空音 4
同刻。IN-PSID所内、PSIシンドローム長期療養棟——
「全く、エゲツない事をしますね、我らの飼い主は」
入室するなり神取は、その部屋の新しい入居者三人に向かって言葉を投げかけた。
二人の男が、ベッドから跳ね上がって身構え、やや反応が遅れた女が一人、彼らに続いて起き上がった。
三人は寄り合い、何かを警戒するように、身を固くしている。
「……大丈夫。ここの結界は、なかなか優秀です」神取は不敵な笑みを浮かべながら言う。
彼らの飼い主である御所の風辰衆、そしてその配下、夢見衆は、その霊力をもって、どれほど離れようとも監視の目を光らせる事が可能だ。三人が、それを警戒している事は、神取には手に取るようにわかった。
「ふふ、だからこそ、貴方達が送り込まれたのでしょう?」
神取の言葉に、三人のうちの一人が手振りで警戒を解かせた。入居登録は、兄妹弟としている。手振りをした男は『長兄』と言う事だ。
「担当医は誤魔化していましたが、はっきり言って、最悪です。貴方達の症状は」
手にしたタブレットに表示されたカルテに目を通しながら、神取は言った。
三人の名前は、黒羽兵吾、黒羽皆子、黒羽陣也となっている。勿論、偽名ではあるが、なんの捻りもないそのままの名前に、神取は苦笑せずにはいられない。
「ええ。わかっていますよ、神取先生。で、残された時間は?」静かに微笑んだ長兄の男、兵吾が問う。
「ここに居れば、幾らかの延命は可能だ。しかし、保って一年、早ければ半年。そんなところです」
三人は特に落胆した様子もなく、淡々と神取の言葉を受け入れている。
兵吾の瞳は、光を失い、神取のやや後方をぼんやりと見つめているように見える。カルテによれば、彼は視力を失っているらしい。
一方、皆子と名乗っている妹は、神取の口元に注視していた。彼女は聴覚を失い、唇の動きを読んでいるようだ。
弟、陣也は、神取に視線を合わせ、言葉を聞き取っている。だが、彼は声を失っている。
それ以外にも、身体の各部にもそれぞれ、急性PSIシンドロームの症状であろう、細胞変異を抱えているという有様だった。
「十分です。その時間があれば、貴方を見張り、必要なら神子を強奪する事も……」兵吾は、平坦な口調で言うと、小さく微笑んだ。
「良いのですか? そんな事、私に話しても」
神取は口元に笑いを浮かべながらも、その眼光は鋭い。
「構いませんよ。どうせ、その程度の事、貴方が気付かないワケもない」
神取は、空いているベッドに腰を下ろし、兵吾を見つめる。
「……ふふ。大方、あの尼僧の差金、といったところか?」
皆子、陣也は、ハッと息を呑んだ。反して、兵吾は、落ち着き払ったまま、返答する。
「ええ。あの方は、貴方を殊の外、警戒しているようだ」
一時の静寂が、部屋を包む。
「……で、どうしますか? あなた方は。命じられたとおり、私を探りますか?」
口を開いた神取の切れ長の両目が、兵吾を見据えた。
「ええ。あなたの素行は、逐一報告しますよ。ですが……」
兵吾は、やや身を前に乗り出して続ける。
「我々には貴方に借りがある。残りの時間……せめてその借りだけでも返したい」
兵吾の光を失った瞳が、微かに煌めいたように神取には見えた。皆子、陣也も兵吾に倣い、真摯な眼差しを神取に向けている。
「兵……」
「貴方が、御所の意志とは異なる目的で動いていることは察しがつく。貴方は、何を為そうと……」
兵吾こと、烏衆、兵。視覚を奪われ、肉体崩壊の定めを受け入れた彼からは、かつての燻銀にギラつくナイフのような殺気は消え去っている。
神取は、しばし瞑目し、再び目を開いて三人を見据えた。
「……三宝神器……」
三人は、ハッとなって息を呑む。
「どうして……それを?」
