第6章:的中の絶対座標、あるいは自己否定のパラドックス
――パーンッ!
凛とした冷たい空気を切り裂き、弦音が道場に響き渡った。
放たれた矢は、二十八メートル先の的の中心(図星)を、寸分の狂いもなく貫いている。
「……見事だ、氷室の奴。また皆中か」
「当然だろ。うちの弓道部が誇る『絶対零度の貴公子』だぞ」
放課後の弓道場。ギャラリーの生徒たちが感嘆の溜息を漏らす中、的からゆっくりと視線を外したその男――氷室 尚登は、表情一つ変えずに弓を下ろした。
古風で端正な顔立ち。背筋の伸びた無駄のない所作。伝統ある弓道部の主将であり、学業もトップクラス。学校というカーストにおいて、彼は親友の由衣とは違うベクトルで「不可侵の聖域」にいる男だった。
そして今、その氷室の背中に、熱を帯びた視線を送っている少女がいた。
星野琉佳。
あの後夜祭の夜、暗闇の森の中で創真と唾液を交わし、世界から孤立することを選んだはずの彼女が、どういうわけか取り巻きの女子生徒たちに混ざり、氷室の的中に頬を赤らめている。
「……おい、なんであんたがそこにいるんだよ」
道場の裏手。薄暗い木陰からその光景を覗き見ていた創真の爪が、樹皮に深く食い込んだ。
異常事態だった。
あの日、二人は確かにシステム(同調圧力)から逃げ切ったはずだった。時間が進み、新しい日常が始まったと錯覚していた。
だが、現実は違ったのだ。
完璧な生徒会長であったがゆえに、琉佳は周囲から無数の「妬み」と「恨み」を買っていた。彼女が少しでも弱みを見せれば、ハイエナのように群がる悪意。その終わらないカーストの暴力から逃れるため、琉佳の精神は無意識のうちに『より強固な盾』を求めてしまった。
それが、伝統と権威の象徴である氷室尚登という「完璧な王子様」だった。
「星野くん。見学は構わないが、あまり騒がしくしないでくれ。集中が途切れる」
弓の手入れをしながら、氷室が冷ややかな一瞥をくれる。
「ご、ごめんなさい、氷室先輩。でも、本当に綺麗で……」
琉佳が上擦った声で謝罪する。その顔には、創真に見せていた「泥沼のような本音」ではなく、誰かに庇護されることを切望する『悲劇のヒロイン』の仮面が、再びびっしりと張り付いていた。
「……ふざけんな」
創真は木陰から飛び出し、土足のまま道場の縁側へ上がり込んだ。
「創真くん!?」
驚く琉佳の腕を掴み、乱暴に引き寄せる。
「帰るぞ、琉佳。こんな奴のところにいる必要ない。俺たちだけの場所(放送室)に……」
「離してっ!」
バシッ、と。
琉佳の手が、創真の頬を鋭く打った。
乾いた音が響く。創真は信じられない思いで、自身の赤く腫れた頬と、琉佳の震える瞳を交互に見た。
「……私に、触らないで。あなたみたいな『部外者』に、私の何がわかるのよ」
それは、システムが言わせている台詞ではなかった。
あまりにも生々しい、彼女自身の防衛本能からの拒絶だった。創真という「暗闇」と一緒にいれば、自分は本当に学校社会から抹殺される。氷室という「光」の庇護下に入らなければ、私は壊れてしまう。
彼女の完璧主義が孕む脆さが、創真の差し伸べた泥まみれの手を、無意識に汚物として弾いたのだ。
「……君、放送部の創真だったか」
氷室が、冷たい湖底のような瞳で創真を見下ろした。
「彼女の事情は聞いている。生徒会の重圧で精神が不安定になっているところに、君がつけ込んだそうだな。……身の程を知れ。日陰で埃を被っている機材オタクが、彼女の盾になれるとでも思ったのか?」
氷室の言葉は、鋭い矢となって創真の自己評価のど真ん中を射抜いた。
反論の言葉が出ない。
氷室の言う通りだった。自分には何もない。端正な顔も、全校生徒を黙らせる権威も、彼女を正当な光の中で守る力も。
自分が彼女に与えられたのは、薄暗い防音室と、すべてを破壊する絶望だけだった。
「……あ、あぁ……」
創真の喉から、みっともない嗚咽が漏れた。
氷室の隣で、怯えたように彼の手首を握りしめる琉佳。その構図が、完璧な一枚の絵画のように創真の網膜に焼き付く。
敗北だ。システムからの敗北ではない。オスとしての、人間としての、完全な敗北。自己否定の泥濘が、足元から急速に創真を飲み込んでいく。
「……俺は、俺はただ……」
自分がどれほど滑稽なピエロだったかを悟った瞬間。
――キィィィィィィィィン……ッ!!!
