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泡沫の彼方  作者: 春山
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第二章

 また白い天井。

 俺はこの天井が嫌いだ。今まで入院もしたことがないが、前に入院したことのある親戚の話では、病室の天井を見ているだけで病んでくると言っていた。まったくその通りだ。

 カレンダーを見て日付を確認する。一週間と死の宣告をされてから三日が経っていた。自分が一番よく分かるが、病状は悪くなっているようだ。

「どうだい調子は?」

 今日由美はまだ来ていない。日も沈みかけているというのに、ドアがノックされるたびに入ってくるのはナースか医者くらいだった。だが、今入ってきたのはどうやら俺の客のようだ。

「珍しいな。ここ最近来てなかったのに」

 ベッドの横に立つ制服姿の宏輝を見る。声もまだ発せれる。医者には悪いがまだまだ俺の身体はもちそうだ。

「そろそろヤバイかなと思ってね」

「そう思うんなら、この病気を治してくれ」

 俺が入院しているのは、宏輝の家系が代々院長を務める笹波病院だ。この辺りだと一番大きな病院だし、大学病院並の設備が揃っているともっぱらの噂だ。だが、それだけの設備と腕を持つ医者が集まっていても、俺の病気は治らない。夢の世界で宏輝はすでに敏腕医師として名を馳せている訳だが、今は一介の高校生であり、夢の宏輝ですら病気は治せない。

「悪い。今のままじゃ、京介の白血病を治すことはできない」

 はっきり物事を言うのが、昔からの宏輝の悪い癖だ。時には言葉を選ばなけりゃ相手が傷つくってのをこいつは知らない。

「いいんだ。お前が大人になっても治せるか分からない病気だ」

 あくまで夢の話。この先未来がどうなるかは分からないとしても、その数年を待っている時間すら俺にはない。

「ドナーさえ見つかれば……」

「そう簡単に見つかるもんじゃないんだろ? 家族でさえ一致しなかったもんを、この億を超える人間から見つけるのは簡単じゃない事くらい俺にだって分かるさ」

「だとしても!」

 珍しく宏輝は苦虫を噛むような顔をして、両拳を握りしめていた。

「ありがとな。そこまで考えてくれてるなんてよ」

「すまない。僕にもっと力と腕があれば……」

「いいんだ。お前のせいじゃない」

 備え付けの椅子にうなだれるように座り込む宏輝に手を伸ばそうとした時だった。

「え?」

 俺の手から、何かが落ちた。それは床に落下し、小さな金属音を奏でた。

「ん? なんだこれ?」

 宏輝がそれを広い上げると、観察するようにそれを眺めた。

「ちょっと見せろ!」

 俺はあまり自由の効かない腕を宏輝に差し出し、それを受けとった。

「嘘……だろ」

 それは小さな髪飾りだった。淡い紫色の紫陽花をモチーフした安物の髪飾り。俺はその髪飾りが何なのかをすぐに理解できなかった。何故その髪飾りに見覚えがあり、何故それが安物だと分かったのか。その答えは夢にあった。

「これは、俺が由美に……」

 そう。これは夢の世界で俺が由美にプレゼントした物だ。まだ付き合って一年くらいの頃。金もなかった俺はプレゼントとしてこの髪飾りを由美にあげた。それを大層気に入っていて、十年近く経ったにも関わらず愛用していたのは、その髪飾りの傷などを見れば容易に想像がつく。

「そうか。これは由美の忘れ物か。なら、僕が届けておこうか?」

「いや、ちょっと待ってくれ」

 何度見ても、その髪飾りはさっきの夢まで由美がつけていた物だった。確か宏輝と三人で飲んでいて酔いつぶれた由美を俺が寝室に運んだ。それからリビングに戻るとこの髪飾りがテーブルの上に置いてあったんだ。俺はそれをポケットに……。

「何で?」

「え?」

「何でこれが、ここにあるんだ?」

 思考が追いつかない。夢の産物が何故ここに? しかも俺の手の中にあった?

「これがここにあっちゃいけないのか?」

 宏輝が怪訝そうな顔で覗きこんでくる。悪いが今は反応できない。何が何だか分からないからな。

 一度整理しよう。俺はこの髪飾りを夢でプレゼントした。勿論この髪飾り自体、この現実世界に存在しているかも疑問である。そして、夢の俺はそれをポケットにしまい、眠りについた。そして今、この現実世界にそれが存在している。

「……どうなってるんだ?」

「ちょっと待て。僕は話がまったく……」

 俺は困惑の色を隠せてはいないだろう。どうする。俺一人じゃ解決できそうにないし、宏輝に相談するか? 