兵の声は震えている。皆、陣もまた身体を硬直させ、唇を戦慄かせていた。構わず、神取は続ける。
「兵、皆、陣。貴方達、何を見ましたか? あそこで……」
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伸びやかな青空、草原を行く風を想起させるような爽やかな旋律。それでいて、弦楽四重奏にピアノを加えた、シューマンのピアノ五重奏曲は、室内楽でありながら、ドイツロマン派の重厚な響きを感じさせる。
シューマンが愛した妻、クララ。彼女に献呈されたというこの曲の第一楽章は、クララとの結婚生活の幸福感をそのままに込めたかのような、前半の提示部を駆け抜け、次第に翳りある展開部へと移ってゆく。
その部屋の窓からは、夜の衣を纏う海が見える。波間に誘われた、もう時期、満月を迎える月影が細やかに揺蕩い、ピアノソロが紡ぎ出す、八分音符の細やかな調べにおり重なる。
真世は、幾分慎重ながら、クララのために書かれたであろう、難易度の高いパッセージを完璧にこなしてゆく。
直人はその巧みさに聞き惚れながら、ピアノの旋律に重なり合う、チェロ、ビオラのオブリガートに、ファーストバイオリンと共に、音を重ねる。
「……?」
ハーモニーの気持ち悪さを感じて、直人は演奏仲間たちを見回した。チェロを担当する藤川も顔をあげ、ファーストバイオリンのカミラは、眉を顰めていた。
再び、音程を変え同様のフレーズが繰り返される。さっきよりもハーモニーが濁る。
「えっ……?」思わず直人は、弾くのを止める。同じく止めた藤川と目が合う。
「止め、止め止め! ストップ!」
カミラが弓を二、三振って声を上げると、ピアノの真世と、ビオラのサニも手を止めた。
「何なの、この音程! もう一回!」カミラは、眉を吊り上げたまま、厳しい口調で言った。カミラはインナーミッション時より、アンサンブルを仕切っている時の方が、キツいのではないかと直人は思う。
直人は背筋を伸ばして椅子に座り直し、藤川は、こそっとチェロのチューニングを確認するフリをしていた。
「ビオラ! サニ、ちょっとふざけてるの? さっきからずっと音程、おかしいわ!」
サニが注意を受けるのは珍しい。思わず直人は、サニへと視線を送る。
「えっええ? ちゃんとやってる!」抗議するような口調で、サニは反論した。
「所長、すみません。今のところ、チェロとビオラで。あ、真世も一緒に」
「うむ、よく聞いて合わせて」藤川は努めて優しくサニに言った。
「は、はい……」
サニが渋々、ビオラを構え直すと、藤川のアインザッツでカミラが指摘した箇所を真世、藤川、サニの三人が演奏し直す。
やはりハーモニーが揃っていない。
「……ほら、そこ!」カミラが空かさず指摘する。三人は、その声に演奏を止めた。
「えっ……だって……チェロが低いから……」慌てて言い訳するサニ。藤川は、困惑し、眉を寄せる。
「いいえ、チェロはピアノと合ってる」
カミラは言い切った。
「あれ……じゃあ…………」
言いながらサニは、無造作に楽器を床に置くと、耳に手を当てた。
「……聞こえる……チェロじゃなかった……またあの音……」
唸る低音が、頭の中で鳴り響く。時折、ビートを刻むような音を伴いながら、より鮮明に聞こえ出したその音は、サニの全身を揺さぶり始めた。
サニが音に抗って耳を押さえつけるほど、音はサニの体の中で反響する。
「何……何なのよ! この音……嫌……嫌ぁあああ!」「サニ⁉︎」
急に取り乱し始めたサニに、皆は血相を変え、椅子から立ち上がっていた。
音が高揚するほど、サニの視界は歪んでゆく。
「やだ……止めて……何なのよ……嫌……」
「サニ‼︎」
耳を塞いだままのサニは、前のめりに椅子から崩れ落ち、そのまま床に倒れ込んだ。




