さようなら、ゾルドの街
「じ、ジルグさん……」
私の声を聞いた青年は小さく頷く。何に対しての頷きなのかは分からない。
彼はゆっくり、ゆっくりと歩みを進めてきた。白い息が青く光る。
その目は一瞬たりともブレず、私のことを真正面から見返している。強い視線につい怖気づいてしまい、私は一歩、また一歩と下がる。その結果、イダテンコに尻をぶつけてしまった。
「ご、ごめん、テンコ……す、すみません、ジルグさん。予定のこと、もっと早く言っておけば良かったですよね……その、私、本当に考えなしです……」
「気にしないでください。もう終わったことですから」
ぎこちなく笑うジルグ。その無理して作ったような笑顔を見てると、彼の好意に全く気がつかなかったことへの罪悪感がむくむくと膨れ上がっていく。
「ほほほ、本当にごめんなさい! 私の方から気づくべきだったのに!」
思い切って私は深々と頭を下げた。というよりは、ジルグの視線に耐えられなくなった、という方が正しいかもしれない。それくらい彼の眼力が強かったのだ。
「貴女が悪いことをしたわけではないのですから。どうかその顔を上げてくださいませんか」
ジルグの手が左の肩口あたりに当たる。ヴリードのいやらしい手とは違い、彼の場合は付かず離れずの微妙な位置で迷うように揺れていた。
「うう、で、でも……私は、あなたの気持ちに全然気づかず、三ヶ月も過ごしていたんです……その、なんていうか、恥ずかしくって顔を上げられません……」
「そ、そうでしたか……」
彼の手が肩から離れた。うう、もっと気のいい言葉があるだろうに、私はどうしてこう口下手で考えなしなのか。恥じ入るばかりである。
と、目の前の気配が沈んだ。
視線の先で彼の赤い目が光る。
「すみません。こちらから目線を合わせるべきでしたね」
うわー、うわわー、そう来たかあーっ! 自ら屈んで目線を合わせてくるなんてなんて強引なんだこの青年!
まさかここまで私に入れ込んでいるなんて予想外だった。もっと軽い、淡い恋心くらいかと思っていたのに。彼が私を相当意識しているのは最早疑いようがない事実だ。なぜこれ程の想いに今まで気がつけなかったのだろう。
「そっ、そそ、そんなことしなくてもいいですよ! 立ってください、ほら!」
杖を地面に突き立て右手を自由にし、ジルグの手を取って立たせる。彼の手は緊張のためか僅かに震えていた。相当思いつめているであろうことがその手を通して伝わってくる。
……よし、いい加減正直に言ってしまおう。
彼の気持ちをバッサリ切ることになるだろうが、このまま旅立てば彼が恋焦がれて焼け落ちるのは明白だ。
まず考えるべきはこれからの未来。ジルグへの思いをここで表明しておくことはとても大切なことである。それが例え彼の気持ちを傷つけることになっても。
「あの……ジルグさん。聞いてください」
手を取ったまま真剣な眼差しを送る。最初ジルグは微笑んでいたが、私の雰囲気に感化されたか真顔になった。
その顔立ち、やはり精悍。私がちょっとでも思いを寄せていたら一発で落ちていただろう。
「私が貴方の気持ちに応えることはできません。例えもっと長くこの街に居たとしてもです。ごめんなさい」
ああ、言い過ぎてしまったか。ジルグの目が点になった様を見て、私は心底後悔した。心の中で罪悪感が騒ぎ出す。
「あ、いや、あのっ! すみません! もっと何か言い方が……」
「いえ……リエル=トルフさん。はっきり言って貰った方がありがたい」
口元は笑みを湛えているが、その目は悲しげに伏せられている。その態度を視界へ留めていられず、私は助けを求めるようにイダテンコへ視線を向けた。
もちろん、イダテンコが出せる助け舟などない。むしろ、私のやったことは、既に伝播していた気まずさを更に助長しただけだ。
「リエルお姉ちゃん大丈夫ー? まだかかりそー?」
「いや、うん、ごめんねこんな会話見せちゃって……もうちょっとかかるから、先にあの山の麓まで行っちゃってても大丈夫だよ」
「う、うん分かった。じゃあ、ちょっと離れて見てるね!」
イダテンコは駆け出した。あっという間に彼女の後ろ姿は点になる。それを見送った後、再びジルグと対面する。
「本当にごめんなさい、ジルグさん……あ、あはは、謝ってばかりですね、私」
「それは私も同じですよ、リエル=トルフさん」
彼は僅かに髭のある顎を撫でながら、居心地の悪さを振り払うように体を揺らし足踏みする。常に浮かべていた微笑みは僅かに崩れ、苦々しげなシワが口元に寄っていた。
その苦しい表情に私の心は揺らぎかけたが、慌ててその思いを振り払う。
彼は優しい。容姿も良い。リーダーシップもある。地位だってある。
だからこそ、単に依頼に応えて通りすぎるだけの私たちなんかに恋をしてはダメなんだ。彼はこのゾルドの街に必要な人間なんだ。彼が折れることがあってはならない。毅然とした態度を示し続けなければ。
「ジルグさん。心苦しいでしょうが、どうか分かってください」
「……もちろんですとも」
彼の心血を絞り出すような、精一杯の声だった。その表出した辛さが私の心にざくざくと突き刺さる。
「私も……いえ、僕も分かっているんです。気持ち悪いですよね、貴女を僕の亡き母に見立てていたなんて」
「そうですね……」
ん?