 いや待て。

 こんな突拍子もない話を信じてくれるのか甚だ疑問だ。それより病気のせいで頭がおかしくなったと捉えられても仕方がない状況に俺はあるのだ。

「良かったら、話してくれないか?」

 宏輝がそう言い出すのは必然だ。俺は戸惑った。まだ自分の中での整理もできていないのだから。

「……頭がおかしいと思うかもしれない」

「ああ」

「……ありえない話なんだ」

「それでもいい。僕は京介と何年一緒にいると思ってるんだ?」

 自然と口元が緩んだ。俺の疑念は焦燥だったことを痛感する。何をビビってんだ。今更そんな事をこいつが思うわけないだろ。

 それから十分くらいだろうか。俺は一部始終を話した。前にも話した事はあったが、現実味のある夢の話。そこで俺が体験してきた数々の事。俺と由美が結婚してることなど全てを。その間、宏輝は口を挟む事なく聞いていてくれた。一通り話し終えると、俺の中でも一つ枷が取れたような気分になる。

「それは、夢じゃないのかも知れない」

 宏輝の答えは、俺の話に負けず劣らず突拍子もないものだった。

「夢じゃない? じゃぁ一体……」

「これから僕もありえない事を話す。今更軽蔑したりはしないだろうが、真面目に聞いてくれ」

 分かってるよ。その意を込めて強く頷いた。

「うん。そしたら、僕の仮説では考えられるのは三通りの解釈」

 宏輝は三本指を立て、俺の前につき出した。

「まず一つ目は、やはり夢だという可能性。それが一番現実的な話で、問題の髪飾りもこの世界ではこのようにして手に入る物だと無理やり認識すれば、やや強引ではあるが納得できる」

 俺は小さく頷く。

 そう。この世界でのこの髪飾りは誰かの落し物なのかもしれない。それを俺は寝ている間に無意識で手に取っていた――と、強引ではあるが納得すれば万事解決だ。だが、そうじゃないような気がしたからこそ、俺は悩んでいる。

「二つ目は、未来に意識が跳躍、またはトレースしている可能性」

 随分SFチックな話になってきたな。

「この可能性は、京介自身の意識が何かが原因で未来の京介の元まで飛んで同期している。または何者かの意図によってそのようにさせられている場合だ。この場合、やはり問題なのはその髪飾り。タイムトラベルの概念は多様にあるが、今回の場合京介の身体はこの時間軸のこの病室に残されている訳で、意識だけのトラベルとなるが――」

「ちょ、ちょっと待て! 話が難しすぎてついていけない。それに、お前のその知識はどこから仕入れてるんだ」

「ん? あぁ、これは小説とか論文とかからかな。この手の話は結構好きだからね」

 こんな趣味が宏輝にあった事に多少の動揺を見せたものの、少し話を分かりやすく話してもらうよう言って、次の宏輝の言葉を待った。

「えっと、そう二つ目の話ね。つまりだ。意識と共に、未来から髪飾りを無意識に持ってきた可能性があるって話だ。まぁでも、これも結構無理やりだね。この仮説だと大きな壁がある」

「壁?」

「うん。その未来では京介は病気になっていないって事だ」

 そうだった。俺はあの世界では入院すらしたことがない。それよか毎年の健康診断でも特に異常はない健康体だ。

「京介の夢の記憶で、この病気を完治した事は?」

「ない。夢の俺は風邪さえあまりひかない健康男だ」

「うん。病気完治説もこれでなくなったね。となると」

 宏輝は三本立てていた指を二つ折った。

「やっぱりこの三つ目が一番妥当だ。僕もこれが一番しっくりくるんだ」

「き、聞かせてくれ」

「うん。三つ目は、パラレルワールド説」

「パラレルワールド?」

 俺は本をあまり読まない。だから、あまり知識があるわけではないが、その名前は聞いたことがあった。

「そう。パラレルワールドは、今いるこの世界と平行してあるもう一つの世界。似てるけど、少しずつ異なる内容で世界が動いていて、それらが交わる事はまずないとされてる」

 ここまでくると、SF小説のようだが、今は少しでも可能性があるなら聞く価値がある。なにせ、目の前でありえない事が起こっているんだからな。

「よく小説にはある話だけど、パラレルワールドに迷い込む人ってのがいるらしいんだ。ただし、この世界と同様パラレルワールドにも自分と同じ人間は存在している。京介の言っていた由美や僕のようにね。でも、話を聞く限り、やっぱりこの世界とは少し違うんだろ?」

