仕事帰りに
日が沈み、辺りは真っ暗だというのに、纏わりついてくる空気にはまだ湿度と熱気がこもっている。
「はあ…」
一紗は駅から自宅へ向かう道すがらでため息をついた。
うんざりしているのは何もこの暑さにだけではない。
数日後には月が変わるという8月の下旬の週末。
今日は、月に2回ある出社日のうちの1日だった。
一人暮らしを始めた目的である「月2回の出社日の通勤の負担を減らす」という問題は、実際に通勤時間が片道2時間短縮されたことで問題なく達成されたのでなんの不満も無い。
早起きして準備をし、ラッシュに揺られるのは相変わらず億劫だが、出社してしまえば仕事自体は大変な部分はありつつもやりがいを感じることも増えてきているので問題はない。
(人…なんだよなぁ…)
そんなことを考えながら、カードキーでオートロックを解除し、一紗はもう一度小さくため息をつく。
ちなみに、件のオートロックは機械そのものを取り換えたようで、あれ以降特におかしな挙動をすることは無かった。
働く際にまず大切なことは業務内容が好きになれるか、自分に合っているかということだが、それと同じくらい大事なことがもう一つある。
人間関係である。
一紗の会社は、中小企業向けに独自の会計や経費精算、販売といったシステムを開発・保守していた。
社員は200人に届かないくらい。
東京本社と大阪支社があり、約120人が東京本社に所属していて、その中に一紗も含まれている。
メインとなる開発部に60名、営業部に20名、人事や総務や経理を担う管理部に15名、カスタマーサポート部に25名…というのが東京本社のおおよその人員配置である。
開発部は更に細かく三課に別れており、一紗が所属しているのはその中の第一開発課だった。
人数は20人ほどだが、年齢層はバラエティに富んでおり、男女比もほぼ半々である。
そのせいか、色々なタイプの同僚や上司がいるものの、許容できないほどにそりが合わない人というのがほぼいなく、ほとんどの社員と問題なくやっていけている。
そう、「ほとんど」の社員と。
つまり、どうにも合わない人が全くいないというわけではないのである。
今日もまた、その「どうにも合わない人」と直接顔を合わせてのあれやこれやがあったため、普通に仕事をする以外にいらんところで体力や気力を使ってしまった感が酷かった。
(しかも業務そのものでどうこうって話じゃないからなぁ…)
今日のあれやこれやを思い出し、ますます気持ちが落ち込みそうになったところで一紗は強制的に考えるのを止めた。
毎日顔を合わせなくてはならないわけでなし、次に会うのはどうせまた2週間後だ。
こういう時、原則リモートワークというのは大変に助かる制度だった。
(…疲れたし、なんか美味しいものが食べたいな)
出社日は、仕事から帰ってきた後に自炊をすることなど端から考えていないので、今日はレンジで温めるだけのパスタを用意していたのだが。
(なんかこう、がっつり肉が食べたい、肉が。削られちゃった体力や気力を回復したい…!)
一度そう思ってしまうと、もう完全に口が肉になってしまっていた。
(コンビニ行って豚丼か牛丼でも買ってこよう!)
そうとなれば善は急げである。
一紗は一旦自宅に帰り、肩にかけていた通勤用のカバンと、それとは別に業務用のノートPCを持ち運ぶために手持ちしていたトートバックを玄関に置いた。
通勤用のカバンから財布とスマホ、エコバックを取り出し、エコバックの中にスマホと財布を放り込んで家を出る。
既に日は暮れており辺りは暗いので、さっと行ってさっと帰ってきた方がいいだろう。
(そういえば、暗くなってからの女性の一人歩きは気を付けた方がいいって言ってくれたのは武田さんだったな)
などと考えながら、急ぎ足で廊下の突き当りを曲がった時だった。
「うわ!」
全身に衝撃が走った。
出会いがしらに人とぶつかってしまったようだ。
相手の方が体格が良く、弾き飛ばされそうになったところを、腕を掴まれ抱きとめられる。
完全に速度を上げて歩いていた一紗側の落ち度であり、謝りながら自分を抱き込んでいた相手を見上げると、まさに今しがた思い出していた武田その人であった。
「末藤さん?」
武田側もぶつかった相手が誰かを認識したようである。
真上から降ってきた低い声。
そして、相手を認識したことで、改めて一紗は今の状況を思い出した。
抱きとめられている、武田に。
一紗の手首を掴んでいる手は大きく、余裕で1周して親指と中指が重なっている。
武田の仕事着である青い上着の上からでもわかる厚い胸板。
(……~~~!!)