突然、世界に強烈な耳鳴りが走った。
道場の景色が、テレビの砂嵐のようにノイズに塗れ、グニャリと歪む。
「……えっ?」
琉佳が戸惑いの声を上げた。彼女の手を握っていた氷室の姿が、バグを起こした3Dモデルのようにポリゴンとなって崩け落ちていく。ギャラリーの生徒たちも、道場も、夕空も、すべてがキャンバスから絵の具が溶け落ちるようにドロドロと崩壊していく。
「嘘だろ……」
創真は悟った。
あの後夜祭からの数日間、すべてが【嘘】だったのだ。
システムは、二人を逃がしたわけではなかった。創真に「自分なら彼女を救える」という最高潮の錯覚を与え、そこから氷室という絶対的な現実をぶつけることで、創真の精神を根底からへし折るために用意された『精巧な箱庭』に過ぎなかったのだ。
「創真くん! これ、どうなってるの!? 体が、溶け……っ!」
パニックに陥り、絶叫する琉佳。彼女の完璧な仮面が崩れ去り、再び死の恐怖に怯える『ただの少女』へと引き戻されていく。
世界をうまく騙したつもりが、システムの手のひらで踊らされていたのは自分たちの方だった。希望を見せられ、最も残酷な形で叩き落とされる。
「……あぁ、そうかよ。そうやって、俺から全部奪うんだな」
真っ白にホワイトアウトしていく視界の中で、創真は狂ったように笑い出した。
自分が無力なのは分かった。光の中で彼女を救えないことも分かった。
ならば、一緒に地獄へ落ちるしかない。
世界が反転する。強烈なフラッシュ。
* * *
「――っはぁっ!!」
肺に酸素が流れ込み、創真はミキサー卓から顔を上げた。
オレンジ色の防音壁。古いカーペットの匂い。
そして、傍らでパイプ椅子に座り、怯えた瞳でこちらを見つめる琉佳の姿。
デジタル時計の赤いLEDは、残酷にも、あの始まりの時刻『17:50』を指していた。
引き戻された。
あの長い逃避行も、自己嫌悪も、すべてを無かったことにして、システムは二人を再び『最初の密室』へと強制送還したのだ。
ミキサー卓の隅。
黒い手帳のページが、パタパタと独りでに捲られ、新しいインクが滲み出していた。
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【タイムループ対処手引き(改訂版):第6条】
自己否定のパラドックスについて。
お帰り、後輩くん。最高の絶望顔だったよ。どうだい、自分が「主人公」ではなく、ただの「滑稽な道化」に過ぎないと突きつけられた気分は?
システムは君たちの希望を食って育つ。君が彼女を救えると錯覚すればするほど、落差のダメージは大きくなる。氷室というプログラムは、君のコンプレックスを抉るための最高のスパイスだっただろう?
さあ、思い知ったはずだ。君が彼女に与えられるのは、光の届かない泥水だけだということを。ならば、最後までその泥を飲ませてやれ。
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その文章の脇、ページの余白部分に、著者が走り書きしたような、小さな文字の【補足】が添えられていた。
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【手引書・欄外の補足】
それにしても傑作だ。君、「彼女をシステムから守りたい」と息巻いていたくせに、自分より立派で安全な『騎士』が現れた途端に発狂するんだな。
彼女が安全ならそれでいい……というわけじゃないのか? 結局のところ、君は「自分が」彼女を独占したいだけのワガママ坊やじゃないか。やれやれ、これだから思春期のヒロイズムは矛盾していて面倒くさい。
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「……うるせえよ、クソ野郎」
創真は吐き捨てるように呟き、手帳を乱暴に閉じた。
時計は『17:51』へと変わる。
痛いところを突かれた不快感を噛み殺しながら、創真はパイプ椅子で震える琉佳の細い首筋を、底知れぬ暗い瞳でじっと見つめていた。