「ああ。ほとんど一緒だが、近所の風景や、俺達がやってきた事は少しずつ違ってる」

「ならこのパラレルワールド説はもしかしたら正解かもしれない」

 ただ、だとしたら俺は一体何者だ? あの世界が仮にパラレルワールドだとして、あちらの俺はどこへ行った?

「ここからは僕の仮説だよ?」

 俺の疑念を打ち払うように、宏輝が言葉を並べた。

「もしこのパラレルワールド説が正しいのなら、京介は稀に見る同一者というものかもしれない」

「同一者?」

「うん。物語の世界ではよくある話さ。万を超えるパラレルワールドに、意識を共有できる人間の事を指す言葉だよ。そしたら、パラレルワールドに行ったこの世界の京介の意識があちらの京介の中にあるのも納得がいく」

 そういったご都合主義の話があるのだろうか。俺がその同一者な場合だと、俺が一人しかいないのは頷けるが。

「それに髪飾りの件も理由がつけれる。これも物語ではよくある話さ。その髪飾りは京介が由美にプレゼントした物なのだろう? 強い想いの篭った物は、その世界から持ち出す事ができるって話があるんだ」

「そんなこと、本当にあり得るのか?」

「普通ならありえないね。科学では証明できないし、理論でも説明ができない領域の話だと思う。ただ、京介の話が本当なら、その可能性が一番高いんじゃないかな」

 一通り話し終えて、宏輝は自分の鞄の中からペットボトルのお茶を取り、それを飲んだ。

 今の話の中で、俺の中でも一番しっくりきたのはパラレルワールド説だ。この髪飾りもそうだが、俺が今までこの夢だけは忘れる事がなかったのは、それが夢ではなく現実に起こった事だったからだろう。そうすれば、あの現実味のある肌触りも説明がつく。

 だとしてもだ。そんな突拍子のない話を今した所で、俺の命は医者に宣告された通りならあと四日ほどだ。今更感は拭えない。

「サンキューな宏輝。少し気持ちが晴れたよ」

「そっか。悪いね、続けざまに色々話しちゃって」

「いいんだ。おかげで妙だった事も理解できたしな」

 この髪飾りも、次あちらに行った時に由美に渡さなきゃな。

「そういえば、由美を見なかったか? まだ来てないんだが」

「ん? 由美なら、まだ学校にいるんじゃないか?」

「は? こんな時間まで?」

 病室に備えつけてある時計は午後五時を指していた。夕日もそろそろ顔を隠す頃だろう。一体何をしてるんだ?

「由美には口止めされてるんだけどね、由美はいつも放課後にドナー集めをしてるんだ」

「え?」

「校内の生徒に呼びかけてるんだよ。京介のドナーを探すために」

 嘘だろ? あいつ、そんな事一言も……。

「京介には知られたくなかったんだよ。だって余計な事するなって京介怒るでしょ? だから内緒で活動してるんだよ。京介を助けるために」

「で、でも……俺はあと四日くらいで」

「それでも、由美は諦めたくないんだよ。その日が来るまでは。勿論、僕も病院内の患者さんにはなるべく働きかけてるけど、現状は僕も由美も厳しいんだ」

 怒りがこみ上げていた。それは由美にも宏輝にでもない。己自身に向けてのものだった。由美や宏輝は、まだ諦めてはいない。なのに、俺は見切りをつけて、長生きするという意識さえ失いかけていた。

「……悪い宏輝。今日のところは帰ってくれないか?」

 俺は俯いたままそう告げた。

「え?」

「あんま体調が優れないんだ。話はありがとな。この髪飾りもあっちの由美に返してみるよ」

「……分かった。また来るよ」

 宏輝はそう言って、静かに病室を後にした。それを確認し、俺は髪飾りをその手の中に収めたまま強く握り締めた。自ずと涙が溢れる。俺はなんて情けないんだ。親友が俺のために頑張ってくれてるのに、俺は……俺は……。

