出会い
うららかな陽ざしの中、桜舞う都内某所。
「ついに引っ越して来てしまった…」
誰に告げるでもなく、末藤一紗は呟いた。
周りを見渡せば、業者がせわしなく荷物の運び入れをしている。
新卒で入り、もうすぐ2年目になる今の会社。
一紗はそこで、エンジニアとして会計システムの開発、改修をしている。
仕事は、まあまあ楽しい。
もちろん大変なことも色々あるけれど。
問題は実家からの距離だった。
都心にある本社へは、実家のある千葉からは片道約2時間半かかるのだ。
新幹線も飛行機もいらないし、絶対に通えない距離ではない。
しかし、2時間半である。しかも片道。
さすがに億劫だと思う人の方が多いだろう。
(…いや、まあ基本はリモートだから出社は月2回だけども)
それでも、億劫なもんは億劫なのである。
恐らくは親元を離れた後の娘を心配してだろう。
「月に2回くらいなら通おうと思えば通えるじゃない」
という両親を尻目に、都内での1人暮らしのための物件を探し始めたのが3月に入ってからだった。
中小企業の1年目のエンジニアの給料なんてたかがしれている。
毎月の家賃が予算内に納まることは大前提。
かつ、オートロックあり、2階以上、風呂トイレ別の条件を満たす物件…となるとなかなか難しいであろうことは1人暮らしの経験が無い一紗でも想像ができた。
(まあ緊急も緊急ってわけでもないし、のんびり探すか…)
そう思っていたところで見つけてしまったのである。条件にピッタリ合った物件を。
そこからはあっという間だった。
慌てて不動産会社に連絡し、内覧をしてみれば一紗が希望している条件をすべて満たしているうえに、駅からも徒歩10分以内だし、おまけに築も浅い。
内覧したその場で入居を決め、引っ越し業者の手配をし、荷造りをし…と嵐のように時間が過ぎて、めでたく引っ越し当日である今日を迎えることができたというわけだ。
(初めてのことばかりだったし、ここまで怒涛だったなあ…)
舞い落ちる桜の花びらをぼんやりと眺めながら、一紗はここひと月を振り返って感慨に浸っていた。
何事も、往々にして、当日よりも当日に至るまでの準備の方が大変なことが多い。
当日は意外と手持ぶさた…なんてことはザラだ。
現在の一紗はまさにそれであった。
今日から入居する部屋の間取りは、約7畳の1K。
1人暮らしであれば十分な広さだ。
しかし、複数人で荷物の運び入れをするとなると話は別である。
結果、荷物の運び入れは業者に任せ、家主は邪魔にならないよう開け放した玄関のドアから少し離れた位置で待機…という状態になっている。
(まあ荷物はそこまで多くないし、そろそろ終わるかな)
そんなことを考えていたその時だった。
「こんにちは」
声をかけられた。
慌てて声がした方向に目をやると、背の高い若い男性が1人立っている。
「引っ越してきた人ですか? 俺、305号室の武田です」
「あ…306号室の末藤です」
一紗がそう応えると、武田と名乗ったその男性は小さく会釈をして305号室の中に消えていった。
(びっくりした…お隣さんか)
胸に手を当てれば、心なしか普段よりもドクドクと脈打つ鼓動が大きい気がする。
驚いたのは突然声をかけられたせいもある。
ただ、それ以上に。
(顔! お隣さん、顔が良すぎじゃない!?)
凛々しい眉、意思が強そうな目元、スッと通った鼻筋。
すっきりと額を出した短めの髪型ということもあり、「精悍な美形」という単語がとっさに頭に浮かんでしまった。
加えて、背も高く、しっかりめの体格をしており
(「イケメン」というよりは「男前」って感じの人だったなぁ…)
その「男前」のオーラの余韻にあてられていた一紗だったが、はたと思い至る。
(ぺらぺら喋っちゃったけど、もう少し警戒した方が良かったかな)
女の1人暮らしには、何かと危険がつきまとうと聞いている。
(でも向こうから名乗ってくれたのに無言も変だし)
既に済んでしまったことをあれこれ考えても仕方がない。
「搬入、全部終わりました」
タイミングよくかけられた引っ越し業者の声に「はーい」と返事をして、一紗は今日から自分の家となった部屋の中に入っていった。




