が……。
「京ちゃん?」
頼んだぜ、宏輝。
薄れゆく意識の中、最後になるかもしれない二人の顔を、俺はしっかりと目焼き付けた。




