いちばん近いひと
「浅野…さん…」
振り返り、自分の肩を掴んだ人物の顔を確認して、一紗は愕然とした。
何故浅野がここにいるのか。
(つけて…きてた…?)
その事実に思い至り、一紗の体の芯から震えが起こる。
「いやあ、さっきの飲みの場では話し足りなかったでしょ? これから2人きりで飲み直すのはどうかなって」
恐怖のせいだろうか。
1人で悦に入っている浅野の言葉がどこか遠くに聞こえる。
このまま振り切って家に向かうのはダメだ。
絶対にまたついてくる。
最寄り駅を知られたことでさえ不安なのに、家まで知られてしまえば一巻の終わりだ。
かといって浅野の気が済むように、2人きりでの飲み直しに付き合うなどもっての外である。
蒼白な顔で立ちすくんでいると、カバンの中のスマホが振動する。
「!」
なにやら一人で喋っている浅野を無視し、スマホを取り出す。
『じゃあ金曜は和食で。店探しときます。末藤さんも電車なんすね。こっちは今駅に着きました。日も短くなってるし帰り道は気をつけて』
武田も、今、この駅にいる。
自分の、身を、案じてくれている。
恐怖と混乱でぐちゃぐちゃになった頭がそれを認識した瞬間。
一紗の手は勝手に動いていた。
『私も今駅で降りたら会社の先輩がついてきてて家知られたくないから改札出れな』
「せっかく人が話してるのに、なにスマホいじってんの」
メッセージを入力している途中で、浅野が手首を掴んできた。
その弾みで、まだ入力途中だったメッセージを誤タップで送信してしまう。
浅野の目は笑っていなかった。
「とりあえずどっか店入ろうよ」
掴まれたままだった手首を強引に引っ張られ、どこかに連れていかれそうになった時、手の中のスマホがまた着信を告げた。
ディスプレイに武田の名前が見える。
振動は、メッセージを受信した際の短いものではなく、長く続いていた。
直接通話をしてきてくれているのだ。
「…これから人と約束してるんで、離してください」
ねっとりとした浅野の視線が、一紗の手の中のスマホに注がれる。
「本当に? 体よく逃げようとしてない?」
思い通りにことが進まないことに苛立ったのか、浅野が忌々し気に口元を歪める。
(なんなの、この人)
一紗は改めて戦慄した。
普通の人であれば相手から「約束がある」と断られたら、素直に引き下がるのではないだろうか。
しかし浅野は食い下がってきている。
約束が本当なら相手の都合を考えていないし、嘘なら嘘でそれほど自分とは一緒にいたくないと思われているということに思い至らないのだろうか。
どちらにせよ普通ではなかった。
同じ言語で会話をしているはずなのに、根本の部分でかみ合っていない気味の悪さに総毛だつ。
再び手を引かれそうになったため、一紗は半ば叫ぶように言った。
「離してください!」
「え? 何…?」
「喧嘩…?」
通行人がそんなことを言いながら、ちらちらとこちらに視線を向けつつ通り過ぎていく。
第三者の視線に怖気づいたのか、手首を掴んでいた浅野の力が弱まった。
それを見逃さず、手を振り払う。
力いっぱい振り払われた浅野は一瞬呆然とした後、暗い光を宿した瞳で一紗をじっと見据えてきた。
「…末藤ちゃんさぁ、先輩にそういう態度はよくないと思うよ」
通行人の目を気にしているのか、抑えた音量でありながら地を這うような低い声でそう言いい、じり…とこちらに近づいてくる。
手の中のスマホはまだ武田の着信を知らせて震え続けている。
急いでそれに出ようとしたところで、着信が切れた。
万事休すだ――。
そう思ったその時だった。
「…一紗!!!」
声がした方向を振り返ると、こちらに向かって走ってくる武田の姿が目に飛び込んできた。
(来て…くれた…)
『こっちは今駅に着きました』という武田のメッセージから、同じ電車かもしれないとは思っていたが、やはりそうだったようだ。
駆けつけた武田は、一紗と浅野の間に割って入り、こちらを庇うように1歩前に出る。
見目も体格もよい武田に勝ち目がないと思ったのだろうか、浅野の顔が分かりやすく固まった。
「…え? 何? 彼氏?」
