守るべきもの 6
『では、万事取り決めたとおりに。仔細は日本とEUの各部署担当者間で協議しつつ、速やかに権限移管を進めるように。各支部への今後の活動指示は、これから順次、EUから伝える。皆、よろしいかな』幹部会議の決定事項をウォーロックは、改めて確認する。藤川、そして各支部の代表者らは重く口を閉ざしたまま、それを受け入れる。
『世論の動向、テロ疑惑が終息するまで……しばらくの間だ。皆、思うところもあるだろうが、よろしく頼む』ウォーロックの言葉で、会議は閉じられる。
「……所長!」「やむを得まい……」苦々しく顔を顰める東を、藤川は首を振って嗜める。
——本部機能をEU支部に移し、EUをIN-PSID監督機関とする。「世論の批判を汲む姿勢を見せる」のだと、ウォーロックは言った。
特に二十年前の世界同時多発地震の火種となった水織川研究所を前身とするIN-PSID日本本部への風当たりは、今や『神の声』、『黄金の女神』の言う『大災厄を引き起こす巨悪』と重なり、世論のIN-PSIDへ向けられる疑念や、あらぬ憎しみを増幅し続けている。IN-PSID側としても、もはや世論に見える形で、身の証を示すしかない。ウォーロックの考えに反対できるものはいなかった。
EU支部は、日本本部とほぼ同時期に、元々は本部を置くことを想定して設立した。PSI特性災害、PSIシンドロームの深刻度から最終的に本部を日本に置くこととなったが、二拠点はほぼ同じコンセプトで設計され、EU支部には、本部として稼働できる設備、機能は整っている。
幸い、EU支部は、二十年前の地中海沿岸震災の復興に尽力した、EUの学識団体が前身であると世界的に認知されており、信頼も高い。また、国連との繋がりも強く、国連からの査察団を受け入れるという形ならば、世論の批判も和らぐはずだと、ウォーロックは述べた。EU支部長ハンナの説得もあり、藤川は、その提案を受け入れた。
その上で、藤川は本部機能移管の受け入れ条件を提示する。一つはカウンター結界『マルドゥク・ウォール』の継続、そしてもう一つは、<アマテラス>とインナーノーツ運用の継続だ。
こうしている間にもPSID(PSI特性災害)やPSIシンドロームの危険性はある。現象界にも直接影響できる<リーベルタース>はともかく、<アマテラス>、および他の支部のPSIクラフトは軍事への転用はできるようなものではなく、災害防止、人命救助の観点から活動を継続できるよう、各国に説得して欲しいと訴えた。
さらに藤川は、各拠点の職員、および関係者の安全を確保できるよう、各ブロック政府への働きかけも要求する。ウォーロックは、その申し出を条件付きにはなるだろうが(EU暫定本部と各国政府の承認の元、PSIクラフトの運行を許可できるように)計らうと、返答した——
「我々の要求は、どこまで受け入れてもらえるのでしょうね……」東は、項垂れたまま呟く。
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グラスに波打つワインは、深い赤味を帯び、取り出したばかりの血液のようにも見える。狭いレストランの中で、グラスは次々と手渡しで配られていく。待ちきれない客達は、ワインで満たされたデキャンタから順にグラスに注ぎ始め、もう飲み始める気満々だ。
古屋は、皆に行き渡る分のボトル八本を空け終わり、ホッとしながら自身のグラスにもデキャンタからワインを注ぐ。澱は十分取り除けたし、色や香りも悪くなさそうだ。一応、テイスティングをしようとグラスを口に近づけた時、友恵が古屋に挨拶を促し、古屋を皆の前に立たせる。
「っと、友恵さん。挨拶なんて……僕は……」
「いいから、いいから」友恵の満面の笑みの圧力には敵わない。古屋は渋々、口を開いた。
「え、あ、あの……きょ、今日は皆、集まってくれてありがとう。いや、正直、驚いたけど……」レストランに温かな笑いが響く。
「……このワインはね。あの二十年前の震災の少し前に、妻と息子と作って……樽詰めまで、一緒にした思い出のワインなんだ……二十年……そう、息子、陽樹が四〇になる頃に開けようと約束していた……」皆、はっと息を飲む。
「い、いいのかい? そんな大事なワインを、私たちと……」増田は申し訳なさそうな表情を作って言う。
「いいんだ、いいんだ」古屋はにこやかに微笑む。
「陽樹も……明子も、もういない…………むしろ、今日、皆と飲むために、こうやって残してきたのかもと、思ってるよ」古屋の言葉に、皆、柔らかな笑みを浮かべる。
「さぁ、飲んでくれ! そして、明日からのデモ! きっと、成功させよう‼︎ 乾杯‼︎」
グラスを高く掲げた古屋の発声に、皆、乾杯を唱和し、グラスに口をつける。古屋もまた、皆に続いて、ワインを口に含む。
流れ込んでくるワインの香り、渋み……
皆の和やかな笑みが次第に、曇っていく。一人、また一人とグラスを静かに下ろす。
渋みを通り越して苦い。そして喉を抜けた後には、華やぎもないただの酢えた匂い……酒というより、もはやビネガーだ。
まずい、明らかにまずい……
レストランに重い沈黙が訪れる。
「……ふふ……ふは……ふはははは‼︎」乾いた古屋の笑いが沈黙を破る。
「ふ、古屋さん……」恐る恐る、友恵が呼びかけるが、古屋は奇妙な笑いを立て呆然とするばかり。やがて古屋は、ワイングラスをもう一度口に押し付け、がぶ飲みを始めた。
「古屋くん‼︎」「や、やめてください!」増田と笹原が止めに入り、古屋は半分ほど飲んだところで、グラスを口から離した。
「はぁ……はぁ‼︎ ……まずい‼︎ なんだ、なんなんだ、これは‼︎ ……ふふ、僕の二十年……ふん、しょせん、こんなものか‼︎」腹の底で熱くなるものを吐き出すように喚き散らして、古屋はワインの残ったグラスを床に叩きつけた。グラスが割れ、破片と赤黒い液体が飛散するのを、皆咄嗟に避ける。
肩を震わし、呼吸を荒げる古屋に皆、かける言葉もない。
巨悪が世界を壊す、私を信じろ……女神の言葉が、酒に焼け、ひりつく喉を遡り、古屋の口から溢れ出す。
「悪を……滅ぼす! 貴女を……信じる……」古屋は、ふらりとしながらかがみ込み、割れたワイングラスの破片を拾い、それで溢れたワインを掬って左手に乗せた。
「や、やめて。危ないわよ……」「ぼ、僕たちが片付けますから」友恵が呼びかけ、笹原と梅沢が進み出る。彼らの言葉に、古屋は何も答えず、唐突に破片を乗せた左手を握りしめた。
「ふ、古屋さん!」「何やってるんすか‼︎」慌てた皆が古屋にその行為を止めようと、古屋に取り付く。
古屋の左手から滴り落ちる血が、床に広がったワインと混じり合う。
「くっ……この悲しみ、この怒り、この憎しみ‼︎ 全て、女神と、お前たちに捧げる……お父さん、お前たちの仇をとるからな……」
古屋はかがみ込んだまま、痩せ細った肩を小さく震わせていた。




