【K】 第九話
小さく舌打ちが響いた。侵入者の逃亡、通常であるなら警備の者がそれを阻むであろう動きの気配すらない。まんまと逃げられたという事実に心穏やかであれるはずもない。例え護るべき相手、エルンストが無事であったとしても。いっそ壁を蹴りつけたい気分で窓をとりあえず塞ごうと動こうとして、酷く苦い、罪悪感に似た色を浮べた相手に名を呼ばれた。続く言葉を遮るように謝罪の言葉を口にするキーン。
「キーン。」
「悪い、逃げられた。」
今更手で押さえたところで隠しようもない傷を視界から隠すように体の向きを替え、不機嫌な顔をさらに険しくした。主にそんな表情をしてほしくない。キーンがひた隠している事を思っての行動を責める気も起こるはずもないというのに。そんな現状を生んだ侵入者、強いてはその裏にある策略を改めて許すことはできないと反撃に意識を向けるのは当然といえば当然。
じろりと肩越しに同じく恐ろしく凶悪な顔をした相手に声をかけた。不承不承といった様子ではあったが、自分がこの場から離れるとなれば自ずと任せることになることも避けようがない事実だった。
「おい、お前、動けるんだろうな。」
「どういう意味だ。」
「そのままの意味だ。」
「貴様、この状況において王子から離れる気か。」
「……ちょっと気になることがあるんだよ。やられっぱなしでいられるか。」
気色ばむシェリウスに対する言葉に覇気が足りない。それはキーンの負った傷が軽くないものだということを示している。かといって互いに気遣うということはこの2人においてはしないわけで、睨み合ったまま事態は膠着するかに見えた。
「……まずは傷の手当てと、城内の状態回復ではないか?」
静かな声に自然と目がエルンストへ向かう。護り刀2人に向けられた翳りのある表情と裏腹の穏やかにすら思える声音に決まり悪げに互いに目を逸らした。唯一の共通点、主を思う心。手傷を負わされた事に対しその心を痛め、それでも平静とあろうとする主の言を無視することなどできようはずもない。結局のところ、キーンもエルンストには敵わないのだ。
と、此方に駆けてくる多数の足音がしてシェリウスが素早くエルンストを背に庇う。キーンもナイフを手にすぐに動けるように体勢を変えて待ち受ける。
「エルンスト様、ご無事ですか!?……!」
漸くといった風情ではあるが、現れた援軍は凄まじい目つきの従者に慄き、部屋の惨状に息を呑み部屋の入り口で立ち尽くした。その様子に眉間の皺を深め、それぞれに突っ込むタイミングだけはぴったりだった。
「遅ぇ!」
「状況を報告しろ。」
報告によれば城内の人間大半は当身で昏倒させられていたらしい。死傷者は常勤していた近衛兵4人。最小限の犠牲にとどめたのか、たんに警備突破が簡単だったと余裕を見せつけたのかいずれにしても侵入を許した時点でありえないわけで速やかに厳戒態勢が布かれた。最も夜明けが近く、シェリウスが負わせた傷の深さを思えば追撃が来る可能性は低いといえたが。
キーンは手当てを受け、エルンストの元に戻る前に人気のない廊下に踏み込み使われていない客間に身を滑り込ませた。周りを警戒しながら窓に近付き、もう一度周囲を窺うと静かに片手を窓の外へ出した。ボウッと音がして手の平の上に紅い炎が灯る。そう、これがキーンの秘密だった。生まれつき持っていた炎を扱う能力。色々な意味でリスクが大きいこの力をキーンは安易に使うことを避けている。
窓の下に小さな気配。それを確認して素早く炎を消すと折り畳んだ紙片を投げた。気配が遠ざかるのを見送り何事もなかったようにエルンストの元に戻った。相変わらず休憩地は窓の下の壁に凭れる形で床だ。キーンにしてみれば手当てを受けてきたこと、目の届く場所で休憩していることのアピールでもあるのだが、それが周囲に伝わっているかというと微妙だった。
数刻後、とりあえず手当てと休憩という主の命には従ったという大儀名分はできたと隙をつくようにキーンは外に抜け出したのだった。先の戦い、ツバキとのやり取りで件の襲撃の違和感に気付いたのだ。
上から見た時、襲撃者は迷うことなくベネディクト王子の馬車を襲っていた。2人の刺客も真っ直ぐにエルンスト王子の馬車を目指していたように思う。葬列の馬車の配置などレジスタンスだけで知ることは難し過ぎる内容だ。まして平民やちょっとした貴族風情では知る事のない事項といえる。ツバキは確かに反応した。あっちの暗殺にはレジスタンスを使ったんだ?という言葉に。
早く接触しなければならなかった。まだ処刑されていない逃亡中のレジスタンスに。あの鎌かけで此方が動きに気付いていると思われたとしたら相手が何をするかなんて明らかだ。
「キーン。」
「レイシア。……やられた、か?」
物陰からポツリとした呼び声。短めのピンク色の髪に水色と金色のオッドアイの少女が立っていた。表情は乏しく、けれど微かに憂いがみえた。彼女がさっきの伝令を受け取った主であり、キーンが信頼するスラムの仲間でもある。自分が休憩する間にレジスタンスの行方を追うように頼んだのだがどうやら遅かったようだ。案内された先、入り組んだ路地裏にザックリと斬り付けられ絶命した青年が居た。
「アジトから、彼だけが逃げ出した。けど、少し見失った隙に。」
「アジト内は?」
「全滅。」
「くそっ……?」
青年の手が硬く握り締められている。死してもなお強く握り締めている指を1本1本解くように開かせて、絶句した。それは紋章だった。身分を証明するもの。交差した剣の真ん中に薔薇、剣に絡んでいる薔薇の蔓。武力無き平和をと謳った祖が定めたルネファーラ王国の直属を示す紋章だった。




