避暑
ひんやりとした空気が心地よい。
オレンジがかった落ち着いた雰囲気の証明、控え目な音量で流れているジャズピアノのBGM、そしてコーヒーのいい匂い。
暑さを逃れるため、一紗と武田は駅前のカフェに来ていた。
(普段カフェなんて入らないからなぁ…)
東京に引っ越して一人暮らしを始め、もうすぐで4か月になるが、一紗はこれまで外での飲食はほぼしてこなかった。
食事はコンビニ弁当やスーパーの総菜がメインで稀に自炊をする…という感じだったし、コーヒーや紅茶は飲む習慣が無いのでカフェに行く理由もなかったからだ。
「駅前にこんな雰囲気のいいカフェがあったんですね。私、カフェとか滅多に行かないんで知りませんでした」
あの後、駅前に行ったはいいが、一紗にはカフェにもファミレスにも全く心当たりが無かった。
(そもそも最寄り駅ってそんなに大きな駅じゃないし、こういう時にちょっと入るのに良さそうなお店なんてあるのかな…)
一紗たちのマンションの最寄り駅はターミナル駅でもなんでもなく、一つの路線が通っているだけの駅である。
修理を待つ間、暑さを逃れられるような落ち着いた店などあるのだろうか。
そう思っていた一紗に、「じゃあ俺が心当たりがある店でいいっすか?」と言い、武田が連れて来てくれたのがこの店だった。
店内の装飾はどこかレトロで、落ち着いた空気が流れている。
恐らくチェーン展開ではなく個人経営の店なのだろう。
一紗の向かいの椅子席に座った武田は、手にしていたグラスの中身をストローでゆっくりと混ぜている。
(いかにもブラックコーヒー飲みそうなのに意外だな…)
「奥どうぞ」とさりげなくソファ席を譲ってくれた武田が頼んだのは、アイスカフェオレだった。
今は伏せられている切れ長の瞳は普段は鋭い印象だが、それを縁取るまつ毛は意外に長い。
引き締まった形のよい唇と、しっかりした顎のライン。
改めて見ても整った顔立ちをしていると思う。
骨太で野性味を感じさせる彼の笑顔が意外なほど柔らかく、どこか子供のようで可愛らしいことを一紗はもう知っている。
視線に気が付いたのだろうか。武田が手元を見ていた目をこちらに向けた。
一紗は慌てて口を開く。
「あ、あの、このお店にはよく来るんですか?」
「そうですね、勉強しに来ることが多いっすね」
「勉強?」
「俺、資格取得の勉強してるんです」
勉強。
社会人になってからは一紗には縁が薄い言葉である。
「お仕事って電気工事士でしたよね?」
武田がふっと笑う。
「はい。電気工事士って資格が必要で、その資格が一種と二種と二つあって。俺、工業高校卒なんで高校生の時に二種は取ったんですけど、一種はまだ持ってないんで」
「へえ…」
素直に感心しながら、一紗はアイスミルクティを一口飲んだ。
人間、自分と馴染みが薄い世界のことはそもそも認識できていないことが多い。
電気工事士という職業も、その職業のために資格が必要なことも、一紗がこれまで全く知らなかったことだ。
人との会話の中で自分の知らない情報を新たに得ることができるのは、純粋に聞いていて面白かった。
「高卒で今の会社に入社して今年で8年目になったから実務の経験は十分だし、そろそろ一種に挑戦してみようかなって」
体格がよいこととキリっとした雰囲気などから、もう少し年上かと思っていたのだが、高卒で就職して8年目ということは一紗の2歳上ということになる。
「末藤さんはどうしてエンジニアになろうと思ったんですか?」
「私ですか?」
話題の中心が自分に移り、一紗はアイスミルクティのグラスをコースターの上において「うーん…」と少し考えた。
「私の場合、武田さんみたいに工業高校に行って、その後に関係のあるお仕事に就いて…みたいなちゃんとした道筋を考えていたわけじゃないんですよね。大学も文系卒なので」
「そうなんですか?」
「はい。特に行きたい業界とかやりたい仕事とかも『これ!』というのが無くて。就活が始まって『どうしようかな』と思ってたところでたまたま企業説明会で今の会社のブースにふらっと立ち寄って」