引き攣りながらそう問うてくる浅野に一紗は一瞬迷ったが、この場を乗り切るためにあえてこう返した。
「「そうです!」」
力いっぱい返した返事は、武田と綺麗にハモった。
驚き武田を見上げると、彼もまた僅かに目を見開いてこちらを見下ろしていたが、すぐに表情を引き締め小さく頷いた。
とりあえずこの場では彼氏ということにして乗り切り、後で事情を説明しようと考え、咄嗟に口をついて出た嘘だったが、武田も完全に同じことを考えていたようだ。
「一紗の会社の人ですか? 彼女に用事があるなら俺も一緒に聞きますけど」
「あ…いや…」
武田の静かな圧力に気圧されたのか、先ほどの一紗への高圧的な態度が嘘のように浅野がしどろもどろになっている。
「用がないなら俺たちはこれで。――行こう」
そう言って武田は自然に一紗の手を取り、浅野に背を向けて歩き出した。
一紗が一度振り返った時に目に入った浅野の悔しそうな表情、興味本位でちらちらと見てくる通行人の視線。
それらが醸すいたたまれない空気の中で、自分の先に立ち手を引いてくれている武田の体温だけが、今は唯一の頼りだった。
* * *
手を繋いだままホームの階段を降り、改札を出る。
一紗たちが住むマンションの方へ向かって少し歩いたところで、武田が立ち止まって後ろを振り返った。
険しい顔で背後の様子を伺っている。
「…つけてきてはいないみたいっすね」
そういうと、スッと手を離した。
「すみません、咄嗟に呼び捨てにしたり手を握ったりして」
「…いえ。来てくれて本当に助かりました。なんてお礼を言ったらいいか」
「…大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを見つめる武田に、忘れていた恐怖が再び蘇ってくる。
震えを誤魔化すように一紗は手と手を握り合わせ、ぎこちない笑みを浮かべながら一気に捲し立てた。
「前から少し距離感がおかしい先輩で今まではなんとかのらりくらりかわしてたんですけど今日出社日で業後に飲み会があって」
「…末藤さん」
「飲みの場でもちょっとしつこいなあと思ったから露骨に避けちゃったんですけどそれで地雷踏んだのかもしれません。私がもっと上手いこと立ち回ればこんなことには…」
「末藤さん!」
武田の声で我に返った一紗は、自分の頬を熱い雫が濡らしていることに気が付いた。
何かを堪えるように切なげに表情を歪めた武田が、ハンカチを差し出してくる。
「大声出してすみません。見てられなくて…。末藤さんは何も悪くないのに」
あなたは何も悪くない。
その言葉に、ますます涙が溢れて止まらなかった。
「…今の末藤さんを一人にできません。少しどこか寄って行きましょう。俺でよければ話聞きます。言いたくないなら言わなくてもいいですし」
* * *
人目があるので、泣いている状態で飲食店に入るわけにはいかず、二人が腰を落ち着けたのはマンションからほど近い公園だった。
11月上旬の夜の公園は少し肌寒い。
小さく身震いした一紗に、武田は公園の入り口にある自販機で購入したホットのミルクティーを差し出した。
「…ありがとう、ございます」
小さなペットボトルから手のひらにじんわりと熱が伝わる。
一口飲むと、ほのかな甘みと温かさが冷えていた心と体を少しだけ慰めてくれた。
同じく公園の入り口の自販機で購入したカフェオレを飲んでいる武田は、「言いたくないなら言わなくてもいい」との言葉通り何も聞いてこない。
無理に聞き出そうとしないその姿勢がありがたかった。
「…さっきの人、会社の先輩で、浅野さんって言うんですけど」
そう切り出した一紗は、ぽつりぽつりとこれまでのことを話した。
初対面の言動、会社でちゃんづけで呼んできたり客先から貰ったお菓子を自分にだけ寄越してきたりボディタッチがあったり距離感がおかしかったこと、今日の飲み会でも一方的に接近してきたこと、自分が入社するまでは2つ上の先輩が同じ目に遭っていたらしいこと。
武田は相槌をうち、黙ってこちらの話に耳を傾けてくれた。
「…これで全部です。長々とすみません。武田さんに聞いてもらえて、少しスッキリしました」
