ヴィニフィカシオン 1
『苦しみも……悲しみも……ぜんぶ、飲み干してしまえば、それもまた旨みに変わります……さぁ……』
明子の姿をした存在を目の前に、古屋の魂は、何一つ抗うことなく、真っ黒な液体で満たされたグラスを受け取る。
「だ、だめだ! ……飲んじゃ……ダメだ……」直人は、声を絞り出していた。
『……? は、陽樹? ……』ブリッジ中央の、ホログラムの古屋は、ハッとして、あたりを見回す。
『……陽樹はもういない……惑わされては……いけない……』明子は、そう言いながらもう一つ、ワイングラスをどこからともなく取り出すと、今度は、瓦礫の中から流れ落ちている黒い液体をグラスに受ける。
『さぁ……よく見なさい。これが現実……』
満杯になったグラスを高く掲げ、明子は瓦礫の山に流し込む。すると、その流れ落ちたところが、灰色の世界を絶望の赤紫に染め上げ、愛しい息子の成れの果てを鮮やかに浮かび上がらせた。
『陽樹! あぁ、陽樹いいいい‼︎』
<アマテラス>ブリッジは、『PSI HAZARD』警報が鳴り止まない。
「サブリミナル、PSIバリアに浸透! システムに侵入してくるぞ‼︎」アランが声を張り上げる。
「同調率コントール!」カミラは咄嗟に命じた。
「だめだ、喰らい込んでる!」
『なんとかしてみます!』『亜夢も‼︎』
「お願い、アムネリア、亜夢! メインに近づけなければそれでいい!」『はい!』
<アマテラス>の二基の主機関の稼働音が高まる。<アマテラス>のPSI-Linkシステムを、魂のまま泳ぐアムネリア、亜夢が動き出した。
「各自、サブリミナルの干渉に備えて‼︎」カミラの指示に、皆、自身の意識に集中し、『黄金の女神』の囁きに、警戒する。
正面モニターに映る明子は、赤黒い血のワインが残るグラスを片手に、ゆっくりと近づいてくる。
『……拓斗さん……あなた、よく頑張ったわよ……』
ハッと顔を上げる古屋。明子は、血の池のようなワインで満たされた液面の上を、一歩、また一歩と、その液面を揺らすこともなく距離を縮めて立ち止まり、彼女のグラスを持つ手が、グッと迫る。そのグラスは、ブリッジ中央のホログラムに投影され、乾杯とばかりに、古屋の目線の高さで止まった。
『こうなったのは、貴方のせいじゃない。悪いのはぜんぶ、あの地震……どうしようもなかったのよ……』そう言って、微笑みかける明子の顔が、チリチリとチラつき始める。ホログラム投影機に入り込んだグラスを持つ手も同様に、像が乱れ始めた。
「サブリミナル侵入速度低下!」PSI-Linkシステムの状況をモニターで確認しながら、アランが声を上げる。
「いいぞぉ! 二人とも! そのまま追い出してやれ!」とティム。明子の像はさらにチラつきを見せ、彼女の顔の下から、鈍い黄金色の地肌が覗き始める。グラスを持つ手も同様に、チラつくたびに金粉のような光を撒き散らしていた。
「あれは⁉︎」IMCでは、東が目を見開いて声を上げる。
明子に隠れて、黄金色に浮かび上がる、無表情な女の顔。運命の女神フォルトゥーナ。IMCの一同も目を見張る。
「黄金の……女神……」藤川は、それを映し出す通信モニターに正対し、その像を睨めつけた。
明子の姿を借りた黄金の女神は、構わず囁き続ける。
『悪いのは、貴方じゃない……あの地震を起こした、PSIを使い続けるこの世界。憎むべきはIN-PSID……あなたは彼らを倒すため、立ち上がったじゃない……そんなあなたを、私は誇りに思うわ……』
「サブリミナルが、生きている……でも、どうして?」「マルドゥク・ウォールでサブリミナルは絶たれているんじゃないのか?」IMCで見守るアイリーンと田中は、焦りを滲ませている。