「くそぉ!」

 俺は涙を拭くことなく、枕に顔を埋めた。




 ぼーっとしていたのか、俺は手に持っていたコーヒーを零していた。

「何やってんのパパ!」

「え?」

 横を見ると、呆れ顔の花音の姿がある。

「パパも風音と同じー」

「もう! 何やってるの、あなた」

 目の前には、風音と由美の姿が。

 そうか。また俺はこの世界に戻ってきたのか。ということは、あのまま病室で寝てしまったのか。

「ほら、これで拭いて」

 由美の差し出すタオルを受け取り、テーブルの上を拭いた。幸い服には溢れていない。今日は休みなのかと思った瞬間、徐々にこの世界の俺の記憶がリンクする。やはり、ここは夢じゃない。そう確信した理由はもう一つあった。

「由美。これ」

 そう。あの髪飾りが俺の手に握られてたからだ。

「あら、この前無くしたと思ってたのに。どこにあったの?」

「ん? 普通に落ちてたぞ?」

「あらそう。でもよかった。これ大切にしてるから」

 パラレルワールド。そう考えるのが妥当か。だから何だという話なのだがな。

「それ、ママが大切にしてる髪飾りでしょ? パパからのプレゼント?」

「そうよ。まだパパと結婚する前にもらったの」

「ふーん。確かに可愛いけど、何だか安そう」

 いつの間に娘はこんなにマセたのか。ん? 語弊があるか。俺の娘であって俺の娘じゃない。ああもう! ややこしい! ここが夢じゃないと思った瞬間から、どこか歯がゆい気持ちでいっぱいだ。

「こら花音。プレゼントってのはお金の問題じゃなんだぞ? いかに気持ちがこもってるかだ」

「花音だったらもっと高い物がいい! だから、次の誕生日にはゲーム買ってね」

 そういう事か。そのための布石だったという訳だな。我が娘ながら策士じゃないか。

「あなた、一本取られたわね」

「まったくだ」

 幸せな朝。

 俺の大好きな光景。

 ずっとここにいたいとさえ思う。

 でも、ここは俺の元いた世界じゃない。それに、幸せな『夢』でもない。見方によってはこれも夢みたいなものだが。

「あなた、今日は健康診断だからゆっくりなのよね?」

 さっきリンクして気づいたのだが、今日は会社が休みで、俺は病院に健康診断をしに行く予定らしい。だから、いつもは家を出ていなくてはならない時間に私服を着て椅子に座っていた。

「でも予約は九時からしてあるから、花音たちと一緒に出ようと思う」

「そう。なら帰ってくるのも早い?」

「んーそうだな。終わったら帰ってくるよ」

「そう。なら夕飯の買い物手伝ってくれる? 今日はカレーよ」

 この世界でも現実世界でも、由美のカレーは絶品だ。もし元の世界に戻るとしても、これだけは食べてから帰りたい。たとえすぐに死んでしまうとしてもだ。

「パパ。そろそろ行くよ?」

 花音は誰に似たのかせっかちな性格だ。だから、俺も風音も朝食を食べ終えていないにも関わらず、一人でランドセルを背負って準備してしまっていた。

「待て待て。風音がまだ」

「もう。風音! 早くして」

「お、お姉ちゃん。待って!」

 由美は準備が良かった。風音にはもう幼稚園の服を着せているし、いつでも出発できる状況を用意している。俺が遅かったのもあり、俺の荷物に今日ゴミ袋はない。朝の内に由美が出したのだ。だから、俺は鞄だけを持って靴を履いた。先に靴を履いていた花音と風音が扉の外へと飛び出していく。

「まったくあいつらは」

「ねぇ京ちゃん」

「ん?」

 京ちゃんと呼ばれて反応すると、少し顔を赤らめた由美がそこにいた。

「久しぶりに、ね?」

 つまり、いってらっしゃいのキスの事だろう。最近は随分ご無沙汰だが、今までの俺は夢だと思っていた為になんとも思わず――ってのは少し違うが、キスをできていた。だが、今はこの世界も夢ではない事が分かってしまった。そうなると、やけに恥ずかしい。

