【S】 第八話
誰かに、呼ばれたような気がした。
それが己の名ではなく、キーンを呼んだエルンストの声であった事は、それまで意識の飛んでいたシェリウスには知る術もなかったのだが。
ともかくその声と、一気に場を染めた血の匂いで、彼は眼を開けたのだった。
最初に、鮮烈に彩ったのは赤。
目に痛いほど紅い、侵入者ツバキの髪の色。
息つく暇も無い攻防を繰り返しているにも関わらず、額にかかったそれが肌に張り付いている事はなかった。汗一つ浮かばない、余裕の表情で追い詰める。
対するは、キーンの肌や衣服を染め上げた朱だった。
一目で――押されている、決して良くはない戦況である事が伝わる。
自分も一足先に不覚を取ってしまった手前、偉そうな事は言えないシェリウスではあったが、それでも復活させた気配を最小限に、息を呑むだけの動作で済ませたのは彼の咄嗟の判断にしては上出来な部類だ。
ツバキが、キーンを相手取るのに集中していて此方に背を向けていたのも幸運だっただろう。かの侵入者は未だ、片割れの意識が回復した事に気がついていない。
だとしたら――と、シェリウスが導き出した、これから自分の取るべき行動は一つ。
本来、死んだ振りだとか騙し討ち的な戦法は彼の得意とする処ではないのだが、シェリウスを一時的にと言えど一撃で沈め、キーンに深手を負わせるという所業をやってのけてもなお涼しい顔をしているツバキ――相当の手練だ。
それを前にして選り好みをしていられる場面ではないというのも、また認めたくない事実ではあったが。
ともかく、得手だの不得手だの言ってはいられない。
隣で息を殺して、戦況を見守っているエルンスト。その横顔は、今にでもキーンの助力となるべく飛び出したい気持ちを、それこそ心を殺さなければならないほどの思いで堪えているに違いない。
エルンストの立場では、自らの個人的な感情で態々危険に身を投じるなど、許されなかった。
彼を守るために、二人が此処に居るのだ。
それはシェリウスにとっての、唯一無二の存在意義。
「もう限界なんじゃない? 意外と頑張ったみたいだけどねぇ……そろそろ終わりにしようか!」
ツバキの声。どこまでいっても嬉々とした声が、三人の耳に漏れなく届いただろう。
対峙しているキーンは既に喋り返すのも億劫なのか、あるいは単にそれだけのエネルギーが残っていないという事か――は、と吐息で笑ってみせるだけ。
そして、シェリウスは、
「――往け」
短く、誰の耳にも届かぬように小さく、吐き捨てた。
彼の眼前には、宙に浮かせた手の先には氷の槍が出来上がっている。
鋭く尖らせた先端を、ツバキという刺客の背に向けて。
キーンだけを見ていたツバキが、最後のとどめを刺そうと残りの意識も全てそちらを向けた一瞬に――彼が驚きよりも僅かばかりの感嘆を含んだ顔で振り向いた時には、その胸を刺し貫いた槍は役目を終えて空気中へ消えた後だった。
だが、ツバキの浮かべる余裕は、この期に及んでも消えない。血の流れた口元からも、笑みが消える事がない。
「あ、はは……。これは……退き際……かな。」
左の胸を貫かれて大量の血を失い、自ら任務の続行不可を認めても。それでいて悔しさも焦りも苦痛も全く感じさせずに、そう言った次の瞬間。
彼は今度はキーンにもシェリウスにも背を見せないまま、背後にあった窓を破って下の庭園へと落ちて行く。
それは文字通りに、瞬く間の出来事。
「! あ、の野郎……!!」
割れた窓際へキーンが駆けつけた頃には、ツバキの姿はなくなっていた。
やや遅れてシェリウスが見下ろした景色も然り。どこへ行ったのか――逃走していく姿さえ、二人の眼下には無い。
ただ、遮るものがなくなって直に吹き込むようになった夜風が、雨も降っていないのにねっとりと肌に絡み付くようで――まるでこの夜の出来事が、何かよくないものを運んで来るとでも云うような。
二人の護り刀は言わずもがな、それだけで人を殺めてしまえそうな不機嫌さを各々に顔に刻んでいた。




