【S】 第三話
キーンの仲間だという少女と対面を果たしたあの日から数日、シェリウスの眉間に刻まれた皺は深くなる一方だった。とはいっても彼女が原因という事はなく、全ての事象を燻らせる火種となったのはそれ以前の、王弟との面会。部外者に口を出される事ではなかろうに、あの場で問われた言葉を考えれば考えるほど、糸はもつれて絡まっていく。
そんな調子だから無愛想には拍車がかかっていたし、ぎこちなさを隠せる程度に器用なら、そもそも此処まで悩まないだろう。こうなってしまえば主と共に居る時も、妙に敏い人だから見透かされていそうで、何より心配をかけてしまいそうで気が気でない。自分が見張りに立つ番であれば致し方無いが、キーンがエルンストと過ごす時の同じ空間には居られなかった。部下への指示があるとか外を見回るとか適当な理由をつけては、姿を消す有様。これでは、何かと別行動を取りたがるキーンの事は言えなくなってしまうのだが、彼のように情報をもたらすなどの有益な動きでない分だけ始末が悪い。解ってはいても、彼と共通の主を同時に視界に映すだけで、胸の内を不可解な感情が覆って余計に気分が落ちるのだから。
今日もキーンと入れ替わりに外へ、されども城下に出たところでシェリウスの目に映るのは、馴染みの薄い異国のような景色でしかなかった。
離宮に居た頃も、定期的に訪れていた事はある。地理を把握するために歩いた事もある。しかしこの街を現在のホームだと思う事が出来ないのは、何故なのか。
――ふと、考えたくもないのに浮かぶ、形ばかりの同僚の顔。
あいつの情報網は、どこまで及んでいるのだろう。どれ程の顔が利くのだろう。王子の側近ではなく、ただのキーンとして。
そして逆に考えて、己から王子の側近という肩書きを取り払った時、何が残るのか。
彼の方が重宝がられるというのは、つまりそういう観点からなのだろう。
城壁からそう遠くない場所で、苦々しく見上げた空は青くとも、薄い雲が太陽を覆って地上へ注ぐ日差しを弱めていた。眩しさに目を細める事もない、薄青の空。ただ穏やかなだけのそれが、今は不安を煽る。何もない空っぽの感覚が、晒されていく。
苦しかった。
ほんの僅かな揺れで、吐き出してしまいそうに。
だから人の気配が近付いていたなど気に留める余裕もなく、掛かる声があれば完全に不意打ち。それどころか、
「どうした、ひどい面構えだな。――まるで捨てられた飼い犬だ。」
囁き声のようであって腹の底へ響くような低音に、ハッとして顔を向けた。その声音は全く知らない人物のものではなく、かといって最近耳にした類でもない。
記憶を辿るなら、およそ10年弱になるか――そんな単位で、久しい音色。向こうも歳をとって若干の変化はあるものの、特徴的な出で立ちを見ればすぐに符合した。
鼠色のコート、口元まで覆う同色のマフラー。真白の髪に、瞳だけが血のようにあかい。
雪降り注ぐ、曇天のような男。
だけれど。その男は確かに其処に佇んでいるというのに、シェリウスには信じられなかった。
彼が、己の前に現れた事が。
疾うに縁は切れていた筈だ。それどころか、生きているとも思わなかった。なのに何故、今。この心を見透かしたように。
「ゼク、ス……お前が、何故、」
凍てつき、渇いて、張り付く。声を絞り出すには、そんな不快感や痛みがともなった。
空はいつから濁っていただろう。
彼はいつ、目の前に立ったのか。音も無く、あるいは腑抜けた己が呆けているうちに。刺すように赤い眼が、視界に割り込んでいた。
「“何故”? ――何を、疑問に思うことがある。どうやらお前は、思い違いをしているようだな。」
曇り空の男は、ほぼ無と言っていいほど表情を変えない。
体の芯がひどく寒かった。まるで雪のような髪のその男が冷気を発しているかのように。抑揚のないその声が、鼓膜をとおして体をむしばんでいくように。
これは、“恐怖”だ。久しく感じていなかった情緒のひとつ。
今すぐにでも、逃げ出してしまいたいのに足が動かない。背を向けた瞬間に尖った牙を剥くような、そんな相手であると認識しているから。
目に見えぬ炎のような反りの合わない同僚のことを、今は一時でも忘れていられたのは不幸中の幸いか、否――問題の上塗り。何も、ひとつも解決になんてなっていやしない。
「俺は、お前のことを見ていた。お前が、あの男の飼い犬に成り下がった後も――な。俺とお前の縁は、まだ切れてはいない。断ち切れるなどと、思わないことだ。」
男の指先が近づく。頬に触れる。ただそれだけの接触だった。
それだけを、動けずに甘受した。何をされるか分からないという危惧は確かに警鐘を鳴らしていたのに、竦む身が言う事をきかない。
これが。――この状況が、もしエルンストの見ている前で起きたとしたら如何だったろう。こんな腑抜けた姿を、主に晒したか?
