ベランダにて
しょっぱなにダイヤル鍵トラップという思わぬ出来事こそあったものの、引っ越し後1週目の平日は他に特に大きな問題もなく平和に過ぎた。
やってきた週末。気持ち良いくらいの青空が広がっている。
(洗濯日和だな)
一紗は溜まった洗濯物を放り込んだ洗濯機を回し始めた。
洗い終わるまでの間に掃除機をかけ、フローリングの拭き掃除を済ませる。
洗濯機が洗濯完了を知らせてきたので、洗いあがった洗濯物をランドリーバスケットに取り出した。
下着だけは部屋干しにして、残りの洗濯物が入ったランドリーバスケットを手にベランダへと出る。
「ん~~~いい天気!」
思わずそう口に出してしまうほど太陽の光が気持ちよかった。
(なんだかんだ今ぐらいの時期が一番過ごしやすいよねぇ…)
もう少ししたら梅雨になりジメジメするし、梅雨が明けたら暑い夏になってしまうし。
大きく一つ伸びをしてから、一紗は洗濯物を干し始めた。すると。
ガラッ!
すぐ隣のベランダに人が出てきたであろう音がした。
一紗の住む306号室は角部屋である。つまり隣というと武田しかいない。
(改めてお礼を言おうかな…。ダイヤル鍵トラップ事件は朝の慌ただしい時間だったから、ゆっくりお礼も言えなかった気がするし…)
意を決して一紗は仕切りになっている避難板越しに声をかけた。
「あの…武田さん?」
「え? あ、はい。末藤さんっすか?」
「この前の鍵の件で改めてお礼が言いたくて。本当に助かりました。ありがとうございます」
「いや、自分大したことしてないんで。本当気にしないでください」
「鍵といえば…」
「共用部の掲示板っすか?」
「はい。武田さんも見ました?」
例のトラップ事件から数日後、共用部のマンション住人用掲示板にゴミ収集庫のダイヤル鍵についての注意喚起の張り紙が出たのだ。
赤い文字色かつ太字で「暗証番号を合わせるのは6時の位置です!」とでかでかと書かれた張り紙には、ご丁寧に鍵の画像までついていた。
「あー…あれあの後俺の方で管理会社に連絡したんですよね」
「えっ! そうなんですか?」
思いも寄らない言葉に一紗は思わず身を乗り出し、隣のベランダをのぞき込んだ。
急に身を乗り出してきた一紗に武田は一瞬驚いた顔をしたが、ふっと笑みを浮かべた。
「すぐ対応してくれたのはいいけど、正直住人はもうカラクリが分かってるから、共用部分の掲示板に張り出してもあんま意味ないっすよね」
「確かに…。次の犠牲者が出るとしたらまた新しく越してきた人ですよね…」
「ははっ…犠牲者って。末藤さん言うことがいちいち面白いっすよね」
武田は洗濯物を干しながら続ける。
「まあ次の犠牲者が掲示板の張り紙に気づけばその場で解決できるから、完全に無意味でもないのか」
パンッ!と小気味のよい音を立てて、武田が手にした洗濯物を軽く叩いて皺を伸ばした。
(あ、あの青い上着…)
先日のダイヤル鍵事件の時にも身に着けていたものだ。
ふと見ると、物干し竿には同じ上着がもう1着、更には上着と同じ色のカーゴパンツが2本かかっている。
「俺、電気工事士なんですよ。これは仕事着で」
一紗の視線が自分が手にした洗濯物にそそがれていることに気が付いたのだろう。武田がそう口にした。
「あ、ごめんなさい。なんだかじろじろ見ちゃって」
「いや、同じ上着とパンツが2つずつあったら何だろうと思いますよね」
気にしていないという風に武田は表情を緩めた。
「末藤さんは何されてるんですか?」
「私ですか? 一応ITエンジニアですね。まだまだペーペーですけど」
「女性のエンジニアって結構珍しくないですか?」
「そう言われることも多いんですけど、うちの会社は女性も多いんですよね。男女比は6:4くらいかな」
武田が感心したようにへぇ…と相槌をうつ。
「なんかかっこいいっすね」
「うーん…。横文字の職業だから一見かっこよく見えるかもしれないけど、実態は結構地味ですよ。特にうちの会社だと月2の出社以外はリモートだから私なんていつも部屋着で仕事してますし」
自分のその言葉で、一紗は先日ゴミ収集庫の前で遭遇した際に自分が気の抜けた恰好をしていたことを思い出した。
「だからこの間もすっごいゆるい恰好してましたよね私…。お見苦しくて申し訳ないです…。っていうか今もあの時と同じような恰好ですけど」
「いやいや。在宅勤務や休みの日に家でビシッとした恰好してる人の方が少ないでしょ。俺もリモート勤務だったら絶対スウェットで仕事すると思いますもん」
「武田さんは毎日通勤されてるんですか?」
「基本毎日現場っすね」
新卒で今の会社に就職して丸一年。
一紗は月2回の出社以外はリモート勤務という出勤体制しか経験したことがない。
「私からしてみれば月2の出社でも面倒だなと思っちゃうのに、平日週5日早起きして電車に乗って時間通りに出勤してる人はそれだけで凄いなと思っちゃいます」
「自分もそう思います」
わざとらしく大げさに誇らしげな顔をしてみせた武田がなんだかおかしくて、一紗は思わず笑ってしまう。
洗濯物を干し終えて、武田のランドリーバスケットは空になっていた。
「今日16時以降は雨の確率が高いみたいだから、それまでに取り込んだ方がいいっすよ」
ランドリーバスケットを手に、武田はそう言うと会釈をして部屋へと戻って行く。
「あ! 情報ありがとうございます!」
武田の背中に向かってそう言うと、一紗は乗り出していた身を引っ込め、自分の洗濯物を干し始めた。
空は相変わらずの晴れ模様だ。今から干してしまえば16時までには問題なく乾くだろう。




