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合鍵を断った三日後、彼の転勤を知った  作者: ちょこまろ


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最終話 閉じるためではなく、開けるために

東京駅の新幹線改札前で、佳乃はようやく本音を伝えました。


「大阪に行っても、私と別れないでほしい」


受け取れなかった合鍵。

言えなかった「寂しい」。

怖くて閉じていた心。


直人が差し出した鍵を、佳乃は今度こそ受け取ります。


最終話です。

 直人は私の手をそっと包んだ。


 鍵ごと、包んだ。


「佳乃」


「うん」


「この鍵、受け取ってくれる?」


 私は頷いた。


「受け取る」


「無理してない?」


「無理はしてる」


 直人が少し驚いた顔をした。


 私は泣きながら笑った。


「でも、いい無理だと思う。逃げないための無理」


 直人はゆっくり頷いた。


「そっか」


 今度の「そっか」は、寂しい響きではなかった。


 私は鍵を胸に当てた。


「これは、直人の部屋に入る鍵っていうより、私が自分の心を閉じきらないための鍵にしたい」


 言ったあと、恥ずかしくなった。


「今の、ちょっと格好つけすぎた」


 直人が笑った。


 久しぶりに、声を出して笑った。


「いや、いいと思う」


「笑ったじゃん」


「嬉しくて」


 その言葉で、私はまた泣きそうになった。


 直人は私を抱きしめた。


 人が行き交う新幹線改札の前で。


 発車案内の音が響く中で。


 直人が、明日には大阪へ行ってしまう、その場所で。


 私は直人のコートに顔を埋めた。


 温かかった。


 怖いくらい、温かかった。


「直人」


「うん」


「行かないでって、少しだけ思ってる」


「うん」


「でも、行ってきて」


 直人の腕に力がこもった。


「ちゃんと帰ってきて。私も、ちゃんと待つから」


「うん」


「でも、待つだけじゃなくて、会いに行く」


 直人が少し体を離して、私を見た。


「大阪まで?」


「行く。新幹線、乗れるし」


「方向音痴なのに?」


「東京駅は迷うけど、新大阪なら頑張る」


 直人は笑った。


「迎えに行くよ」


「じゃあ、迷わない」


 私たちは笑った。


 泣きながら、笑った。


 スマホが震えた。


 直人の乗る予定の新幹線の発車時刻が近づいていた。


 改札の前で、直人は立ち止まった。


「来月の二週目」


「うん」


「大阪、来る?」


 私は驚いた。


「行っていいの?」


「来てほしい」


 胸の奥に、小さな灯りがともった。


「行く」


「じゃあ、予定送る」


「うん」


 次の約束ができた。


 遠距離の始まりの前日に。


 終わりではなく、次の約束ができた。


 直人は改札を通る前に、私を見た。


「佳乃」


「うん」


「俺、佳乃のこと好きだよ」


 いつもなら、そこで照れて笑ってごまかしていた。


 でも今日は、逃げなかった。


「私も好き」


 声は震えた。


 でも、ちゃんと言えた。


「直人が思ってるより、ずっと好き」


 直人の顔が、少し泣きそうに歪んだ。


「それ、もっと早く聞きたかった」


「ごめん」


「これから聞く」


「うん。言う」


 直人は頷き、改札を通った。


 何度か振り返りながら、ホームへ向かっていく。


 私はその背中が見えなくなるまで立っていた。


 涙は止まらなかった。


 でも、不思議と苦しくなかった。


 置いていかれたのではない。


 見送ったのだ。


 次に会う約束を持って。


 彼の部屋の鍵を持って。


 自分の本音を、少しだけ渡して。


 私は直人を見送った。


     *


 直人が大阪へ行ってから、私たちの関係は簡単ではなかった。


 連絡が遅い日もある。


 会えない週末もある。


 仕事で疲れて、電話をしても沈黙が続く夜もある。


 私は何度も不安になった。


 直人が大阪で新しい生活に慣れていくこと。


 私の知らない人たちと笑うこと。


 私がいなくても一日が進んでいくこと。


 それが怖かった。


 でも、以前の私はそこで黙った。


 平気なふりをした。


 そして勝手に傷ついた。


 今は、少し違う。


