第2話 好きなのに、受け取れなかった
好きなのに、素直に受け取れない。
会いたいのに、平気なふりをしてしまう。
佳乃が恋愛でブレーキを踏むようになった理由。
そして、仕事では誰かを守れる彼女が、自分の弱さだけは守れない理由が明かされます。
直人への気持ちに、佳乃はまだ向き合いきれません。
二十七歳の時、私は本気で人を好きになった。
相手は大学時代の先輩だった。
仕事もできて、話も面白くて、誰にでも優しい人。
彼はよく言った。
「もっと頼っていいよ」
「我慢しなくていいよ」
「佳乃の素直なところ、好きだよ」
私はその言葉を信じた。
信じてしまった。
会いたいと言った。
寂しいと言った。
声が聞きたいと言った。
不安だと言った。
最初は、彼も笑って受け止めてくれた。
「かわいいな」
「そんなに俺のこと好き?」
「ちゃんと好きだよ」
その言葉に安心して、私は少しずつ自分を見せた。
でも、ある時から彼の返事は遅くなった。
電話は短くなった。
会う約束は先延ばしになった。
そして最後に言われた。
「佳乃の愛情って、重いんだよ」
たったそれだけだった。
その一言で、私の中の何かが折れた。
それから私は、恋愛で先にブレーキを踏むようになった。
会いたくても、忙しいと言う。
寂しくても、平気だと言う。
好きでも、相手より少しだけ温度を低く見せる。
期待しない。
求めない。
寄りかからない。
愛される前に、逃げ道を作る。
そうすれば、捨てられた時に笑えると思った。
傷は浅く済むと思った。
でも直人は違った。
直人は、私が一歩引いても、無理に追いかけてはこなかった。
けれど、いなくならなかった。
私が「忙しい」と言えば、「無理するなよ」と言った。
私が「一人の時間も大事だし」と言えば、「そうだな」と言った。
私が「私、そんなに恋愛中心じゃないから」と言えば、「そういうところも好きだよ」と笑った。
その穏やかさが、怖かった。
優しい人ほど、いなくなった時に苦しい。
だから、深く受け取ってはいけない。
そう思っていたのに。
直人の転勤を後輩から聞いただけで、私はまともに息ができなくなっていた。
*
その日の夕方、事件が起きた。
後輩の真由が、クライアントに送るはずの確認用データを、古いバージョンのまま送ってしまったのだ。
しかも相手は、今回の大型案件の決裁者だった。
「す、すみません、三嶋さん……私、本当に……」
真由は青ざめていた。
今にも泣きそうだった。
私はすぐに画面を確認し、送信履歴を見た。
まずい。
でも、取り返せないほどではない。
「真由ちゃん、泣くのは後」
「はい……」
「今すぐ最新版を私に送って。あと、修正履歴も全部出して」
「でも、私が直接謝ったほうが」
「謝るのは私が先にする。あなたは資料を揃えて」
「でも」
「何とかする」
また言った。
何とかする。
私はクライアントに電話をかけ、淡々と説明した。
相手は怒っていた。
当然だ。
私は頭を下げ、送付ミスの原因と、最新版の変更点をその場で説明した。
追加で比較資料を作り、二時間後には再提出した。
その間、真由は何度も「すみません」と言った。
私は一度だけ、少し強めに言った。
「次からは、送信前にファイル名だけじゃなくて、開いて中身を確認して」
「はい」
「でも、今回のミスであなたの全部が駄目になるわけじゃないから」
真由は泣きそうな顔で私を見た。
「三嶋さん……」
「泣くならトイレで三分。戻ったら、チェック表作って」
「はい……!」
真由が走っていったあと、営業部の男性社員が苦笑した。
「三嶋さん、相変わらず面倒見いいですね」
「面倒を見るというより、炎上したらこっちも燃えるだけです」
「でも、普通あそこまでかばわないですよ」
私は笑った。
「若い子が一回ミスしたくらいで潰れたら、会社の損ですから」
そう言って、席に戻った。
強い人みたいに振る舞うのは、得意だった。
誰かを守るのも、嫌いではない。
なのに、自分の弱さだけは、どうしても守れなかった。
直人に「寂しい」と言うことのほうが、クライアントに謝るより何倍も怖い。
その事実に、私は笑いたくなった。
*
夜十時を過ぎて会社を出ると、雨が降っていた。
傘は持っていなかった。
駅まで走ればいい距離だったけれど、私は走れなかった。
ビルの入口で立ち止まり、雨に濡れる街を見ていた。
スマホを取り出す。
直人の名前を開く。
最後のやり取りは昨日の夜。
『今週、少し忙しい』
『了解。無理しないでね』
それだけ。
私は文字を打った。
『大阪に行くって本当?』
消した。
『どうして私に言ってくれなかったの?』
消した。
『会いたい』
消した。
たった四文字が、どうしてこんなに怖いのだろう。
その時、スマホが震えた。
直人だと思った。
心臓が跳ねた。
でも画面に表示された名前は、母だった。
「もしもし」
『佳乃? 今、大丈夫?』
「うん。仕事終わったところ」
『あんた、声が疲れてる』
「いつも通り」
『その“いつも通り”が怪しいのよ』
母は昔から、私の嘘にだけは敏感だった。
『直人さんとは、うまくいってるの?』
私は息を止めた。
「なんで?」
『この前電話した時、あんたが珍しく楽しそうだったから』
「別に、普通」
『普通って言葉で、大事なものを雑に扱わないほうがいいよ』
胸が詰まった。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
『佳乃』
「何?」
『あんたは昔から、平気なふりばっかりするから』
「平気だよ」
『そうやって言う時ほど、平気じゃないの』
母の言葉は、優しいのに鋭い。
『お父さんが出ていった時も、あんた泣かなかったでしょ』
突然の言葉に、私は黙った。
父が家を出ていったのは、私が中学二年の時だった。
母は泣いた。
祖母も泣いた。
でも私は泣かなかった。
泣いたら母がもっと壊れると思ったから。
お父さんがいなくても大丈夫。
寂しくない。
怖くない。
そういう顔をしていた。
その癖が、大人になっても抜けなかった。
誰かに置いていかれそうになるたびに、私は先に笑う。
先に大丈夫と言う。
先に背中を向ける。
置いていかれる前に、置いていかれても平気な自分を作る。
『佳乃』
母の声が柔らかくなった。
『誰かに大事にされることを、負けみたいに思わなくていいのよ』
その一言で、目の奥が熱くなった。
でも泣かなかった。
泣けなかった。
「……電車来るから切るね」
『うん。風邪ひかないようにね』
「うん」
電話を切ると、雨音だけが残った。
私はスマホを握ったまま、立ち尽くした。
直人に会いたい。
そう思った。
けれど、私はまだ送れなかった。
読んでくださってありがとうございます。
第2話では、佳乃が「重い女」になりたくないと思うようになった過去と、平気なふりをしてしまう癖を描きました。
誰かに頼ること、寂しいと言うこと、大事にされること。
それが怖い佳乃が、直人に本音を伝えられるのか。
次話では、直人があの合鍵に込めていた本当の意味が明かされます。




