第1話 合鍵を断った三日後、彼の転勤を知った
合鍵を差し出された夜、佳乃は笑って断ってしまった。
本当は嬉しかったのに、怖くて受け取れなかった。
三日後、彼の転勤を知った時、佳乃はようやく気づきます。
あの鍵は、ただの合鍵ではなく、彼が差し出してくれた未来だったのかもしれない、と。
大人になったからこそ素直になれない、すれ違い恋愛の始まりです。
合鍵を断った三日後、彼の転勤を、私は本人ではなく共通の知人から聞いた。
その時はまだ知らなかった。
あの合鍵が、彼にとって、私との未来を差し出すための精一杯の勇気だったことを。
「え、佳乃さん、知らなかったんですか?」
後輩の真由が、給湯室で紙コップを持ったまま固まった。
昼休みの終わりかけだった。
広告制作会社のオフィスは、午後の打ち合わせに向けて少しずつ慌ただしくなっている。コピー機の音、電話の呼び出し音、誰かがキーボードを叩く音。その全部が、私の耳から遠ざかっていった。
「何を?」
声は、思ったより普通に出た。
真由はしまった、という顔をした。
「あ……すみません。私、てっきり……」
「いいから。何の話?」
紙コップの中で、真由のコーヒーが小さく揺れていた。
「青山さん、大阪支社に異動になるかもって。昨日、営業部の人たちが話してて」
青山さん。
私の恋人、青山直人のことだった。
付き合って半年。
穏やかで、言葉は多くないけれど、誰よりも私をまっすぐ見てくれる人。
その人の転勤を、私は職場の給湯室で、後輩から聞いた。
「……そうなんだ」
私は笑った。
笑うしかなかった。
「まだ正式じゃないんじゃない?」
「たぶん。でも、かなり濃厚みたいで。来月からって聞きました」
「来月」
口の中で、その言葉だけが転がった。
来月。
あまりにも近い。
近すぎる。
私と直人は、次に会う約束さえ決めていなかった。
それなのに、彼は来月には大阪に行くかもしれない。
「三嶋さん、大丈夫ですか?」
「え?」
「顔色、悪いです」
「大丈夫」
反射のように答えていた。
大丈夫。
私の人生で、いちばん多く使ってきた嘘だ。
「ちょっと寝不足なだけ」
私はそう言って、紙コップを捨てた。
中身はまだ半分以上残っていた。
味なんて、もうわからなかった。
席に戻ると、パソコンの画面にはクライアントからの修正依頼が並んでいた。納期は明日。担当営業からは、申し訳なさそうな顔文字付きのメッセージが届いている。
私は椅子に座り、マウスを握った。
仕事をしなければいけない。
こういう時こそ、手を動かす。
感情を止める。
いつも通りにする。
私、三嶋佳乃は、そうやって生きてきた。
仕事では、誰にも弱音を吐かない。
クライアントが急に方針を変えても、上司が無茶を振っても、後輩が泣きそうなミスをしても、私はたいてい笑って言う。
「何とかする」
実際、何とかしてきた。
だから周囲は私を「安定している人」だと思っている。
感情的にならない人。
頼れる人。
ひとりでも立っていられる人。
でも本当は違う。
私は、ひとりで立っているのが得意なのではない。
誰かに寄りかかって、その誰かがいなくなるのが怖いだけだ。
スマホを見た。
直人からの連絡はない。
昨日の夜、私たちは短いメッセージを交わした。
『今週、少し忙しい』
直人から届いたのは、それだけだった。
私はすぐに返した。
『了解。無理しないでね』
それだけ。
本当は、聞きたかった。
忙しいって、何が?
転勤の話?
どうして私に言ってくれないの?
来月から大阪って本当?