考えるだけの木偶であった。何を思えど身動ぎ一つできない、何も起こせぬ木偶人形。
そんな無能を嘲るように、憐れむように、曇り色の男はわらって踵を返していった。
結局、何が目的だったのか――何故この場に居たのか。生きていたのか。何も得られぬまま、邂逅は一方的に幕を下ろす。
「…………っ、俺は、」
俺は何をやっているんだ――。ようやく絞り出した声が、風に消える。
招かれざる客は一度も振り返る事なく、どころか接触したことさえも幻であったかのように、素気無く遠ざかっていく。足音もさせずに。それと全くの別方向から、明らかに性質を異にした足音が鳴り響いていたのは、己だけの狭い世界に捕らわれていたシェリウスにとって、突然の現象となった。
平素ならば、確実に聞き分けられるような。そんな身近な足音の持ち主であるのに。この重く垂れ込めた胸中とは全く交わらない、明快な響き。
「シェリ様~! シェリ様、どうしたんっすかこんなところで?」
反応が一拍、遅れる。けれど、それでも良いと思える相手だった。彼であったことだけが、この場で唯一の幸いだ。
どこか真剣さの足りないような、締まりのない呼称で、そんな声で己を呼ぶのは一人しかいない。それが良い事か悪い事なのかは別として、張り詰めすぎていた糸が切れずに撓んだのは間違いなく、彼がもたらしたもので。
交代の時間には、まだ早い筈だ。何かあったのかと尋ねると、マリノは何でもないように首を横に振った。偶々シェリウスの姿を見かけたからという彼に、それだけで走って来る奴があるかと呆れた視線をやりながら、何となく足が城の方へと向いている。多分、彼が隣に居るからだろう。職場以外で肩を並べているのは、どことなく落ち着かない。
「……シェリ様、何か疲れた顔してます」
道中、マリノがぽつりと口にした。応じて向けた顔には、やはり呆れのような情が滲んだだろう。見透かされた事に動じた内心は、当然のように見えない場所に包んで。彼の言う“疲れた”がどの程度を指すのか、自分とは違いすぎる感性を測ることも出来ないが。シェリウスの、尊い人を守るべき役割としての回答は、ただひとつ決まりきっている。
「そんな顔をした覚えはない。それに楽な仕事でも、気を抜ける状況でもないだろう。特に今は、――この身に代えても、あの方をお守りしなければ。」
相手がどうあれ、この返事は変わらない。部下の顔も見ずに答えた。
そう言うと思ってました、なんてそんな顔をされている事さえ、頭の堅い男は見ようとしない。ただ、雲が流れる。流れても流れても、途切れることのない灰色の下、息をする。ひどく、息のし辛い世界だと思った。
「それでも、シェリ様が倒れたりでもしたら一大事っすよ! 今度、美味しいものでも食べに行きましょう。お店のリサーチは自分に任せてほしいっす!」
隣でそんな風に騒ぐ、遠慮というものを知らない賑やかしの声だけ、ここにはない太陽のように活気づいていた。
曇り空には似合わぬ男。だけれど、彼が居て良かった――かもしれない。光が無ければ、人は生きられないから。
そのうち、暇が出来たら、なんて完全には断らぬ返事をしながら、目先しか見えぬシェリウスにはそんな時が来るなど想像も出来なかったけれど。解決したものなど何もない、寧ろ不安要素が増えたばかりだ。それでも彼の存在が、かつての血の赤さを薄めてくれていた事だけは、救いと言って差支えないのだろうか。




