帰り道
恋心を自覚したところで、世界は何も変わらない。
日が昇り、1日が始まって、毎日の生活が進んでいく。
そんな中、ゴミ出しや洗濯物干しで遭遇した際の武田の笑顔や、彼から送られてくるちょっとしたメッセージは、今まで以上に一紗の中で明確な彩りとなった。
例のおすそわけから約2週間。
昼休みにスマホを確認すると、武田から『今週末、飯行きませんか』とメッセージが入っており、思わず笑みが零れる。
『ぜひ!』という絵文字を返して、一紗はうーんと伸びをした。
(武田さんとのご飯の前に、今日の会社の飲み会を頑張らないとなー…)
* * *
仕事関連の飲み会はあまり得意ではない。
ジョッキのオレンジジュースをちびちび飲みながら一紗はつくづくそう思った。
リモートが中心の職場なのでどうしても交流が減りがちということで、2か月に1度、出社日の業後に部署ごとの飲み会が開催される。
強制参加ではないものの、あまり欠席ばかりしているのもどうだろう…ということで、半年ぶりに参加しているのだが、どうにも手持無沙汰だ。
席は幹事の方で決めてしまうため、現在、一紗の周りには年齢が高めの男性社員ばかりだった。
例の1名を除き、特に変な人はおらず、業務上のやり取りをする分には何の問題もないのだが、飲み会という場での会話となるとそうもいかない。
仕事や会社関連の内容だと彼らとのスキルや経験値の差によりまだまだ一紗にはぴんとこない話が多いし、かといってプライベートに関してだと年が離れた男性との共通の話題なんて更にない。
「5年前のどこそこ社の案件の時は大変で~」とか「子どもが来年受験で~」と言われても一紗には分からないため、ひたすら聞き役に回るしかできないのだ。
(まあ、聞いてて面白いと思う話も全然あるから、全部が全部退屈なわけでもないんだけど)
それでも、話す量と聞く量がどちらかに偏り過ぎている状況というのは、どことなく居心地の悪さを感じてしまう。
だからこそ「嫌い」とまでは言い切れず「あまり得意ではない」のだ。
結果、食事に集中することになるのだが、自分より目上の人間ばかりが参加している飲みの場である。
「若手の自分が取り分けなくては」などなど、細かいことにまで気を回さなければいけないので、そこもあまり得意ではない理由の1つだった。
現在は宴会コースの料理もほぼ出きったため、ようやく少し気持ちが休まるようになったが、逆にやることが無い。
もう一口オレンジジュースに口をつけたその時だった。
「末藤ちゃん」
ジョッキを片手に、例の1名――浅野が現れた。
一紗は内心でため息をつく。
事前の出欠の情報では、浅野は今日は欠席だったはずなのだが、急遽出席すると言い出したらしい。
幸いなことに事前の席割では離れた席だったため、今日ここまであの距離感がおかしい絡まれ方は一切されていなかったのだが、飲み会も佳境に入り、無礼講という状況になってわざわざこちらに移動してきたようだ。
何やら得意げに「いかに自分が仕事が出来るか」「好みのタイプはどんな人か」などを延々と語っているが、全く興味がないため生返事を返す。
(…どこかのタイミングでトイレに行こう)
ウンザリしながらそんなことを考えていたのだが。
「ねえ末藤ちゃん聞いてるの?」
少し苛立ったような声音のそんな言葉と共に、肩に手を置かれた。
(っ! )
咄嗟に身を引いて肩に置かれた手を外す。
「すみません、トイレに行きます」
そう言って立ち上がり席を外そうとした一紗の手首を浅野が掴んで引き留めた。
「まあまあ。そう言わずにさ。もう少し俺の話に付き合ってよ。こないだのクッキーのお礼だと思ってさ」
(話に付き合った覚えも無いしクッキーは勝手に押し付けてきたんでしょ!?)
「ねえ、浅野君」
こちらの状況を知ってか知らずか、年配の男性社員が浅野に話を振ってきた。
「え…? なんですか?」
突然話を振られたことによる驚きなのか、はたまた後ろめたさからなのか、浅野が慌てて手を離した。
(助かった…!)