「え、ああ」

 俺は現実世界の由美と、キスどころかカップルとして手も繋いだ事はない。なのにこんな……。

 俺たちは唇を重ねた。妙に柔らかい感触。それにどことなく甘い香り。これが由美の唇だ。途端に顔が赤くなるのを感じ、唇を離す。由美を見ると、どうやら俺と同じように顔が赤かった。

「じゃ、じゃあ、いってくるな」

「うん。いってらっしゃい」




「どうしたのパパ? 顔赤いよ?」

 俺の横を歩く花音が異変に気づいたのか、顔を覗きこんでくる。

「ん? そうか?」

 顔をそらすと、今度は反対で手を繋いで歩く風音が、不思議そうに俺の顔を見ていた。

「な、なんだよ二人とも……」

「パパ、りんごさんみたい!」

「そうだね。そのくらい赤いよ?」

 おそらく日焼けでも熱でもない。ただ、さっきの由美とのやりとりを思い出して赤くなっているだけだ。娘たちにそれを悟られないよう平然を保ってはいるものの、どうやら隠しきれてないらしい。

「まぁ、気のせいだろ? ほら、風音。先生が待ってるぞ?」

 家から風音の幼稚園までは、そんなに距離はない。五分くらい歩くと、門の前で子ども達を待つ先生の姿が見えた。

「あ、先生!」

「こら風音。走ったら転ぶぞ?」

 その忠告は無視され、風音は先生に向かって走っていった。手を振りながら転びもせずに一直線に走るその背中を追いかけるように、俺と花音は続いた。

「おはよ風音ちゃん。今日はお父さんとお姉ちゃんと一緒なの?」

「うん! パパは今日けんこーしんだんでお休みなの!」

「そう。それは良かったわね」

「うん!」

 俺よりも年上であろう先生は、笑顔を絶やさず風音と会話した後、俺の方を向いてお辞儀をした。つられて俺も頭を下げた。

「おはようございます」

「あ、おはようございます。娘はその――どうですか?」

 我ながら親バカだと思う。風音に限って心配はないだろうが、周りと上手くやっているのかなど気がかりで仕方がない。

「ええ。風音ちゃんはクラスでも人気者で。可愛いから男の子たちもよく風音ちゃんを取り合って喧嘩するくらいで」

「そうですか。それはその、迷惑かけてすみません」

「いえいえ。みんなの元気の源ですから」

「そう言っていただけると助かります」

 よかった。風音はちゃんとやれているようだ。まぁどの男が群がろうと、娘はやらんがな。なんて思うのも親バカの証拠か。

「パパ。そろそろ行かないと」

「おっと、そうだな。それじゃ、娘をよろしくお願いします」

「はい。風音ちゃん。パパとお姉ちゃんが行っちゃうって」

 先に園内に入っていた風音が、こちらに手を振った。

「いってらっしゃーい!」

「おう。行ってくる!」

「いってきます」

 一度先生に頭を下げた後、俺たちは歩き出した。

 今日の健康診断は、笹波病院で予約をとっている。途中に花音の小学校もあるので、遠回りという事はなかった。学校に近づくにつれ、生徒の数が増えていき、俺と花音の距離も離れていった。

「おい、そんなに離れなくてもいいだろ?」

「ふん! パパと登校なんて恥ずかしいじゃない」

 小一にしてそんな事を言い出されると将来が不安だ。この世界での経験上、花音はついこの間までは風音のように俺の横をついてくるだけの可愛い娘だったのに。女の子は成長が早いってのは本当なんだな。

 ほとんど会話をする事なく学校の校門までたどり着いた。花音は途中友達に会って、その子たちと楽しそうに会話をしながら歩いていた。俺はその後ろを複雑な気分で歩いていたのだが、校門についた頃、花音が踵を返して俺の元にきた。

「お、送ってくれてありがとパパ。健康診断、なんともないといいね」

 そうとだけ言って、また友達の元へと戻っていく。友達もいい子のようで、俺に一度頭を下げてきて、俺もそれに反応するように手をあげた。とろけるような笑顔を治すことなく。

 学校を後にすると、病院までは緩やかな坂道が続く。俺はその坂道をゆっくりと歩き、車道は病院目当てであろう車が行き来していた。俺はゆっくりと歩道を歩きながら一連の事を思い出していた。

 現実世界での俺は、もうすぐ死ぬ。でもあちらの由美や宏輝は一生懸命俺を延命させるために行動してくれていた。だからそれに答えるために、俺も諦めない事を選択した。だから、今回この世界に来たのは逃げじゃない。たまたまだ。

 なのに、何で今日に限ってこんなに幸せな事が連続するのだろう。微笑ましい家族の団欒から始まり、嫁と子どもたちの笑顔に囲まれ、文字通りこのまま死んでもいいと思えるような事ばかりだ。おそらく健康診断の結果も悪いところなど一つもないだろう。いっその事、この世界で一生暮らしてもいいのではないだろうか。いつもは俺の意識が混濁していたせいで、現実とこのパラレルワールドを行き来していたのだろうが、俺が意識的にこの世界に残ろうと思えばそれも可能なのではないだろうか?

