第4話 東京駅で、私はようやく本音を言った
大阪行きが正式に決まった直人。
佳乃は「頑張って」と返信しながら、本当はトイレの個室で泣いていました。
物分かりのいい恋人でいようとするほど、心は置き去りになっていく。
そして迎える、東京駅での待ち合わせ。
新幹線の改札前で、佳乃はようやく本音を口にします。
翌朝、直人は大阪行きを承諾した。
メッセージは昼前に届いた。
『大阪、正式に決まった』
私はその画面を、会社のトイレの個室で見た。
しばらく動けなかった。
直人は夢を選んだ。
直人は前に進んだ。
それは喜ぶべきことだ。
わかっていた。
わかっているのに、胸の奥は空っぽになった。
私は返信した。
『決まったんだね。頑張って』
送信してから、便座に座ったまま泣いた。
声を出さないように、口元を手で押さえた。
頑張って。
また私は、物分かりのいい言葉を選んだ。
本当は、寂しい。
本当は、怖い。
本当は、行かないでと言いたい。
でも、送れなかった。
*
翌週は、長かった。
直人からは数回メッセージが来た。
『引き継ぎでバタバタしてる』
『金曜、二十時でいい?』
『東京駅でもいいかな。新幹線の切符を受け取る用事がある』
私は全部、物分かりのいい返事をした。
『無理しないでね』
『大丈夫だよ』
『東京駅でいいよ』
また嘘を重ねた。
金曜の午後、私は大型案件の最終確認で慌ただしかった。
けれど頭の半分は、直人のことでいっぱいだった。
今夜会う。
大阪へ行く前日。
もしかしたら最後になるかもしれない。
そう思うたびに、指先が冷たくなった。
夕方、真由が私のデスクに来た。
「三嶋さん」
「何?」
「今日、早く帰ってください」
「え?」
「この前の修正、私が見ます。チェック表も作りました。営業さんへの共有も済ませました」
「でも」
「三嶋さん、ずっと顔色悪いです」
真由はまっすぐ私を見た。
「私、この前三嶋さんに守ってもらいました。だから今日は、少しくらい返させてください」
胸が熱くなった。
頼るのは苦手だ。
でも、頼らせてもらうことも、受け取ることなのかもしれない。
「……じゃあ、お願いしていい?」
真由はぱっと笑った。
「はい!」
「何かあったらすぐ電話して」
「わかりました」
私は十九時前に会社を出た。
待ち合わせは、東京駅の改札近く。
直人は引き継ぎのあと、そのまま新幹線の切符を受け取りに行くと言っていた。
雨は降っていなかった。
でも空は重く、今にも崩れそうだった。
東京駅は人であふれていた。
週末の夜。
スーツケースを引く人。
土産袋を抱えた人。
急ぎ足の会社員。
その中に、直人はいた。
黒いコート。
足元には小さなキャリーケース。
それを見た瞬間、胸が詰まった。
本当に行くのだ。
「佳乃」
直人が私に気づいた。
「お疲れ」
「お疲れ」
いつもの言葉なのに、今日はやけに遠かった。
「ご飯、どこか入る?」
直人が言った。
私は頷きかけて、止まった。
ここでまた普通に食事をして、普通に話して、普通に別れたら。
私はまた何も言えないまま終わる。
平気な顔で彼を見送る。
そして後で一人で泣く。
それがわかった。
「直人」
「うん」
「新幹線の改札まで、行ってもいい?」
直人は少し驚いた顔をした。
「まだ時間あるけど」
「うん。でも、そこまで一緒に行きたい」
「わかった」
私たちは並んで歩いた。
東京駅の中は、人の流れが絶えなかった。
電光掲示板には、いくつもの行き先が並んでいる。
新大阪。
京都。
名古屋。
博多。
その文字を見るたびに、直人が遠くなる気がした。
新幹線の改札が見えた。
その瞬間、足が止まった。
「佳乃?」
直人が振り返る。
ここを通ったら、直人は行ってしまう。
明日には、大阪の人になる。
私の知らない生活が始まる。
私はまた、物分かりのいい顔で手を振るのか。
また笑って、平気だと言うのか。
嫌だった。
もう嫌だった。
「直人」
「うん」
「私、本当はずっと言いたかったことがある」
声が震えた。
でも、止まらなかった。
「合鍵が怖かったんじゃない」
直人が私を見る。
「直人の生活に入ったあと、いなくなられるのが怖かった」
