表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
合鍵を断った三日後、彼の転勤を知った  作者: ちょこまろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/5

第4話 東京駅で、私はようやく本音を言った

大阪行きが正式に決まった直人。

佳乃は「頑張って」と返信しながら、本当はトイレの個室で泣いていました。


物分かりのいい恋人でいようとするほど、心は置き去りになっていく。

そして迎える、東京駅での待ち合わせ。


新幹線の改札前で、佳乃はようやく本音を口にします。

 翌朝、直人は大阪行きを承諾した。


 メッセージは昼前に届いた。


『大阪、正式に決まった』


 私はその画面を、会社のトイレの個室で見た。


 しばらく動けなかった。


 直人は夢を選んだ。


 直人は前に進んだ。


 それは喜ぶべきことだ。


 わかっていた。


 わかっているのに、胸の奥は空っぽになった。


 私は返信した。


『決まったんだね。頑張って』


 送信してから、便座に座ったまま泣いた。


 声を出さないように、口元を手で押さえた。


 頑張って。


 また私は、物分かりのいい言葉を選んだ。


 本当は、寂しい。


 本当は、怖い。


 本当は、行かないでと言いたい。


 でも、送れなかった。


     *


 翌週は、長かった。


 直人からは数回メッセージが来た。


『引き継ぎでバタバタしてる』


『金曜、二十時でいい?』


『東京駅でもいいかな。新幹線の切符を受け取る用事がある』


 私は全部、物分かりのいい返事をした。


『無理しないでね』


『大丈夫だよ』


『東京駅でいいよ』


 また嘘を重ねた。


 金曜の午後、私は大型案件の最終確認で慌ただしかった。


 けれど頭の半分は、直人のことでいっぱいだった。


 今夜会う。


 大阪へ行く前日。


 もしかしたら最後になるかもしれない。


 そう思うたびに、指先が冷たくなった。


 夕方、真由が私のデスクに来た。


「三嶋さん」


「何?」


「今日、早く帰ってください」


「え?」


「この前の修正、私が見ます。チェック表も作りました。営業さんへの共有も済ませました」


「でも」


「三嶋さん、ずっと顔色悪いです」


 真由はまっすぐ私を見た。


「私、この前三嶋さんに守ってもらいました。だから今日は、少しくらい返させてください」


 胸が熱くなった。


 頼るのは苦手だ。


 でも、頼らせてもらうことも、受け取ることなのかもしれない。


「……じゃあ、お願いしていい?」


 真由はぱっと笑った。


「はい!」


「何かあったらすぐ電話して」


「わかりました」


 私は十九時前に会社を出た。


 待ち合わせは、東京駅の改札近く。


 直人は引き継ぎのあと、そのまま新幹線の切符を受け取りに行くと言っていた。


 雨は降っていなかった。


 でも空は重く、今にも崩れそうだった。


 東京駅は人であふれていた。


 週末の夜。


 スーツケースを引く人。


 土産袋を抱えた人。


 急ぎ足の会社員。


 その中に、直人はいた。


 黒いコート。


 足元には小さなキャリーケース。


 それを見た瞬間、胸が詰まった。


 本当に行くのだ。


「佳乃」


 直人が私に気づいた。


「お疲れ」


「お疲れ」


 いつもの言葉なのに、今日はやけに遠かった。


「ご飯、どこか入る?」


 直人が言った。


 私は頷きかけて、止まった。


 ここでまた普通に食事をして、普通に話して、普通に別れたら。


 私はまた何も言えないまま終わる。


 平気な顔で彼を見送る。


 そして後で一人で泣く。


 それがわかった。


「直人」


「うん」


「新幹線の改札まで、行ってもいい?」


 直人は少し驚いた顔をした。


「まだ時間あるけど」


「うん。でも、そこまで一緒に行きたい」


「わかった」


 私たちは並んで歩いた。


 東京駅の中は、人の流れが絶えなかった。


 電光掲示板には、いくつもの行き先が並んでいる。


 新大阪。


 京都。


 名古屋。


 博多。


 その文字を見るたびに、直人が遠くなる気がした。


 新幹線の改札が見えた。


 その瞬間、足が止まった。


「佳乃?」


 直人が振り返る。


 ここを通ったら、直人は行ってしまう。


 明日には、大阪の人になる。


 私の知らない生活が始まる。


 私はまた、物分かりのいい顔で手を振るのか。


 また笑って、平気だと言うのか。


 嫌だった。


 もう嫌だった。


「直人」


「うん」


「私、本当はずっと言いたかったことがある」