「バカバカしい」

 事実は小説よりもベタだと誰かが言っていた。まったくその通りだ。この世界に残って幸せに暮らすのもあり。俺の現実に戻って覚悟を決めるのもあり。まったく、どっちを選択すれば正解なのか分からなくなってくる。

 もしかして、現実で俺が死んだら意識だけはこの世界に来るのではないだろうか?

 いや、そんなに世の中甘くはないか。

 どちらにせよ、現実での死は間逃れない。今日のいつに戻って、死期を迎えるかも分からないからな。覚悟だけは決めておかないと。まぁそれは、由美特製のカレーを食べてからでも遅くはないだろう。

 坂道を登りきり、現実世界と変わらない場所にそびえ立つ笹波病院の門をくぐる。中は平日だというのに人が多かった。様々な分野がある病院だ。当然だろう。

 俺は受付にいき手順を踏んだ。健康診断をするために、それ用の服に着替え待合室のようなホールで自分の名前が呼ばれるのを待った。その間は、備え付けのテレビを見たり雑誌を読んだりして過ごす。朝早いというのに予約は埋まっており、呼ばれるまでには時間がかかると受付のお姉さんは言っていたのでまだ時間はあるだろう。暇を持て余している間、ふと目に入ったのは、一枚のポスターだった。

「ドナー登録ね」

 それは白血病患者の唯一生き残る道である骨髄移植のドナーを募集するポスターだった。現実世界の俺も、上手くドナーが見つかれば延命できたかもしれない。分かってはいても、悔やまれる。

 その時だった。

 身体中に電流が流れるような、そんな感覚に襲われる。目を見開き、そのポスターから視線を外す事ができなくなる。俺は強く胸元を掴むが、早くなる鼓動を抑えきる事ができない。

 ありえない。

 最初はそう思った。

 だが、考えるよりも先に身体は動いた。

 だって、もうありえない渦の中に身をおいているのだから!

 俺は受付に走った。病院内は走らないでくださいという常識すらまともに守れないほど、俺は冷静さを失い、そして高揚していた。

「ご、御用はなんでしょう?」

 少し戸惑い気味の受付嬢が、予定調和なセリフを吐く。俺は少し息を整えた。

「外科の笹波宏輝先生を呼んでもらってもいいですか?」

 一筋の希望が見えた瞬間だった。




「どうしたんだ。こんなところに呼び出して」

 こっちの時間で、俺達が飲み明かしたあの夜から一週間ほどの日にちが経っていた。その間、俺は現実世界で高校生の宏輝に会っているのだが、目の前にいる大人版宏輝が妙に懐かしく感じた。

「悪い。忙しかったか?」

「いや、まぁボチボチかな」

「そうか。ちょっと急ぎで頼みがあるんだ」

「なに?」

 一息置く。そして拳を握った。


「俺の、骨髄をとってくれないか」


 俺の立てた仮説はこうだった。現実世界での俺は、ドナーが見つからず今も死を待っている。だがどうだろう。パラレルワールドとはいえ、俺は俺だ。意識が俺だとしても、身体は現実の俺とは異なる物なはず。ならば、この俺の骨髄で白血病を治せるのではないだろうか。

 そう。もっと早く気づいてもよかった。

 この世界から、あの髪飾りを持って帰った時、それは俺の生き残るための鍵となっていたんだ。

「どうしたんだ、急に」

「全部を全部話してる時間はないんだ。できるだけ早く、俺の骨髄を取ってそれを運べるようにしてくれ」

 俺には時間がなかった。前回パラレルワールドから目覚めた時、現実世界では三日も時間が経っていた。今回だって、戻った時に一体どのくらいの日にちが経っているかなんて想像が出来ない。ならば、俺が死ぬ前にどうにか骨髄を持って帰らなきゃならない。

