エピローグ
俺はこの部屋が嫌いだ。
低い天井。ベッドやカーテンなどは全てが汚れない赤子の心のように純白だ。
もしかしたら、俺の病気が悪化したのはこの病室のせいだと前に思ったことがあった。
だから、俺はこの病室が本気で嫌いだ。
「京ちゃん、何やってるの? 早く行こう?」
でも、今日でこの部屋ともおさらばだ。
「ああ、今行く」
扉で待つ由美と宏輝の元へと俺は向かった。
三人で下まで降りると、大きな自動ドアの入り口の前で、両親や宏輝の親父さんを含めた病院関係者の人々が俺の事を待っていてくれた。
「お世話になりました」
俺は両親と共に頭を下げた。
「いやいや、でも本当によかった。京介くん。もう私が生きている間にここに戻ってくるんじゃないぞ?」
「はは。そのつもりですよ」
言われなくてもそのつもりだ。俺は退院を見送ってくれたみんなにゆっくりと頭を下げ、笹波病院を後にした。両親は車で家まで送ると言ってくれたが、久々の外の空気を俺は味わいたかった。だから、荷物だけは持ち帰ってもらい、俺は歩いて自宅へ向かうことにした。俺的には一人でもよかったのだが、由美と宏輝が家まで送ってくれると言って聞かなかっので、流石に俺も折れてそれを承諾した。
後ろを振り向くと、俺の嫌いな病院がそびえ立っている。でも、色々な経験をした思い出の場所でもある。だから俺は一度深く頭を下げた。
「うし! 行くか」
俺たちは、病院を後にし、懐かしく感じる緩やかな坂道を歩き出した。
「それにしても、本当に退院できたんだね」
「ああ。これも宏輝と笹波病院の人たちのおかげだ」
「僕は当たり前の事をやっただけだよ」
紙袋を持ち帰った日から、三ヶ月が経っていた。
俺はあの日、宏輝にちゃんと紙袋を渡す事ができなかった。しかし実は、それも俺の予想の範疇だった。戻ってもまともに喋れない可能性は大いにあったからな。だからその紙袋さえ持ってこれさえすればそれで何とかなるよう、俺はパラレルワールドの宏輝に手紙を書いてもらっていたのだ。
「でも、良く分かったな。あれだけで普通は納得できないだろう」
確かに、その手紙を呼んでも宏輝が得体の知れない瓶の中身を、俺の骨髄だとは思わない可能性はあった。
「それはそうだろ。あれはどう見たって僕の字だったし、そんな話を京介とした後だったしね」
しかし、宏輝は俺の思惑通りにその瓶の中の骨髄を俺に移植した。いや、正確にはまだ医者ではない宏輝が直接移植した訳ではないのだが、笹波病院の息子という地位を使って穏便かつ迅速に事が運ぶよう取り持ってくれたらしい。もちろん、骨髄は俺と完璧な一致を見せ、おかげさまで俺は白血病を克服した。
そこからは苦しいリハビリ生活が続いたが、元々病気になる前の俺は元気だけが取り柄だったからな。三ヶ月程度で退院の許可は下りた。
「え? 何の話?」
ちなみに由美は一連の事件を知らない。知っているのは俺と宏輝だけだ。あの瓶の事も宏輝が上手くごまかしてくれたおかげで、由美はたまたまドナーが見つかったとしか思っていない。だから、本当は由美の前でこの話をするのはご法度だ。
「なんでもないよ」
「そうそう。男同士の内緒話だ。それとも聞きたいのか? 由美は卒倒するかも知れねーぞ?」
「いいですよっだ」
少しいじけて由美は俺たちの前を歩いた。少し伸びてセミロングになった髪が太陽の光を浴びて輝きながら靡く。
「それにしても、あの手紙にはなんて書いてあったんだ?」
実は、俺は手紙の内容を知らなかった。あの時、あっちの宏輝に俺は……。
『あ、悪いんだけど、もう一つ頼まれてくれるか?』
『なんだ?』
『一筆書いてほしい事があるんだ』
『いいけど、なんて書けばいい?』