それらの感触で、男性と密着している事態に気が付き、一気に顔に熱が集まるのが分かった。
「すみません、咄嗟に体触っちゃって。大丈夫っすか?」
「だ、大丈夫です! 私の方こそごめんなさい!! ちょっと急いでコンビニに行ってこようと思ってて!!!」
武田が掴んでいた手首をそっと放してくれたため、一紗もまた弾かれたように体を離した。
「夜ご飯にパスタ用意してたんですけど何か急に肉が食べたい気分になってコンビニまで行こうかと思ったんですけど外はもう暗いし前に武田さんが言ってくれた通り女の1人歩きは気を付けた方がいいだろうと思ったら早足になっちゃって!」
恥ずかしさを誤魔化すために一息で捲し立ててしまった。
(うう…。絶対に顔が赤いの気づかれてるよね…)
武田の様子を伺うと、彼は少し目を見開いてこちらを凝視している。
一紗に驚いてはいるようだが、どうにも少し様子がおかしい。
いつもであれば、驚いた後でもすぐに何かしら言葉を返してくれるのに。
「…あの? 武田さん??」
無言のままの武田に一紗が声をかけると、彼はハッとして何故か目を逸らした。
「…なんか今日、いつもと感じが違うっすね」
「え?」
一瞬何を言われたか分からなかったが、一紗はすぐに「ああ」とうなずいた。
基本的に在宅勤務なので、普段はスウェットやTシャツにハーフパンツなど緩い服装をしている。
メイクも肌色補正効果がある日焼け止めをささっと塗って軽く眉にパウダーを乗せる程度だ。
近所のスーパーやドラッグストアへの買い出し程度ならそのまま行ってしまうので、そういえばこれまで武田と会うのはいつもそんな緩い格好の時だった。
今日の一紗は、襟元がレースの切替になったフレンチスリーブの黒いブラウスにベージュの膝下丈のタイトスカートというオフィスカジュアルだった。
更にしっかりめにメイクをしているのでそのことを言っているのだろう。
「今日出社日だったんです」
「…そうなんですか」
武田がどこか気まずそうにちらりとこちらに視線をよこしてくる。
やはり、どこか様子がおかしい気がする。
(どうしたのかな…)
一紗が訝しんだその時だった。
グウゥゥゥ~~~~。
大音量で、一紗のお腹が、空腹を訴えてきた。
「……」
「…あの、武田さん…。笑いたいなら笑ってください…」
今度こそ顔を真っ赤にして、一紗はお腹を押さえながら言った。
目の前の武田は、笑いを堪えて肩を震わせている。
「ふはっ…。いやすみません笑っちゃって。でもそうっすよね。仕事してこの時間に帰ってきたら腹減りますよね」
笑いながらフォローしてくれている。
思えば武田はいつもこうな気がする。
一紗がトンチキな言動をしても面白がって笑いはするが、決して馬鹿にはしないのだ。
「あの、末藤さん」
少しだけ改まって武田が口を開いた。
「俺、これから飯食いにいくところだったんですけど、よかったら一緒にどうですか?」
「行きます!」
「即答っすね」
「お腹ペコペコなんで!」
武田があの子供のような笑顔を浮かべる。
「さっき肉食いたいって言ってましたよね? 俺、店に心当たりがあるんでそこ行きましょう。仕事の荷物置いてくるんで、ちょっとだけそこで待っててもらえますか?」
一紗は大きく頷いた。