「えっ」
「え?」
私たち二人は同時に互いの顔を見合わせた。
「あああ、あの、ジルグさん? 貴方、私の事がその、好きとか……そういう感じの態度じゃありませんでしたか?」
ぱち、ぱち、と目を瞬かせるジルグ。
「好き、ですけど……その、母を想うような形で……」
「異性として、ではなく?」
「いえ?」
顔に熱が篭っていくのが分かる。今私、絶対顔が赤くなっている。今までとは別の後悔が私の心を急速に埋め尽くしていった。
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「ご、ご、ごめんなさいっ……早とちり、早とちりで……」
「いっ、いえ、あの、思わせぶりな態度をした僕が悪いんです……」
互いに何度目か分からない謝罪の言葉を交わす。
今、ここのどこかに穴が空いていたならば、私はそこに埋まって二度と顔を出さなかっただろう。それくらい恥ずかしい事態であった。
まさか、異性として好かれていると勘違いする日が私にくるなんて!
「大工たちを率いる立場を長く務めていたものですから、今更亡くなった母に甘えてみたいだなんてこと、絶対に言えなかったんです……本当に申し訳ない」
しおらしい態度で謝り続けるジルグ。今までの好青年っぷりは何処へやら、今の彼はまるで年下の少年のようである。
「あの、私、何かお母様と似通ったような部分ありましたか? この通り左目は潰れてるし、左腕もないし、ジルグさんのお母様と似ているとはとても……」
「母はずっと北側で住んでおりました」
ジルグの表情は少し真剣なそれに変わる。
「亡くなったのはもう十年近く前のことですが……リエル=トルフさんがああして北側から現れたとき、まるで母が戻ってきたような感覚を覚えたんです」
彼の母は誰かを支持する立場だったのか? 私は静かに耳を傾け続ける。
「僕の記憶に残っている母は、とても気弱でした。いつも誰かに頭を下げていて、いつも狭そうに肩を狭めていて。でも、僕の為なら誰に対しても体を張る。そんな人だったんです」
それを聞いて私はげんなりする。
つまり、神殿の前で喋っていた時の私はそう見えていたということじゃないか。やっぱり慣れないことはするものじゃないな、と小さく溜息を吐いた。
「き、気を悪くしたなら謝ります」
「うえ!? いやいや! これは私の不甲斐なさに対するもので……!」
「そ、そうですか……?」
私の顔色を伺うように、恐る恐る覗き見るジルグ。私は咳払いをして、虚勢のために胸を張る。
「大丈夫です!」
「あ、はい」
また訳のわからない行動を取ってしまった気がする。だが、ジルグは気にせず咳払い一つして話を再開した。
「多くの人々を相手に、貴女がその傷ついた体で懸命に喋っていた時、確かに僕の目には母が映っていました。だから、ああして僕は飛び出す事が出来たんです」
「は、はあ」
私は恥ずかしくなってきて視線を落とした。
多分、また顔が赤くなっていることだろう。
「三ヶ月間、貴女を見かけるたびに僕は懐かしさと安心感を覚えていました。それと少しの寂しさも。だから、神官様から貴女の旅立ちを知らされた時、大きなショックを受けました」
私は何も言わず、顔を下に向けたまま小さく頷くだけ。
「そして、僕はどうしても一つ貴女にして貰いたいことがあったんです。今までずっと言えなかったことです」
なんだろう。やっと私は顔を上げた。ジルグの真剣な表情が私の目を見ている。青い月光に照らされ、彼の瞳が輝いたように見えた。
「一度でいいんです。抱きしめてくれませんか、僕のことを」
「え……そんなことで良いんですか?」
「勿論です。それ以上は求めません」
まあ、それくらないなら良いか。別に減るものもないし、時間もかからない。
少し屈んだジルグのことを、右手で軽く抱きしめる。召喚され師は力が強いから要注意だ。骨をへし折ったら絶対トラウマになる。
彼の顔は私の右肩辺りに来た。彼のことを抱きしめた瞬間、息が少々詰まったような音に変わった。そして、すぐ平常の息遣いに戻る。緊張が解けて安心したのだろう。彼の衣服から漂う草っぽい匂いが鼻をくすぐった。
そんな状態がしばらく続く。ローブを通して、ジルグの暖かさが伝わってきた。
互いに何も言わないし、周囲では時おり吹き抜ける風の音以外何もしない。
あ、雪だ。
薄い雲でぼやけたリング状の月。門から降り注ぐ青い光。そして、チラつき始めた粉雪。それだけが強く印象に残った。
「ありがとうございました」
不意にジルグが顔を上げた。そこには微笑みが戻っている。寒さで顔が少し赤らんでいた。
「もう良いんですか? もうちょっとなら大丈夫ですけど」
「平気です。僕ももう十五ですからね。大人にならなくては」
「は?」
私より五歳年下? どう見ても成人男性なのに!
驚いた表情のまま固まっていると、訝しげな表情のジルグが問うた。
「どうしました?」
「い、いえっ! 大丈夫ですっ! もうテンコに追いつかなくてはいけないので! それでは!」
私は杖を手に取り、大急ぎで山岳へと歩き始めた。背後からジルグの快活な声が響く。
「さようなら、リエル=トルフさん! 次に貴女方が来るその日までに、きっと良い街にしてみせますからね!」
振り返ると、彼の満面の笑みが目に入った。もう心配する必要はないだろう。私も精一杯の笑顔を返す。
「た、楽しみにしてます、ジルグさん! 風邪ひかないよう注意してください! また会いましょう!」
小走りで不毛の荒野を駆ける。涼しげな月の光が心地よかった。




