守るべきもの 7
医局の出入口ドアの前で振り返った真世は、神取に向かって会釈する。
「ありがとう……ございます、先生。話、聞いてもらえて……少し、楽になりました」
「そうですか。お役に立てたのなら、良かったです」
「……それじゃ、失礼します」真世は、もう一度、軽く会釈して、ドアノブに手をかけた。
「あまり……思い詰めないように……」「……はい」
ドアを開け、真世は医局を出る。閉まるドアを神取は、静かに見守っていた。すると、真世の去ったドアに、その後ろ姿を残したような影が、じわりと滲み出てる。次第にそれは、艶やかな長い黒髪、白い水干、緋色の袴、白鞘巻きの太刀へと形を変えてゆく。その姿は、神取の他は、肉眼で捉えることはできない。
……彩女か。何故、離れた? ……
姿を現した彩女は、神取に背を向けたまま、袖口を目元に当て、肩を振るわせる。
……嗚呼、わたし……もう……どうしたら……旦那様ぁ……およよ……およよよ…………って! ……知りよるか‼︎ ど阿呆‼︎ ……
ドアの向こうに向かって悪態をつく。
……止めんか、彩女……
冷たく言い放ち、神取は自分の机に向かって、端末のモニターを立ち上げた。
……旦那様も旦那様ですわ! よりによって、あんな女の話などと‼︎ ……きぃいいい‼︎ ……
彩女は、一瞬のうちに、神取の背後に移動し、その肩に縋り付く。
……あの娘は、大切な『器』だ。内情を聞いたまでのこと……
……それは、あの女に取り憑いている妾にお訊ねになれば済むこと! 直に口をきくなど! 妾は認めませぬぅううう! ……
……騒々しい……なれば、さっさと戻れ……あの娘、父親が現れたことで、著しく動揺している……これは使えるぞ……
……ふん……旦那様はいつもそう……あの娘には甘い……本当はもっと良き手があること……旦那様も、とうにわかっておられますのに……
白檀の仄かな香りが、神取の嗅覚をくすぐる。彩女は、神取の肩に両腕を回し、背後からべったりと抱きついてきた。
……あの母御を、亡きものになさいませ……そうすれば、あの女の魂など、意図も容易く……
……黙れ! ……
神取の昂りが、彩女に電撃のようになって襲いかかる。嬌声と悲鳴と共に、堪らず彩女は、神取から離れ、再び出入口付近に現れる。
……ひぃいい……はぁああ……アゥぅんん……
身悶えする彩女を、立ち上がった神取の眼光が突き刺す。
……急すぎる衝撃は、器を壊しかねない! そう言うたであろう! それとも、この私のやり方に、其方は従えぬと申すか⁉︎ ……
……い……いえぇ! 滅相もございませぬぅ……
咄嗟に土下座して見せる彩女。神取は彩女に近づき、上から見下ろす。
……よいか。あの母親への手出し、一切無用! 其方は、これまでどおり、あの娘の動揺を揺さぶれ! ……
……さ、されども……揺さぶり程度では……あの娘……ああ見えて、芯が座っており……魂を遊離させるのに、手を焼いておりまして……そ、それにあの母御……どの道、先が短いことは旦那様も見抜いて……
……見苦しいぞ、彩女! ……戯言はもういい。すぐに戻れ! ……
彩女は、ゆらりと立ち上がり、肩を落としてドアの方へと向く。
……旦那様……
彩女は背を向けたまま、呟く。
……なんだ? ……
……あの娘は所詮、器……深入りなさいませぬよう……
…………わかっている……行け……
彩女は、振り返ることなく、そっとドアをすり抜け消えて行った。
神取は彩女の去ったドアに背を預け、小さくため息をこぼす。ふと左手を広げ、掌に広げた光ディスプレイの中に写真を一つ、呼び出す。
藤棚を背に、凛と佇む和装の女性。その微笑に、どんな想いを乗せていたのか……
……母上……
神取は、胸の内で小さく呟き、左手の中に母の遺影を静かに包み込む。
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同刻。IN-PSID EU支部、ユグドラシル管理観測センター(元<ノルン>コントロール・コア)——
『……先程、ローマ法王が声明を発表し、カトリック教会は、『黄金の女神』を神性を容認。信徒の女神への信仰を、事実上、認めることとなりました。個々の宗教を超えた女神への祈りが、世界的な潮流になりつつある昨今の情勢を鑑み……』『イスラム宗派間の諍いが絶えない、中東バビロニアブロックでは、政府が『黄金の女神』を国教の柱とする方針を打ち出し、各宗代表者会議を近く……』『一方、IN-PSIDへの不信は、日に日に増しており、特に、二十年前の世界同時多発地震の発端となった、水織川研究所を前身とする日本本部への疑心が世界的にも広がっています。その対応として、国連では、近く……』
球形の壁面に、いくつも投影された映像が、世界各地の黄金の女神、そしてIN-PSIDを巡る情勢を伝えている。EU支部長、ハンナは、その声を聞き流しながら、センター中央に浮かび上がる、ホログラム——幾重に枝分かれする大樹のような、時空間観測マッピング『ユグドラシル』を見上げる。
「これで……よかったのよね……ソフィア……」
呟くハンナ。大樹は何も答えない。センターの重いドアが開く音に続いて、堂々とした足取りの音が迫ってくる。
「ここにいたのか、ハンナ」低く太い声が呼びかけた。ハンナは返事をすることもなく、ユグドラシルを見上げ続けていた。
入室してきた大柄の恰幅の良い紳士、ウォーロックは、ゆっくりとハンナの隣へと足を進め、並んで立って、ユグドラシルを見上げた。
「……本意でないことは十分わかっている。だが、これで国連の顔も立つ。君たちにも最大限配慮したつもりだ……わかっては、もらえないか? ハンナ」
「……ウォーロック、あなたの判断は正しい。だからコウも受け入れた……」
二人は視線を合わせることなく、ユグドラシルが示す黄金の道筋、ソフィアが示した人類の最適解のルート、『クリティカル・パス』に光る光点を見つめている。光点は、『この世』の現時点座標を示しており、それは今まさに大きな分岐点の一歩手前で明滅していた。分岐の一方は、クリティカル・パスの続く枝、そしてもう一方の先は、枝が入り乱れ闇の中へと続いている。
「『ソフィアが見た未来に……『黄金の女神』はいるのかしらね……」
「それは……今となってはわからない……だが、この試練の先に必ず未来が拓ける。私はそう思う。……我らには、未来は見えぬ。ソフィアのようには……ならば今は、正しいと思える道を、ただ、真っ直ぐに進むほかないのだ」低く包み込むウォーロックの言葉が、ハンナを包み込む。
「……そうね…………ん、あれは……みて!」ハンナは目を丸めてユグドラシルの光点を指差す。
光点が、ぼんやりと雲のように広がりだしている。
「……う、動くのか? 我々の……運命が……」
ハンナとウォーロックは、瞬きも忘れ、身を固くして光点に注視する。
やがて光点の広がった雲は、激しい閃光を放ち、そしてまた一点へと収束してゆく。その位置は、大きな枝が二つに分かれた分岐点。ハンナとウォーロックは、目を丸めたまま息を呑む。
「……ハ、ハンナ……これは……」
「……ついに……来てしまった…………我々人類の……未来を賭けた選択の時が……」
次第に落ち着きを取り戻した光点は、ただゆっくりと明滅を繰り返していた。