一紗のグラスの氷がカラン…と音を立てた。
「ITっていうと理系のイメージがあったんですけど、説明会で『文系で培われた文章を読む力、書く力はIT業界でも活かせる』って熱心に言ってたのが印象に残っちゃって。試しに応募したらあれよあれよと採用になって。採用されたなら入社するか~って感じでなんだかんだ2年目になりました」
改めて言葉にすると「たまたま」とか「試しに」とかあまり考えていない感が全開で恥ずかしくなってきてしまう。
(武田さんは高校受験の時点で将来どういう道に進みたいかって考えた上で高校を選んだんだろうな。そして今も資格の勉強してるし。私とはえらい違いだな…)
何に対してかはわからないが、若干の後ろめたさを感じてしまい、一紗は手元のグラスに視線を落とした。
そんな一紗の様子を知ってか知らずか
「選んだ後でその環境に合わせて進んでいくのも一つのやり方っすよね」
と何でもないことのように口にした。
思わず目線を上げると、武田は穏やかな笑みを浮かべている
「入口は『なんとなく』でもその後の行動や結果次第っすからね」
「…そうですね。仕事自体は楽しいかな」
一紗の言葉に武田が「ならそれでいいじゃないか」というように頷くと、何かを考え込むような様子になった。
「あの…どうかしました?」
「いや、俺たち知り合って少し経って、ちょいちょい顔を合わせて挨拶して、今は結構突っ込んだ話してるのに、お互いのフルネーム知らねぇんだよなと思って」
「ふふっ…。確かにそうですね」
姿勢を正し、武田は口を開いた。
「改めまして、武田大地です」
「末藤一紗です」
二度目の自己紹介をし、どちらからともなく笑いが零れたそのタイミングで、テーブルの上に置いてあった武田のスマホが着信を知らせた。
「管理会社だ。ちょっと出ます」
スマホを手にした武田の「はい、武田です」という応答は、カフェという場所柄を考えてか少しボリュームが抑えられていた。
グラスに3分の1ほど残っていたアイスミルクティを飲み切ったところで、武田の通話が終わった。
「オートロックの修理、終わったみたいです。もう入れるって」
「そうですか。じゃあ出ましょうか」
会計を済ませてカフェを出る。
18時を過ぎたためか、流石に先ほどよりは暑さが収まっていた。
マンションまでの道すがら、一紗が手にしたエコバックを見て、武田が問いかけくる。
「そういえば中身大丈夫っすか?」
「あ、保冷剤入れてきてるし、冷凍のものは無いので大丈夫だと思います」
「保冷剤かぁ…。準備いいなあ」
「この時期にスーパーに買い出しに行くときは必ず持ってくようにしてます。そういえば武田さんはさっきはどこからの帰りだったんですか?」
「今日も勉強してましたね。さっきの店じゃない別のカフェでですけど」
「1日2回カフェに行ったんですね」
「だからカフェオレも2回飲みました」
武田の言葉に、またどちらからともなく笑い合う。
マンションに到着し、武田が取り出した自分のカードキーをオートロックにかざすと
ピーッ
聞きなれた音がして問題なく開錠された。
共用口から中に入り、階段を昇って3階に行く。
305号室の前で立ち止まった武田が
「今日はお互い大変でしたね」
と声をかけてきた。
「私の方はほぼ何もしてないので。結局連絡から何から全部やってもらってしまってすみませんでした」
「いえいえ。それじゃあ」
笑顔で小さく会釈し、武田は自宅へと入っていった。
一紗もカードキーで自宅である306号室の鍵を開けて中に入った。
(武田…大地さんか…)
2歳年上で、工業高校出身で、電気工事士として働いて8年目で。
なによりも、社会人になってからも自分を高めるために勉強をしていて。
(もう少しゆっくり話したかったな…)
自然とそんな思いが湧いてしまう。
(私も何か勉強してみようかなぁ…)
自分の仕事に役立ちそうな資格を調べてみよう、そう思ったところで、一紗はあることに気が付いた。
(資格を調べる前にっと)
入居の際にもらった資料一式を引っ張り出し、スマホに管理会社の電話番号を登録した。