これ幸いと一紗はそそくさとトイレに向かった。
* * *
トイレの洗面所にて、一紗はじゃばじゃばと勢いよく手を洗っていた。
特に手首が念入りなのは、先ほど浅野に掴まれた感触がまだ残っていたためである。
「末藤さん」
一心不乱に手を洗っているところに背後から声をかけられ、一紗はビクッと肩を跳ねさせて正面の鏡に視線を移す。
鏡に映っていたのは、会社の先輩だった。
少しほっとして、蛇口を締めながら先輩を振り返る。
「トイレから戻ったら、私の席のそばにこない?」
「…え?」
「みんな席を自由に移動してるから、私の近くに年次が若めの人が集まってきてて、話もしやすいと思うし。それに…」
先輩はどこか言いにくそうに続けた。
「浅野さんに絡まれてるでしょ?」
一紗は目を見開いた。
そういえば目の前の先輩は、以前1度「浅野さんの距離感大丈夫…?」と言葉をかけてきてくれていた。
「…ありがとうございます。すごく助かります」
一紗の返事に、先輩はほっとしたように顔を緩めた。
「私もなんだよね」
「私も…?」
「そう。末藤さんが入社してくる前までは浅野さんにおかしな絡まれ方してて。だから末藤さんのこともずっと気になってたんだけど、これまで助けてあげられなくてごめんね」
「いいえ、そんな…」
申し訳なさそうな様子の彼女に返事をしながら、一紗は妙に納得していた。
浅野が一紗のことを「そういう対象」として距離を縮めようとしてきているのは流石に気が付いていた。
だが、一紗は彼とは業務上のやりとりしかしてきておらず、個人的な会話などろくにしていない。
にも拘わらず浅野が一紗を「そういう対象」として見てくる理由には薄々気が付いていたのだが、今の先輩の言葉でそれが確信に変わった。
(若い女なら誰でもいいんだ)
一紗の中身など何も見ていない。
その事実に、浅野への嫌悪感が一気に膨れ上がった。
先輩と共にトイレを後にし、飲み会の場へと戻る。
浅野はまだ一紗が座っていた席の隣に陣取っていたが、気にせずそのまま先輩に着いていき彼女の隣に座った。
先輩が言っていた通り、周りには若めの社員が多く集まってきており、居心地がいい。
ただ、浅野が遠くからこちらにじっと送ってきている視線が纏わりついて離れなかった。
* * *
一紗は帰りの電車に揺られていた。
あの後、飲み会が終わり解散となったところで、浅野がこちらに向かって来る気配があったため、幹事に二次会には参加しないことを伝えて急いで駅に向かった。
トイレにて助け船を出してくれた先輩も浅野の様子に気が付いており、たまたま方向が同じというで、駅まで一緒に向かってくれたため心強かった。
飲み会があった居酒屋の最寄り駅にて電車に乗り、途中の乗り換え駅にて先輩と別れた。
「何かあったら相談してね。社内の窓口に相談することも考えた方がいいと思う。その時は私も協力するから」
別れ際に心配そうにそう声をかけてくれた先輩の優しさに、少しだけ目が潤んでしまったのは自分の胸にだけ留めておく。
そして別路線に乗り換えて今に至るのである。
乗り換え駅から自宅マンションの最寄り駅へは20分弱だ。
既に乗り換えてから少し経っているので、あと10分ほどで到着だろう。
(疲れたな…)
疲れの原因の大部分を占めているのは浅野である。
2週間後にはまだ出勤があり、顔を合わせることになる。
今日は向こうが今までより1歩踏み込んできたのでこちらも露骨に避けたわけだが、そのやり取りを経た上で、次に会った時に浅野がどんな行動をしてくるか予想ができなかった。
内側にモヤモヤと溜まった不快感と憤りと不安とが絡み合った感情を少しでも吐き出したくて、小さくため息をついたその時だった。
カバンの中のスマホが振動する。
『お疲れ様です。仕事終わって電車なんですけど、京都旅行の広告の和食がすげー美味そうです』
武田からだった。
思わず顔が綻ぶ。
現金なもので、彼からのメッセージを目にしただけで、それまでのささくれ立っていた気持ちがどこかに行ってしまった。
『今日出社日だったんで私も今帰りの電車の中です。京都かー。今週末は和食にします?』
そう返信をし、スマホをカバンにしまう。
ちょうど降車駅に到着したため、ホームへと降り立った。
週末に待っている武田との時間に心を弾ませながら、改札に向かって一歩踏み出したその時だった。
突然、背後から肩を掴まれた。
「!?」
「…ふーん。ここが最寄り駅なんだ」




