思わぬ罠
一紗は思う。
社会人のストレスの半分は出退勤のための移動なのではないだろうか、と。
(いや、8割かも。特に都心だとラッシュも凄いし)
しかも始業時間から逆算した上で、移動時間や身支度の時間を考えて朝起きなければいけないわけで。
その点、リモートだと楽である。
極端な話、始業時間の15分前に起きて簡単な身支度と朝ごはんを済ませ、そのままパソコンを立ち上げて作業開始…という荒業もできてしまうのだから。
(…きちんとした社会人なら1時間前には起きて余裕を持って色々済ませた上で、軽く朝のニュースなんてチェックしたりしてから仕事始めるものなのかもしれないけれど)
あいにく一紗は「きちんとした社会人である」ことよりも1分でも長く寝ていたいたちなので、リモートの日は始業のギリギリまで寝ていることが多かった。
普段その調子だったため、余計に月2回の出社時には5時前に起きなければいけないギャップが大きかったのである。
(うちの会社、始業が8:30で少し早いしなぁ)
今月の出社日はまだ先だが、引っ越したことで片道にかかる時間が一気に2時間短縮されたのだから、これまでとは負担がくらべものにならないだろう。
そんなことをつらつらと考えながら、洗い終わったばかりの顔に簡単なスキンケアを施す。
時計に目をやれば、時刻は7時50分を示していた。
4月に入り、今日は新年度初日の月曜日。
そのため、普段よりすこーしだけ余裕を持って起床していた。
朝ごはんのシリアルにかける牛乳を取り出すため、冷蔵庫を開ける。
(…ん?)
その時、マグネットで冷蔵庫に貼ってあった紙に書かれた「燃えるごみ 月曜、木曜」という文字が目に飛び込んできた。
「あっ!」
思わず声が出る。うっかりしていた。今日は燃えるゴミの日だ。
(実家のゴミの日とは曜日が違うからすっかり忘れてた!!)
慌てて家中のゴミ箱からゴミを回収し、1つにまとめる。
時計は既に7時55分を過ぎていた。
「やばいやばいやばい…! 8時までに出さなきゃ…!」
まとめたゴミ袋をひっ掴んで玄関から飛び出し、鍵だけはきちんとかけて一気に1階まで階段を駆け降りる。
共用口のマンションの住人専用のゴミ収納庫には、他の住人が出したと思われるゴミがまだ残っていた。
「間に合ったぁ…」
ほっと胸をなでおろし、収納庫の扉に手を伸ばす。
築年数が浅く、比較的新しいためだろう。一紗が越してきたマンションのゴミ収納庫には、ダイヤル式の鍵がついていた。
(えーっと…3桁の暗証番号を順番通りに合わせて開けるんだよね)
暗証番号は入居の際に管理会社から渡された諸々の書類の中に記載されており、既に確認済である。
確認した通りの3桁の暗証番号を合わせて、扉を開こうとした。
――開かない。
(…えっ?)
合わせ間違いをしてしまったのだろうか。一紗はもう一度、書類で見たはずの3桁の数字を合わせた。
――やはり開かない。
(なんで!?)
2回失敗したとなれば、疑わしきは己の記憶である。暗証番号の覚え間違いをしているのかもしれない。
一紗はゴミ袋をその場に置いて、慌てて自宅へと引き返した。
数分後、1階の共用口のゴミ収納庫の前には、管理会社から渡された暗証番号の書類を片手に途方に暮れた一紗がいた。
(どう見ても、書いてあるのはさっき合わせた番号と同じ3桁の数字なんだけど…)
軽く息を吐き、3度目の正直を祈りながら再度暗証番号を合わせてみる。
時計でいう12時の位置に、1桁目、2桁目、そして3桁目。
――やはりどうにもこうにも開かない。
(どうしよう…。このままゴミ収納庫の中じゃなくて前に置いておいても収集してくれるとは思うけど…)
でも明らかにマナー違反なわけで。流石に気が引ける。
「…どうしました?」
(あれ、この声…)
階段を降りながら一紗にそう声をかけてきたのは、この前挨拶をした、305号室の住人である武田だった。
スーツではなく、深い青色の上着と同じ色のカーゴパンツといういでたちで、ゴミ袋を手にしている。
「あ、おはようございます…! ゴミを捨てたいんですけど、なんか鍵が開かなくて…」
「ちょっと俺が触ってみていいっすか?」
その申し出に、一紗は一歩横にずれて鍵の正面を空けることで肯定の意図を示した。
隣に立った武田はやはり大きく、一紗の頭は彼の肩とほぼ同じ高さだ。
