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合鍵を断った三日後、彼の転勤を知った  作者: ちょこまろ


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3/5

第3話 彼が差し出したのは、未来だった

直人から届いた「少し会える?」というメッセージ。

佳乃は会える嬉しさより先に、別れ話かもしれない不安に飲み込まれてしまいます。


あの日、直人が差し出した合鍵には、どんな意味があったのか。

そして、彼が大阪転勤を前に本当に伝えたかったこととは。


二人がようやく、本音の入口に立つ第3話です。

 直人から連絡が来たのは、翌日の夜だった。


『明日の夜、少し会える?』


 画面を見た瞬間、胸が熱くなった。


 会える。


 そう思った。


 でも次の瞬間、不安が来た。


 少し会える?


 少し、とは何だろう。


 別れ話だろうか。


 転勤の報告だろうか。


 それとも、もう私とは未来を考えられないという話だろうか。


 私は何度も文面を読み返した。


 そして、わざと少し時間を置いて返した。


『大丈夫だよ。何時?』


 直人からはすぐに返ってきた。


『十九時。いつもの店で』


 いつもの店。


 二人が初めて食事をした、小さな和食屋だった。


 初めて会った時、直人は私の話をよく聞いた。


 自分の話ばかりする男が多い中で、直人は違った。


 私が仕事の愚痴を少しこぼすと、笑わずに聞いてくれた。


「それは大変だったな」


 ただそれだけ。


 でも、その一言で私は少し楽になった。


 付き合う前、直人は何度か私を食事に誘った。


 私は最初、断る理由を探していた。


 仕事が忙しい。


 予定がある。


 今は恋愛する気分じゃない。


 でも直人は急がなかった。


「またタイミング合えば」


 そう言って、引いた。


 追い詰めない。


 でも、忘れない。


 直人はそういう人だった。


 だから好きになった。


 好きになってしまった。


     *


 翌日の夜、私はいつもの店へ向かった。


 店に入ると、直人はもう来ていた。


 紺色のニットに、黒いジャケット。


 私を見ると、いつものように立ち上がった。


「お疲れ」


「ごめん、待った?」


「いや、今来た」


 その言葉もいつも通りだった。


 でも、何かが違った。


 直人の目が、少しだけ遠い。


 料理を注文し、ビールで乾杯した。


 会話は普通に進んだ。


 仕事の話。


 最近見た映画の話。


 共通の知人が結婚した話。


 でも、薄い膜がある。


 私はそれを感じていた。


 直人も感じているはずだった。


 食事の終盤、直人が箸を置いた。


「佳乃」


「何?」


「この前の鍵のことなんだけど」


 来た。


 私はグラスを握った。


「うん」


「ごめん。困らせた」


「別に、困ったわけじゃ……」


「いや、困らせたと思う」


 直人は静かに言った。


「俺が勝手に、佳乃との距離を縮めたくなってた」


 違う。


 困ったんじゃない。


 怖かっただけ。


 嬉しかったのに、怖かっただけ。


 でも言葉が出ない。


「実は、あの日」


 直人は少し間を置いた。


「合鍵だけじゃなくて、もう一つ話したいことがあった」


 私の胸が嫌な音を立てた。


「大阪支社の話?」


 言った瞬間、直人が目を上げた。


「知ってたのか」


「昨日、会社で聞いた」


「そっか」


 その「そっか」が痛かった。


 私には先に言わなかった。


 でも、会社の誰かは知っていた。


 それが悔しいのか、悲しいのか、自分でもわからなかった。


「いつから?」


「正式に打診されたのは先週」


「どうして言ってくれなかったの?」


 ようやく言えた。


 でも声は少し震えていた。


 直人は視線を落とした。


「言おうとしてた」


「合鍵の日?」


「うん」


 心臓が止まりそうになった。


「合鍵を渡して、それから言うつもりだった。大阪に行く可能性があるって。でも、佳乃と終わりたいわけじゃなくて、むしろ……」


 直人は言葉を切った。


 そして、少し苦しそうに笑った。


「一緒に暮らすことも、考えてほしいって言うつもりだった」


 世界が静かになった。


 店内の話し声も、食器の音も、全部遠くなった。


 あの日の鍵は、ただの合鍵ではなかった。


 直人の、最後の勇気だった。


 遠距離になる前に、二人の関係をちゃんと形にしたい。


 自分の生活の中に、私を入れたい。


 未来の話をしたい。


 そのための鍵だった。


 それを私は、笑って言った。


 重くない?