『今日、少し寂しい』


 送るのには、まだ勇気がいる。


 でも送る。


 すると直人は、たいてい短く返してくれる。


『俺も』


『電話する?』


『次の土曜、予定合わせよう』


 直人も少しずつ言うようになった。


『今日は疲れてて、うまく話せないかも』


『佳乃の声だけ聞きたい』


『会いたい』


 その言葉を受け取るたびに、私は思う。


 愛情は、重さになることもある。


 でも、支えになることもある。


 押しつけるのではなく、差し出す。


 試すのではなく、伝える。


 平気なふりをするのではなく、ちゃんと怖いと言う。


 それは簡単ではない。


 でも、できないことではなかった。


     *


 一か月後の土曜日、私は新幹線で大阪へ向かった。


 東京駅では少し迷った。


 でも、迷ったことも直人に送った。


『早速迷った』


 すぐに返信が来た。


『想定内。何番線にいる?』


 私は笑った。


 新幹線の窓から流れる景色を見ながら、バッグの内ポケットに触れた。


 青い花のついた鍵がある。


 直人の東京の部屋の鍵。


 今は彼がほとんど使っていない部屋の鍵。


 それでも、私は持っている。


 鍵は、場所を開けるものだけではない。


 心を閉じきらないために、持っているものもある。


 新大阪駅に着くと、改札の向こうに直人がいた。


 少し痩せた気がした。


 でも、笑っていた。


 私は歩き出した。


 最初は普通に。


 途中から、少し早足で。


 直人の前に立つと、彼が言った。


「迷わず来られた?」


「最後だけ迷った」


「最後って?」


「改札を出たあと、右か左か」


「そこまで来て?」


「うん」


 直人は笑った。


 私はその笑顔を見て、胸がいっぱいになった。


「直人」


「うん」


「会いたかった」


 言えた。


 ためらわずに。


 茶化さずに。


 平気なふりをせずに。


 直人は一瞬目を見開いたあと、私を抱きしめた。


「俺も」


 駅のざわめきの中で、私は直人の背中に腕を回した。


 怖さは、まだ消えていない。


 きっとこれからも、完全には消えない。


 愛されることは、今でも怖い。


 幸せが大きくなるほど、失う想像をしてしまう日もある。


 でも私は、もう逃げるだけの自分ではいたくない。


 好きなのに、受け取れなかった。


 その私を、少しずつ変えていく。


 差し出された鍵を。


 言葉を。


 ぬくもりを。


 次の約束を。


 これからは、ちゃんと両手で受け取りたい。


「佳乃」


「うん」


「今日、どこ行きたい?」


 私は少し考えて、笑った。


「直人の生活が見たい」


「生活?」


「スーパーとか、駅までの道とか、いつも行く定食屋とか」


「観光じゃなくていいの?」


「いい」


 私は直人の手を握った。


「私、ちゃんと入りたい。直人の生活に」


 直人は私を見た。


 それから、ゆっくり笑った。


「じゃあ、まずはスーパーだな」


「うん」


「今夜、何食べたい?」


「お粥以外」


「まだ言う?」


「言う」


 二人で笑いながら、駅の外へ歩き出す。


 知らない街だった。


 人も、道も、空気も違う。


 でも、隣に直人がいた。


 それだけで、怖さの中に温かい灯りがともる。


 バッグの中で、青い花のついた鍵が小さく鳴った。


 もう、閉じるためではなく、開けるために。


― 完 ―

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。


この物語は、合鍵を受け取る話でありながら、本当は「愛されることを受け取る」話でもありました。


好きなのに怖い。

大事にされるほど、失うことを想像してしまう。

だから平気なふりをしてしまう。


そんな佳乃が、直人に「会いたかった」と言えるようになるまでの、小さな変化を描きました。


二人の遠距離は、きっと簡単ではありません。

それでも、寂しい時に寂しいと言えるなら。

会いたい時に会いたいと言えるなら。

差し出されたぬくもりを、今度はちゃんと受け取れるはずです。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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