(初めて会った時にも「背が高いな」と思ったけど、こうして並んでみると余計そう感じるな…)
そんなことを考えている横で、武田は手早くダイヤルを操作している。
彼がダイヤルを3度回した後、(早かったので合わせた数字はよく見えなかった…)ゴミ収納庫の取っ手に手をかけると――。
あっさりと扉が動いた。
「開いた…! でもなんで?」
事態が呑み込めず呆気にとられている一紗に構わず、武田は自分が手にしていたゴミ袋をゴミ収納庫の中に入れると、地面に置いてあった一紗のゴミ袋を指さした。
「それも捨てるやつですよね?」
「あ、はい」
返事を確認すると、残っていた一紗のゴミ袋をひょいと持ち上げ、収納庫に入れて扉を閉めた。
「すみません…! ゴミまで出してもらっちゃって…!」
「全然気にしなくていいっすよ」
「あの…管理会社からもらったこの書類の暗証番号ってひょっとして間違えてます?」
一紗は手にしていた紙をおずおずと差し出した。
武田がのぞき込む。
「いや、この番号であってますよ」
「え…。じゃあなんで開かなかったんだろ…」
「末藤さん、ひょっとして12時の位置に暗証番号を合わせませんでした?」
「はい」
「6時の位置です」
「え?」
怪訝な顔をしていた一紗に直接見せた方が早いと思ったのだろう。武田はダイヤル式の鍵を手に取り、実演を始めた。
一紗にも見えるようにあえてゆっくりと1桁目、2桁目、そして3桁目。暗証番号の数字を――すべて上ではなく、下に合わせている。
ガチャ。
再び開いた収納庫の扉に、一紗は思わず叫んだ。
「いや、どういうトラップ!?」
この造りのダイヤル式の鍵なら、大半の人は上…12時の位置に暗証番号を合わせると思うのではないだろうか。
下…6時の位置に合わせるとなると見た目的に数字だって逆さまになるのだし。
一紗の大声に呆気にとられていた武田が吹き出した。
「ぷっ…」
おかしくてたまらないというように肩を震わせている。
(わ、笑われてる…)
一人で大慌てをしてしまったわけだが、蓋を開けてしまえばただ暗証番号を合わせる位置を間違えていただけというささいな話だったのだから、急に恥ずかしくなってきてしまった。
しかし、次にかけられた言葉は意外なものだった。
「トラップかぁ。確かにそうっすよね」
「えっ?」
思わず視線を上げると、くしゃりと人懐こそうな笑顔を浮かべた武田と視線が合う。
「俺も越してきたばっかの時に末藤さんと同じことしましたもん」
「…そうなんですか? どうやって解決したんですか?」
「管理会社に連絡しました」
(私よりおおごとになってる…)
「電話越しに喋りながら色々やったけど、どうにも開かねぇってなって。管理会社の人が慌ててきてくれたんですけど、俺が番号合わせるの見た瞬間に『あ、上じゃなくて下ですね』って言われて。すげー恥ずかしかったです」
「ふふっ…。それは大変でしたね」
その場面を想像したら自然と笑みがこぼれてしまった。
扉を閉めた武田が、柔らかな笑顔を浮かべたまま口を開く。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、色々とありがとうございました!」
一紗の感謝に、軽い会釈をすることで返事をして武田は駅方面へと歩いていった。
(出勤前の慌ただしい時に変なことに付き合わせちゃったな)
しかし、武田が来てくれたことで助かった。本当にありがたい。
(それにしても…)
一紗は先ほどの武田の笑顔を思い出す。
大柄な体格に整い過ぎた顔立ちという見た目のせいか、少しだけ近寄りがたさだとか威圧感もあったのだが。
(笑った顔、子供みたいでなんか可愛かったな)
やんちゃ坊主がそのまま大人になったような。
そんなことを考えながら部屋へと戻った一紗だったが、玄関にある鏡に映った自分の姿に愕然としてしまった。
(私、ほぼすっぴんだし、服は部屋着感満載のスウェットだし、髪も雑に纏めただけだ…!)
この格好であの男前と会話をしていたのかと考えると、再び恥ずかしさがこみ上げてくる。
若干凹みつつ時間を確認すると、時刻は8時25分を指していた。
「やばっ!」
思っていたより時間をくってしまっていたようだ。一紗は慌てて業務用のパソコンを立ち上げた。