 直人がどんな気持ちであの鍵を差し出したのかも知らずに。


「ごめん……」


 声がかすれた。


 直人は首を横に振った。


「佳乃だけが悪いわけじゃない。俺も急だった」


「でも」


「俺も、怖かったんだと思う」


 直人はグラスの水を見つめた。


「前に付き合ってた人に言われたことがある。私との未来を考えてないんだねって」


 私は何も言えなかった。


「俺は考えてたつもりだった。でも、言葉にしなかった。仕事が落ち着いたらとか、タイミングを見てとか、そんなことばかり言ってたら、相手は待てなくなった」


 直人は小さく息を吐いた。


「だから今回は、ちゃんと形にしようと思った。佳乃に、俺は本気だって伝えたかった」


 胸が痛かった。


 直人も怖かったのだ。


 自分だけが傷つかないようにしていたわけじゃない。


 直人も、過去の痛みを抱えて、私に鍵を差し出してくれた。


 なのに私は、その手を払った。


「大阪は」


 私はようやく聞いた。


「断れないの?」


 直人は少しだけ黙った。


「断ろうと思えば、断れる」


「じゃあ……」


「でも、断りたくない」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 直人はまっすぐ私を見た。


「大阪支社で、新規チームを立ち上げるんだ。ずっとやりたかった仕事なんだよ」


「……そうなんだ」


「うん」


 知らなかった。


 そんな大事なことを、私は知らなかった。


 直人が何を目指しているのか。


 どんな仕事に胸を熱くするのか。


 どんな未来を選びたいのか。


 私は、恋人なのに知らなかった。


 知ろうとしなかったのかもしれない。


 自分が傷つかない距離を保つことに必死で、直人の奥にあるものを見ようとしていなかった。


「明日の午前十時までに、返事をしなきゃいけない」


「明日……」


「うん」


 時間がなかった。


 直人が大阪へ行くかどうか。


 私たちがどうなるのか。


 その返事の期限は、もうすぐそこに来ていた。


「佳乃は、俺に愛されるのが嫌なの?」


 直人の声は静かだった。


 私は顔を上げた。


「嫌なわけない」


「じゃあ、怖い?」


 答えられなかった。


 答えられないことが、答えだった。


 直人は少しだけ目を伏せた。


「そっか」


 その言葉に、胸がぎゅっと縮んだ。


「俺、佳乃のこと好きだよ」


 直人はまっすぐ言った。


「でも、好きって伝えるたびに、佳乃が少し遠くなる気がする」


「そんなこと……」


「あるよ」


 直人の声は穏やかだった。


 穏やかなまま、痛かった。


「俺が近づくと、佳乃は笑ってかわす。大事な話をしようとすると、茶化す。寂しい時も、平気な顔をする」


 私は唇を噛んだ。


「俺も、傷つく」


 その一言で、私は息ができなくなった。


 直人を優しい人だと思っていた。


 受け止めてくれる人だと思っていた。


 怒らない人。


 待ってくれる人。


 私が逃げても、壊れない人。


 でも違う。


 直人も傷ついていた。


 私が怖がるたびに。


 私が茶化すたびに。


 私が平気なふりをするたびに。


「ごめん」


 ようやく言えた。


「私、怖かった」


 直人は何も言わなかった。


「鍵、嬉しくなかったんじゃない。嬉しかった。すごく嬉しかった。でも、嬉しいと思った瞬間に怖くなった」


 言葉にすると、情けなかった。


 三十歳にもなって、何を言っているのだろうと思った。


 でも止まらなかった。


「直人の生活の中に入ったら、もし終わった時に、どこに戻ればいいかわからなくなると思った」


「うん」


「好きって言われると嬉しい。でも、その分、いつか言われなくなる日を考える」


「うん」


「大事にされると幸せなのに、その幸せがなくなった時のことばかり考える」


 涙が落ちた。


「だから、先に距離を取った。平気なふりをした。重くない女のふりをした」


「うん」


「でも、直人の連絡が減っただけで、全然平気じゃなかった」


 直人はしばらく黙っていた。


 そして、おしぼりではなく、自分のハンカチを差し出した。


 私はそれを受け取れずに見つめた。


 直人は小さく笑った。


「これは受け取って」


 その一言で、また泣きそうになった。


 私はハンカチを受け取った。


 白い、何の飾りもないハンカチだった。


 直人の洗剤の匂いがした。


「佳乃」


「うん」


「怖いなら、怖いって言ってほしい。会いたいなら、会いたいって言ってほしい。今は無理なら、無理って言ってくれていい」


「うん」


「俺も全部受け止められるわけじゃない。でも、何も言われないまま遠ざけられるより、ずっといい」


 私は頷いた。


 頷きながら、自分がどれだけ直人を遠くに置いていたのかを思い知った。


「大阪の返事」


 直人が言った。


「明日の朝、する」


「行くの?」


 聞いた瞬間、喉が詰まった。


 直人はすぐには答えなかった。


「行くと思う」


 胸の奥が冷たくなった。


「そっか」


 今度は私が言った。


 そっか。


 たった三文字で、自分を守ろうとした。


「佳乃」


「うん」


「これは、佳乃から逃げるためじゃない」


「うん」


「でも、今の俺たちのまま遠距離になるのは、正直きついと思ってる」


 私は何も言えなかった。


「だから、少し時間がほしい」


「……別れるってこと?」


 直人は目を伏せた。


「今すぐ答えは出したくない」


 それは、優しさだった。


 でも、ほとんど別れの手前の言葉に聞こえた。


 店を出ると、雨はまだ降っていた。


 直人は傘を開いた。


 いつもより、二人の間に少し距離があった。


 駅までの道を、私たちは並んで歩いた。


 濡れたアスファルトに、街の光が揺れている。


 改札前で、直人は言った。


「今日は話してくれてありがとう」


 ありがとう。


 その言葉が、終わりの挨拶みたいで怖かった。


「直人」


「うん」


「次、いつ会える?」


 たったそれだけを言うのに、声が震えた。


 直人は少し黙った。


「大阪に行く前に、もう一度会おう」


「いつ?」


「来週の金曜」


「わかった」


 その日は、直人が大阪へ行く前日だった。


 私たちはそこで別れた。


 電車に乗り、ドアが閉まる。


 ホームに立つ直人の姿が遠ざかっていく。


 私はスマホを握りしめた。


 今度こそ送ろうと思った。


『本当は行かないでほしい』


 打った。


 でも、送れなかった。


 直人の仕事を邪魔したくない。


 重いと思われたくない。


 引き止めて困らせたくない。


 いくつもの言い訳が、私の指を止めた。


 結局、その夜も私は送れなかった。


読んでくださってありがとうございます。


第3話では、合鍵がただの鍵ではなく、直人が佳乃との未来を考えて差し出したものだったことが明かされました。


佳乃だけでなく、直人もまた傷つき、怖がっていた。

恋人同士なのに、好きだからこそ臆病になってしまう二人です。


次話では、東京駅で佳乃がようやく本音を伝えます。

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