「少しでも気持ちが軽くなったなら良かったです。それと――」
武田の表情に更に真剣みが増した。
「会社にコンプライアンス窓口みたいのはありますか? もし無いなら上司に直接相談すべきです。とにかく会社にも知ってもらった方がいい。」
「でも…」
「色々不安や面倒ごとも出てくるし、大ごとにしたくないのは分かります。でも、今日のことがあったから相手の行動がエスカレートする可能性がある。そうなったら末藤さんが危険だ」
カフェオレの缶を握りしめる武田の手に力がこもる。
「末藤さんは何も悪くない。どう考えてもおかしいのはその先輩です。もし証言とかが必要なら俺も協力しますから」
彼がこれほど強く自分の意見を通そうとするのはこれまで見たことが無かった。
つまり、それほど事態が切迫しているということである。
「…わかりました。コンプライアンスの窓口があるので、そこに相談します」
その言葉に、武田は心底ほっとしたような表情を見せた。
(本当に心配してくれてるんだな)
不測の事態が起こった時に味方になってくれる人がいるということが、これほど心強く安心できるとは。
緊張と不安で凝り固まっていた心が少しずつほぐれていく。
「今日はありがとうございました。武田さんが来てくれてた時、私、本当に安心したんです」
一紗が表情を緩める。
「話を聞いてもらった上で助言もしてもらって。本当に助かりました」
ようやく、自然に笑うことができた。
こちらを見つめている武田が、ハッとしたような表情を浮かべると、パッと視線を逸らした。
「あー…」と言いながらガシガシと頭を掻いている。
(…どうしたんだろう?)
不思議に思う一紗に、武田は意を決したように向き直った。
「末藤さん、まだ時間ありますか?」
「? はい、大丈夫ですけど」
「ここからは俺の話に付き合ってもらっていいですか」
「武田さんの話、ですか?」
頷いた武田の顔が、ほんのり赤い。
「…さっきついた嘘、俺は本当にしたいです」
「…え?」
「俺を、末藤さんの彼氏にしてください」
真っすぐにこちらを見つめてそう伝えてきた武田に、一紗は言葉を失った。
「…本当は、もっとちゃんとした状況で伝えるべきなのは分かってます。今言うのは弱みにつけ込むみたいだけど、そんなつもりじゃなくて。前からもっと近くにいたいなと思ってました」
固まったままの一紗に、少しだけ不安そうな表情を浮かべた武田が続ける。
「返事は急ぎません。色々あった後だし、末藤さんが落ち着くまで待――」
「私も、武田さんと同じ気持ちです…!」
被せるように言った一紗に、武田が目を見開いた。
「最近ずっと、美味しいものを食べた時は『武田さんと一緒に食べたかったな』とか、困ったことがあれば『武田さんならなんて言ってくれるかな』とか、まず最初に武田さんのことを思い浮かべるようになってたんです」
先ほどまでとは違う涙が溢れてきた。
「私も、もっと武田さんに近くにいてほしい…!」
言い終わるか終わらないかのところで、強く抱きしめられた。
「…っ! すげぇ嬉しいです…!」
感極まった様子の武田の背に、一紗もおずおずと手を回す。
お互いの体温を確かめ合うようにしばらくそうしていたが、ふいに武田が体を離した。
大きな手で一紗の頬を包んだ武田の顔が、スローモーションのようにこちらに近づいてくる。
(…あ)
一紗もそっと瞳を閉じた―ーのだが。
「くしゅんっ!」
唇が触れ合そうになったその瞬間、一紗からくしゃみが飛び出した。
「…」
武田の動きが止まる。
「ご、ごめんなさい…!」
これではムードもへったくれも無いではないか。
平謝りする一紗に、武田が堪えきれずにぷっと吹き出した。
「いえ。寒い中長居させちゃってこっちこそごめんなさい」
全く気にしていない様子でそう言った後、考え込むと少し照れたような表情を浮かべた。
「もう敬語は変か。――帰ろう、一紗」
そう言って立ち上がり、こちらに手を差し出してくる。
「…うん!」
差し出された手を握り返し、手を繋いで二人は公園を後にした。
玄関から5秒。
誰よりも近い距離にいたひとは、心の中でもいちばん近い人になった。