でも聞けなかった。
聞いたら、私は不安がっている女になる。
彼の予定に揺さぶられている女になる。
置いていかれるのが怖いと、ばれてしまう。
だから、聞けなかった。
パソコン画面の文字が滲む。
私は瞬きをして、背筋を伸ばした。
いつも通り。
いつも通りでいればいい。
そう唱えるほど、胸の奥は冷たくなっていった。
*
直人が合鍵を差し出したのは、三日前の土曜日だった。
駅から少し離れたカフェの窓際の席。
外は細い雨が降っていて、ガラスには街の灯りが淡く滲んでいた。
テーブルの上には、私の飲みかけのカフェラテと、直人のブラックコーヒー。
そして、小さな銀色の鍵。
「無理に使わなくていいよ」
直人は言った。
「ただ、持っていてくれたらいいなと思って」
その瞬間、私の心臓は嫌な音を立てた。
普通なら、嬉しい場面なのだと思う。
恋人が合鍵を渡してくれる。
自分の生活の中に入ってきてほしいと示してくれる。
それは、あなたは特別だ、という意味だ。
いつ来てもいい、という意味だ。
ここにいてほしい、という意味だ。
私は嬉しかった。
喉の奥が熱くなるくらい、嬉しかった。
でも、嬉しいと思った瞬間、怖くなった。
この鍵を受け取ったら、直人の部屋に私の居場所ができてしまう。
直人の生活の中に、私の影が落ちてしまう。
そしていつか終わった時、私はその場所を失う。
失ったあとに、どうやって元の自分に戻ればいいのかわからなかった。
だから私は、笑った。
「え、重くない?」
言った瞬間、直人の指先が止まった。
私は気づいた。
気づいたのに、引き返せなかった。
「まだ早くない? 合鍵とか、そういうの」
声は明るかった。
自分でも嫌になるくらい、軽かった。
直人は何も言わない。
だから私は、さらに余計なことを言った。
「私、そういう“ちゃんとした関係です”みたいな確認、苦手なんだよね」
言った瞬間、自分の声が嫌いになった。
直人の表情が、ほんの少しだけ変わった。
怒ったわけではない。
傷ついた顔だった。
でも直人は怒らなかった。
責めなかった。
ただ一度、テーブルの上の鍵を見た。
それから、ゆっくりと笑った。
「そっか」
その笑い方が、私には痛かった。
「ごめん。急だったよな」
直人は鍵を指でつまみ、何でもないものみたいに財布へ戻した。
「忘れて」
忘れて。
その言葉で、私は自分が何かを壊したのだとわかった。
でも、謝れなかった。
謝ったら、あの鍵を受け取らなければいけない気がした。
受け取ったら、もう逃げられない気がした。
だから私はまた笑った。
「うん。ちょっとびっくりしただけ」
帰り道、直人はいつも通り駅まで送ってくれた。
傘は一本だけだった。
直人は自分の右肩を濡らしながら、私のほうへ傘を傾けていた。
私はそれに気づいていた。
気づいていたのに、「濡れてるよ」と言えなかった。
言えば、彼の優しさを受け取ることになるから。
改札前で、直人はいつもなら私の髪に少し触れて、「気をつけて」と言う。
でもその日は、触れなかった。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
電車に乗り、ドアが閉まる。
ホームに立つ直人の姿が遠ざかっていく。
私はスマホを握りしめたまま、自分に言い聞かせた。
重い女になりたくなかっただけ。
まだ半年だし。
合鍵なんて、早い。
あれくらい、普通に驚く。
別に悪いことを言ったわけじゃない。
でも、その夜、直人からのメッセージは来なかった。
いつもなら、家に着く頃に届く。
『着いた?』
たった三文字。
でも私は、いつもその三文字を待っていた。
その日は来なかった。
私は画面に文字を打った。
『今日はごめんね』
消した。
『怒ってる?』
消した。
『ちゃんと帰れた?』
消した。
結局、何も送れなかった。
ベッドに入ってからも、スマホは沈黙したままだった。
私は天井を見つめながら、小さく呟いた。
「ほらね」
優しさは、いつか消える。
ぬくもりは、いつか冷める。
愛されることは、幸せの入口じゃない。
失う痛みの予約だ。
私はそれを、二十七歳の冬に知った。
読んでくださってありがとうございます。
「重くない?」と笑ってしまった佳乃ですが、本当は冷たい女性ではなく、愛されることが怖い人です。
彼女がなぜ合鍵を受け取れなかったのか、そして直人の転勤が二人に何をもたらすのか。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