『ああ、それはこの瓶に入っているのが俺の骨髄だということ。それとこの手紙を書いているのが宏輝だと分かるようなメッセージを織り込んでくれれば内容は何でもいい』
『……分かったよ』
あの時の宏輝の呆れた顔は今でも鮮明に覚えていた。その後はダブル宏輝を信じていたし、内容は見ていない。だが退院した今、少し気になっているというのが正直な気持ちだ。
「なんだ。京介は内容を知らないのか?」
「まぁな。あっちの宏輝にお任せだったからな」
「いい加減だな。もしこれで僕が気付かなかったらどうするつもりだったんだ?」
「ん? そんな心配してなかったしな。今俺の前にいる宏輝も。あちらの世界の宏輝も。俺は信用してっからな」
「……まったく。ほら」
宏輝は徐ろにポケットから一枚の手紙を取り出した。白い便箋には宛先も送り主の名前もない。それはあの時の手紙だ。
「お前、持ち歩いてるのか?」
「たまたまだよ。内容が気になるなら自分で見るんだな」
顔を逸らす宏輝の顔は、少し赤くなっていた。俺はそれを見てから手紙に視線を移し、中身を出してそれを広げた。
そこには、短く文字が並んでいた。
【この手紙と同封されている瓶は、正真正銘『谷川京介』本人の骨髄である。それをどう思うのかは、これを受けとった人に託すが、一つだけ。
京介に振り回されるのは大変だけど、どうか僕の親友に手を貸してやってください。
笹波宏輝】
内容は至ってシンプルだった。だが宏輝が赤くなるのも無理はない。こんな内容、できれば他の人には見られたくないだろうからな。かくゆう俺も照れくさくなって、手紙をすぐにしまって宏輝に渡した。
「パラレルワールドの僕も、京介とは仲良くしてるようで安心したよ」
「それは俺のセリフだよ」
改まるような間柄じゃない。ただ、言わずにはいられなかった。
「なんだその……これからもよろしくな」
俺は赤くなっているであろう顔を隠すことなく、宏輝の前に拳をつきだした。
「こちらこそね」
宏輝の拳がぶつかり、俺達は高らかに笑った。
「あーまた二人で楽しそうにしてる!」
少し前を歩いてた由美がこちらに寄ってくる。
「ほら、今日は記念日だよ? 知ってる?」
「俺が退院した記念日」
「それもそうだけど、他にあるのも知ってる?」
知らない……といいたいところだが、カレンダーを見た今朝からそれには気づいていた。というか、忘れそうにない。
「僕は分からないな」
「京ちゃんは?」
俺は胸を張った。
「俺達三人が出会った記念日。だろ?」
「え? 覚えてたの?」
「凄いな京介。死にかけて記憶力がよくなったのか?」
「余計なお世話だ」
俺はパラレルワールドでそれを体験してるからな。その日付はもう忘れない。この世界では初めてだが、今日がその記念すべき第一回になるのだろう。
「宏ちゃんもちゃんと覚えてね?」
「分かったよ」
俺はあの日以来、パラレルワールドに迷い込む事はなくなった。でも、あちらで体験したことや、出会った人たちの事は忘れない。そう心に決めていた。
「京ちゃんは病み上がりだけど、二人とも何かリクエストは?」
笑顔の由美が、あちらの由美と重なった。その横には花音と風音もいるような気がして、俺は思わず微笑んだ。
「俺ははあれかな」
「うん。僕もあれ」
「分かった。あれね」
長かった。あっちでは食い損ねたが、ようやくって感じだ。俺たちの未来があの世界のようになるかは分からない。ただ――。
「じゃあ二人とも、買い物は手伝ってね」
『おう』
由美特製カレーは、いつまでも俺たちの大好物であるだろうな。
最後までご愛読ありがとうございました。皆様が心の片隅に何か暖かいものを感じていただければ幸いです。これからも私と作品共々よろしくお願いいたします。