言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
「でも、いなくなる前から逃げるほうが、もっと痛かった」
直人は何も言わなかった。
周囲では、人が流れ続けている。
誰かのキャリーケースの音。
改札を通る電子音。
発車時刻を告げるアナウンス。
その全部の中で、私はようやく自分の本音を口にした。
「直人が大阪に行くって聞いた時、平気なふりをした。頑張ってって言った。無理しないでって言った。でも本当は、行かないでって言いたかった」
涙が出た。
「でも、そんなこと言ったら重いと思われるって思った。直人の仕事を邪魔するって思った。だから言えなかった」
「佳乃」
「でも、言わなかったら、私はまた同じことをする」
私は涙を拭いた。
「好きなのに、受け取らない。寂しいのに、平気なふりをする。怖いのに、笑って逃げる」
直人の顔が滲んだ。
「もう、それをやめたい」
直人は静かに私を見ていた。
私はバッグの中から、小さなものを取り出した。
青い花のキーホルダーだった。
透明なアクリルの中に、小さな青い花が閉じ込められている。
昼休みに、会社の近くの雑貨屋で買ったものだ。
「何、それ」
「鍵につけようと思って」
直人の表情が変わった。
私は手のひらにキーホルダーを乗せたまま言った。
「あの鍵、まだ持ってる?」
直人はしばらく黙っていた。
それから、コートの内ポケットから財布を取り出した。
小さな銀色の鍵を、私の手のひらに置いた。
冷たかった。
あの日、私が受け取れなかった鍵。
直人の勇気。
私が茶化してしまった未来。
私はその鍵に、青い花のキーホルダーをつけた。
指先が震えて、少し時間がかかった。
それでも、つけた。
「すぐに全部うまくできるわけじゃないと思う」
私は鍵を握った。
「大阪に行く直人を笑って送り出せるほど、私は強くない」
「うん」
「遠距離になったら不安になると思う。連絡が遅いだけで、勝手に怖くなる日もあると思う」
「うん」
「でも、その時は、平気なふりをするんじゃなくて、怖いって言いたい」
直人の目が、少し赤く見えた。
「会いたい時は、会いたいって言いたい。寂しい時は、寂しいって言いたい。直人にも、そう言ってほしい」
私は深く息を吸った。
「だから」
声が震えた。
「大阪に行っても、私と別れないでほしい」
言った。
言ってしまった。
重いかもしれない。
困らせるかもしれない。
でも、これが私の本音だった。
直人は長い間、黙っていた。
その沈黙が怖くて、私は鍵を握りしめた。
やがて直人が、ゆっくり口を開いた。
「俺も、怖かった」
私は顔を上げた。
「佳乃に未来の話をしたら、また笑ってかわされるんじゃないかって思った」
「うん」
「大阪に行くって言ったら、佳乃はきっと“頑張って”って言うんだろうなって思った」
直人は少しだけ苦笑した。
「実際、言ったし」
「ごめん」
「でも、本当は止めてほしかったわけじゃない」
直人は私の手の中の鍵を見た。
「ただ、寂しいって言ってほしかった」
涙がまた落ちた。
「俺も、寂しいよ」
直人の声が、少しだけ震えた。
「大阪に行くのは仕事として必要だと思ってる。やりたかった仕事でもある。でも、佳乃と離れるのは寂しい。不安もある」
「うん」
「でも、別れたいとは思ってない」
その一言で、私は息を止めた。
「本当?」
「本当」
直人は静かに笑った。
「むしろ、今日佳乃が何も言わなかったら、俺は諦めようとしてた」
「諦める?」
「佳乃は俺との未来を望んでないんだって」
胸が痛んだ。
ぎりぎりだったのだ。
私がまた平気なふりをしていたら、直人は私を手放そうとしていた。
私は、失う寸前でようやく走った。
「間に合った?」
自分でも情けない声だった。
直人は一歩近づいた。
「間に合った」
その言葉に、膝から力が抜けそうになった。
第4話では、佳乃が初めて「行かないでと言いたかった」「別れないでほしい」と、自分の本音を直人に伝えました。
合鍵は、直人の部屋に入るためだけのものではなく、佳乃が自分の心を閉じきらないための鍵でもあります。
次話で完結です。
二人が遠距離の始まりを、終わりではなく次の約束に変えられるのか、見届けていただけたら嬉しいです。