 声が震えた。


 でも、止まらなかった。


「合鍵が怖かったんじゃない」


 直人が私を見る。


「直人の生活に入ったあと、いなくなられるのが怖かった」


 言った瞬間、胸の奥が痛んだ。


「でも、いなくなる前から逃げるほうが、もっと痛かった」


 直人は何も言わなかった。


 周囲では、人が流れ続けている。


 誰かのキャリーケースの音。


 改札を通る電子音。


 発車時刻を告げるアナウンス。


 その全部の中で、私はようやく自分の本音を口にした。


「直人が大阪に行くって聞いた時、平気なふりをした。頑張ってって言った。無理しないでって言った。でも本当は、行かないでって言いたかった」


 涙が出た。


「でも、そんなこと言ったら重いと思われるって思った。直人の仕事を邪魔するって思った。だから言えなかった」


「佳乃」


「でも、言わなかったら、私はまた同じことをする」


 私は涙を拭いた。


「好きなのに、受け取らない。寂しいのに、平気なふりをする。怖いのに、笑って逃げる」


 直人の顔が滲んだ。


「もう、それをやめたい」


 直人は静かに私を見ていた。


 私はバッグの中から、小さなものを取り出した。


 青い花のキーホルダーだった。


 透明なアクリルの中に、小さな青い花が閉じ込められている。


 昼休みに、会社の近くの雑貨屋で買ったものだ。


「何、それ」


「鍵につけようと思って」


 直人の表情が変わった。


 私は手のひらにキーホルダーを乗せたまま言った。


「あの鍵、まだ持ってる?」


 直人はしばらく黙っていた。


 それから、コートの内ポケットから財布を取り出した。


 小さな銀色の鍵を、私の手のひらに置いた。


 冷たかった。


 あの日、私が受け取れなかった鍵。


 直人の勇気。


 私が茶化してしまった未来。


 私はその鍵に、青い花のキーホルダーをつけた。


 指先が震えて、少し時間がかかった。


 それでも、つけた。


「すぐに全部うまくできるわけじゃないと思う」


 私は鍵を握った。


「大阪に行く直人を笑って送り出せるほど、私は強くない」


「うん」


「遠距離になったら不安になると思う。連絡が遅いだけで、勝手に怖くなる日もあると思う」


「うん」


「でも、その時は、平気なふりをするんじゃなくて、怖いって言いたい」


 直人の目が、少し赤く見えた。


「会いたい時は、会いたいって言いたい。寂しい時は、寂しいって言いたい。直人にも、そう言ってほしい」


 私は深く息を吸った。


「だから」


 声が震えた。


「大阪に行っても、私と別れないでほしい」


 言った。


 言ってしまった。


 重いかもしれない。


 困らせるかもしれない。


 でも、これが私の本音だった。


 直人は長い間、黙っていた。


 その沈黙が怖くて、私は鍵を握りしめた。


 やがて直人が、ゆっくり口を開いた。


「俺も、怖かった」


 私は顔を上げた。


「佳乃に未来の話をしたら、また笑ってかわされるんじゃないかって思った」


「うん」


「大阪に行くって言ったら、佳乃はきっと“頑張って”って言うんだろうなって思った」


 直人は少しだけ苦笑した。


「実際、言ったし」


「ごめん」


「でも、本当は止めてほしかったわけじゃない」


 直人は私の手の中の鍵を見た。


「ただ、寂しいって言ってほしかった」


 涙がまた落ちた。


「俺も、寂しいよ」


 直人の声が、少しだけ震えた。


「大阪に行くのは仕事として必要だと思ってる。やりたかった仕事でもある。でも、佳乃と離れるのは寂しい。不安もある」


「うん」


「でも、別れたいとは思ってない」


 その一言で、私は息を止めた。


「本当?」


「本当」


 直人は静かに笑った。


「むしろ、今日佳乃が何も言わなかったら、俺は諦めようとしてた」


「諦める?」


「佳乃は俺との未来を望んでないんだって」


 胸が痛んだ。


 ぎりぎりだったのだ。


 私がまた平気なふりをしていたら、直人は私を手放そうとしていた。


 私は、失う寸前でようやく走った。


「間に合った?」


 自分でも情けない声だった。


 直人は一歩近づいた。


「間に合った」


 その言葉に、膝から力が抜けそうになった。


第4話では、佳乃が初めて「行かないでと言いたかった」「別れないでほしい」と、自分の本音を直人に伝えました。


合鍵は、直人の部屋に入るためだけのものではなく、佳乃が自分の心を閉じきらないための鍵でもあります。


次話で完結です。

二人が遠距離の始まりを、終わりではなく次の約束に変えられるのか、見届けていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