第1話 何かおかしい
新作です。よろしくお願いいたします。
本作は実体験をもとに再構成したフィクションです。
登場する個人・団体は実在のものとは関係ありませんが、描かれる出来事は実際に経験した事実をもとにしています。
この作品に救いはありません。
読むのに体力を使う、重い内容になります。
お覚悟のうえ、お読みください。
気分を害する恐れがあります、ご了承ください。
化学薬品工場に中途入社して、二ヶ月が経った。
まだ私は、先輩社員の補助が中心だった。
作業の流れを覚え、器具の名前を覚え、薬品の扱いを間違えないよう神経を尖らせる毎日。失敗が許されない職場だということだけは、嫌というほどわかっていた。
その日の終業間際、一人の先輩が私に声をかけた。
「明日休みだから、この作業やっといて」
そう言って指さしたのは、私が何度か補助に入ったことのある調合作業だった。
「教わりたいので、見てもいいですか」
そう聞くと、先輩は小さく頷いた。
「いいけど、見てて」
私は隣に立ち、黙ってその手元を追った。
薬品を量り、機械へ流し込み、タイミングを見てレバーを引く。
鉄の板を無造作に脇へ置いたのを見て、私は気になって尋ねた。
「これは、この辺に置けばいいんですか?」
「そう。いいから見てて」
短く返され、それ以上は聞けなかった。
質問を重ねる空気ではなかった。
この工場では、何かを止めることが嫌われる。
作業も、会話も、流れも。
だから私は黙って見た。
その日の作業が終わると、先輩はエプロンを外しながら言った。
「じゃ、明日同じようによろしく」
それだけ言い残して帰っていった。
翌朝。
いつもより早く準備を済ませていると、工場長がやってきた。
「何かわからないことがあったら、二階の事務所に来て」
それだけ言うと、すぐに階段を上がっていった。
私はその背中を見送りながら、小さく頷いた。
作業が始まった。
薬品を投入し、機械を回し、液が流れ始める。
その瞬間、私は理解した。
手を離せない。
途中で止めることもできない。
少しでも判断を誤れば、不良品になるかもしれない。
それでも、次の工程は待ってくれない。
ふと手順に迷う瞬間があった。
――これはどうするんだ。
そう思っても、二階の事務所へ向かうことはできなかった。
液は流れ続けている。
機械は止まらない。
私だけが、答えのないままその場に立ち尽くしていた。
結局、私はわからないまま作業を進めた。
見た記憶を辿り、先輩の手の動きを思い出しながら、一つずつ確認して終わらせた。
昼休憩のあと、工場長が様子を見に来た。
「できてるね。何かあったら来て」
それだけ言って、また二階へ戻っていく。
私は「はい」とだけ返した。
何もなかったわけではない。
わからないことはいくつもあった。
ただ、聞きに行けなかっただけだ。
夕方、なんとか作業を終えて帰宅した。
そして翌朝、工場長が何気ない口調で聞いてきた。
「できあがった品物、どうした?」
「あの場所に置きました」
そう答えると、工場長はあっさり頷いた。
「わかってたんだ。ならいい」
それだけだった。
私は曖昧に頷き返した。
そのときはまだ気づいていなかった。
この会社には手順書がある。
だが、それは読ませるためのものではない。
知っていて当然のこととして扱われ、
知らなければ責められる。
その迷路の入口に、私はもう立っていた。
読んでいただきありがとうございます。
今後もよろしくお願い致します。