「そんなに急ぎなのか?」

「ああ」

 少し困惑気味の宏輝が、口元を崩して頭をかいた。

「まったく。京介の言い出す事はいつも理解しがたい事ばっかだよ」

「わ、悪い」

「いいよ。少し時間はもらうけど、それでもすぐに用意しよう。今度でいいから理由はちゃんと聞かせてくれるんだろうね?」

 俺は強く頷き、宏輝の差し出した拳に自分の拳をぶつけた。

 宏輝に言われるがまま手順を踏んでいく。骨髄を採るってのは一体どんな手術をするのかと思っていたのだが、それは注射によってすぐに済んだ。本当ならこれを行うまでにあらゆる手順をもっと踏まなくてはならないのだろうが、宏輝が医者で良かったと本気で思った。

「少し待っていてくれ。持ち運びのできるように加工してくる」

 現実よりもどれだけ医術と技術が進歩したのかを俺は詳しく知らない。それでも、俺の骨髄を現実世界に持って帰る事ができればそれでいい。

 ただ、問題はあった。あの髪飾りのようにしっかりと骨髄を持ち帰る事ができるのかという事。そして現実の俺がまだ死んでいない事だ。その二つが大前提の話であり、もし片方でも欠けたならば、俺はこの世から消える。

「おまたせ」

 紙袋を持って診察室に宏輝が戻ってきたのは、出て行ってから十分後のことだった。

「悪いな」

「いいよ。この中に京介の骨髄が入った瓶がある。どういう意図に使うのかは分からないが、頼むから悪用だけはしないでくれ」

「バカ。そんな事するかよ」

「そうだね」

 宏輝から紙袋を受け取り、立ち上がる。

「あ、悪いんだけど、一つ頼まれてくれるか?」

「なに?」

「一筆書いてほしい事があるんだ」

「いいけど、なんて書けばいい?」

「ああ、それは……」

 それから数分してから宏輝の手紙を受け取り、俺はそれを紙袋の中にしまった。終始呆れた顔をした宏輝に対し、俺はなんの説明もしていない。ただ、その内容から何かを悟ったのか、一度ため息をついた。

「まったく。昔から京介は何かと事件を起こしてたよね」

「そんな事ないだろ」

「いや、そんな事あるよ。でも、それはいつも間違っていなかったと僕は思ってる。だから、これから京介が何をしようと僕は全力で応援するさ」

 俺は思わず微笑をこぼした。

「相変わらずだな宏輝。お前はどの世界にいても俺の知ってる笹波宏輝らしい」

「ん? 何の話だ?」

「いや、こっちの話だ。これ、ありがとな」

「うん。他に何か頼み事はないのか?」

「ああ大丈夫だ。それに、人気の笹波先生をいつまでも私的で占領しておく訳にもいかないからな」

「茶化すなよ」

 どの世界の笹波宏輝も、変わらず俺の親友だ。こんな貴重な体験をしなきゃこんな事思わなかっただろうが、俺はどの世界にいようとお前と友達になりたいよ。

「もう、行くか?」

「そうだな。あんま時間もないし――あ、やっぱもう一つ頼まれてくれるか?」

「なに?」

「俺の家族に、元気でやれと伝えてくれ」

「死ぬわけじゃなかろうに、そんな事伝える必要あるのか?」

「確かにな。でも頼むわ」

 遺言……と捉えられても仕方ない。おそらくこの扉を出たら、俺の意識は元の現実世界に戻る。いや、俺が強く願えばそうなる確信があった。だから、扉の外に出た俺と今の俺は違う。だから、この幸せな世界と家族に別れを告げたかったんだ。

「……まぁいいだろう。伝えておくよ」

 こんな事になるなら、今朝ちゃんと別れの挨拶を済ますべきだったな。由美のカレーも食べたかったし、風音を取り巻く男子も心配だ。それに、花音に健康だったと伝えてないしな。まぁそれは、この世界の俺に任せるさ。

 だから、俺は行かなきゃならない。カレーの味は変わらないだろうから、あっちで食べればいい。

「色々ありがとな。またな、宏輝」

「ああ、またな」

 俺はゆっくり扉を開け、そこから発せられる強い光に包まれた。

 戻るんだ。

 俺自身を救うために。



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