「……おそらく、今現在のサブリミナル、そのものではないのだろう。アル、<アマテラス>のPSIバリアのログはどうだ?」通信で繋がった地下の<アマテラス>メンテナンスエリア、コントロールルームのアルベルトに藤川は訊ねる。アルベルトは手速くログをIN-PSIDのメインデータベースに蓄積されたマルドゥク・ウォールのデータと照合して確認する。
『ご名答だ、コーゾー。ログを見る限り、マルドゥク・ウォールで今現在遮断されているパルスは、患者には届いていない。そいつは、おそらく、患者の深層心理と混ざり合った、残像のようなものだろう』
どうやら個人の無意識層に、深いPTSDのような強い情報場にサブリミナルが混ざり込むと、その元からあった情報とサブリミナルは混在して、その残像が残るのではないか、とアルベルトは推察する。
『だが、そいつは残像とはいえ、いわば無意識領域にダウンロードしてしまったウイルスのようなもんだ! 油断ならんぞ!』
アルベルトの推察が正しいとなると、たとえヴァーチャルネットに流れる『黄金の女神』のサブリミナルを止めることが叶ったとしても、深い悲しみや苦しみを背負った魂には、黄金の女神の残像が残り続ける可能性を示唆していた。
「もし、そうだとすれば……厄介ですね、所長……」「うむ……だが、今はとにかく、古屋氏だ。インナーノーツ、なんとか、その残像を除去してくれ!」
『え、ええ。ですが、このままでは!』カミラは、未だ侵入してくるサブリミナルの残像に、有効な手立てを見出せないでいる。
『いっそ、PSIブラスターで、あの女神をぶっ飛ばせば!』ティムが叫ぶ。『いや、だめだ! エネルギーが全く供給されない! 患者が亡き妻と認識している以上、ブラスターでは撃てない!』アランが状況を確認しながら答える。打てる手がなかった。
カミラの目の前のホログラムの古屋は、手にしたワイングラスを持つ手を震わせ、妻の姿をしたそのものと、息子の亡骸が閉じ込められた瓦礫の山、そして手の内にあるワイングラスの真っ黒な液面を、何度も見比べている。
「……そうだ……そうだよ……」困惑と苦悩に歪んだ古屋を見かね、早瀬はまた立ち上がって、声を上げる。
「あんたの奥さん、いや、黄金の女神の言う通りさ! 古屋さん、そいつを飲んで、女神に従うんだ! そいつは、あんたの腹の底にしまい込んだ、怒りと憎しみのワインなんだろ‼︎ 自分を傷つけるくらいなら! 飲んで思い出してくれ!」
早瀬は、東の制止を振り切り、古屋の眠る収容保護カプセルを眼下に見る、真世の席の脇に立つと、カプセルに向けて叫んだ。
「あんた! あんなにPSIを憎んでたじゃないか‼︎ あの地震を起こした連中を‼︎ 恨んでたじゃないか‼︎ 俺たちは、そうやって、憎しみを支えに、生きてきたんじゃなかったのか‼︎」早瀬の叫びは、IMCの皆の顔を曇らせる。
「憎しみを……支えに……くっ……」カミラは唇を噛む。
「や、やめて‼︎ 何言ってるのよ!」真世が抗議するも、早瀬は構わず叫び続けた。
「さあ、飲むんだ‼︎ 飲んでくれ‼︎ そして、こいつらに、あんたの怒りをぶつけてやれ‼︎」
妻の姿と黄金の女神の姿——交互にチラつきを繰り返す『その者』は薄く笑みを浮かべると、手にした息子の血を汲んだワイングラスを自らの口にそっと運び、それを一口、二口と飲む。
呆然と見つめる古屋のホログラムは、釣られるようにして、手にしたワイングラスをゆっくりと口に運んでゆく。
皆が、古屋の動向に目を奪われる中、直人は一人、PSI-Linkモジュールにそっと手を置いた。




