第5章:偽薬(プラセボ)の熱を帯びたシーツ、あるいは吊り橋の崩落
『翌日・13:00』
カーテンの隙間から、白々しい午後の陽光が一本の鋭い刃のように差し込んでいた。
ホコリの舞う薄暗い六畳間。創真の自室である。
散らかった機材や、読み捨てられた漫画雑誌が足の踏み場もなく転がるこの空間は、客観的に見れば陰鬱なモブ生徒の掃き溜めに過ぎない。だが、昨夜の創真にとって、ここは世界から琉佳を隔絶するための「完璧な城」だった。
軋むベッドの上で、創真は重い瞼を開けた。
腕の中に、確かな重みと、甘いシャンプーの匂いがある。
星野琉佳。全校生徒が憧れる完璧な偶像が、今は衣服の残骸を床に散らし、薄いタオルケット一枚に包まって創真の胸に身を委ねていた。
昨夜の森からの逃避行の末、二人は何かに追われるようにこの部屋へ転がり込んだ。狂信的なシステムの圧力と、死の恐怖。極限状態の吊り橋効果は、彼らの理性をいとも容易く焼き切った。
暗闇の中で、泣きじゃくる琉佳を創真は抱いた。
不器用で、暴力的なまでの独占欲。痛みを伴う接触の中で、琉佳は「創真くん……助けて、私をひとりにしないで」と何度も哀願した。その言葉を聞くたびに、創真の脳髄は甘い麻薬で満たされた。
俺が、彼女を救った。俺だけが、彼女の世界のすべてになったのだ。
汗ばんだ肌と肌が重なり合い、二人が完全に「一つ」になった瞬間、創真はシステムへの完全な勝利を確信した。
「……んっ……」
身じろぎをして、琉佳が目を覚ました。
長い睫毛が震え、潤んだ瞳が創真を捉える。
「おはよう、琉佳。もう大丈夫だ。ここは誰も来ない」
創真は、愛しげに彼女の乱れた髪を撫でた。彼女はビクッと肩を震わせた後、曖昧な微笑みを浮かべて
「……うん。ありがとう、創真くん」と囁いた。
完璧な朝だった。少なくとも、創真にとっては。
創真が「何か飲むものを買ってくる」と部屋を出て行った後。
一人残されたベッドの上で、琉佳はゆっくりと上体を起こした。
シーツから滑り落ちた自分の白い肌には、彼が付けた赤黒い痣が点々と残っていた。それを見た瞬間、彼女の胸の奥で、カチリ、と何かが凍りつく音がした。
――私、なんでこんなところにいるんだろう。
昨夜の狂気じみた熱が、引いていく。
深夜の森で感じた全能感も、彼と身体を重ねた瞬間の安堵も、太陽の光の下ではひどく輪郭がぼやけていた。
琉佳はベッドから降り、部屋の隅にある姿見の前に立った。
そこに映っていたのは「完璧な生徒会長」ではなかった。髪はボサボサで、目は虚ろに濁り、安いシーツを体に巻き付けた、ひどくみすぼらしい少女の姿だった。
『完璧ナ会長』
システムのノイズではない。彼女自身の強迫観念が、脳裏で警鐘を鳴らした。
恐怖から逃れるためとはいえ、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか?
足元に散らかった、脱ぎ捨てられた創真の服。薄汚れたカーペット。万年床の匂い。
これが、私がシステムを捨てて選んだ「新しい世界」の全貌?
ひどい、泥沼だ。
彼に抱かれていた時、確かに安心感はあった。だがそれは、愛情ではなかった。猛獣から逃れるために、たまたま目の前にあった『暗く狭い穴ぐら』に逃げ込んだだけのこと。
嵐が過ぎ去った今、その「穴ぐら」は、ただ息苦しく、不潔で、彼女のプライドをゴリゴリと削り取る空間でしかなかった。
「……帰らなきゃ」
無意識に、呟いていた。
システム(同調圧力)の恐怖は確かに恐ろしい。だが、このまま「創真という底辺の暗闇」に同化し、社会から完全にドロップアウトすることの恐怖が、それを上回り始めていた。
私は、星野琉佳だ。光の当たる場所で、賞賛を浴びて生きるべき人間だ。
こんな薄暗い部屋で、冴えない機材オタクの所有物として一生を終えるなんて、耐えられない。
ガチャリ、とドアが開いた。
「琉佳、コンビニで適当に買ってきたけど、食えるか?」
ビニール袋を提げて戻ってきた創真は、酷く無邪気な顔で笑っていた。自分はヒーローだと信じて疑わない、無自覚で残酷な笑顔。
その顔を見た瞬間、琉佳の心に明確な『嫌悪感』が芽生えた。
なぜ、この人はこんなに勝ち誇っているのだろう。
私の絶望につけ込んで、私をこんな泥水の中に引きずり込んでおきながら。
「……ありがとう、創真くん」
琉佳は、ひきつる頬を必死に抑え、完璧な「悲劇のヒロイン」の仮面を被り直した。
「ねえ、創真くん。私……やっぱり、学校に戻ろうと思うの」
「は? 何言ってんだよ、あんな狂った連中のところに戻ったら、またお前は……!」
「大丈夫」
琉佳は、創真の言葉を遮るように首を振った。
「ずっと逃げてるわけにはいかないから。創真くんが……私を強くしてくれたから、もう平気よ」
それは、美しい嘘だった。
彼女の本音は「ここから一秒でも早く抜け出したい」「もっと安全で、強固な光の盾を見つけなければ」という打算で満ちていた。
創真は、彼女の微かな瞳の揺らぎ(拒絶)に気づかなかった。
彼は「俺の愛が彼女に立ち向かう勇気を与えたのだ」と都合よく解釈し、誇らしげに頷いてしまったのだ。
「……わかった。俺が、ずっとそばで守るからな」
その言葉が、琉佳にとってどれほどの重荷で、どれほどの呪いであったか。
すれ違う二人の心は、すでに修復不可能なほどに断裂していた。彼女はすでに、次の「完璧なシェルター」を探し始めていたのだ。
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【タイムループ対処手引き(改訂版):第5条】
やあ、ロミオ。昨夜のベッドの寝心地はどうだった?
君は今、彼女をシステムから救い出し、身も心も手に入れたと有頂天になっていることだろう。暗闇の底で交わした粘膜の接触を、永遠の愛だと錯覚する。……これだから童貞のヒロイズムは滑稽で愛おしい。
教えてやろう。心理学において、恐怖や不安を共有した際に生まれる連帯感を「吊り橋効果」と呼ぶ。
だが、吊り橋を渡りきり、足元が安全な平地になった時、魔法は必ず解ける。
彼女が君に縋ったのは、君を愛していたからではない。背後から迫る炎から逃げるために、たまたま目の前にあった『泥にまみれた防空壕』に飛び込んだだけだ。
夜が明けて、彼女は気づいてしまったのさ。
「あれ、この防空壕、カビ臭くて息が詰まるし、何より管理人の顔がひどく薄気味悪いぞ」……とね。
彼女の瞳の奥をよく見てみろ。そこにあるのは感謝じゃない。「この底辺の男から、どうやって離れようか」という冷静な計算(打算)だ。
おめでとう。君は彼女を救ったのではなく、ただの「一時的な避難所」に成り下がったのだ。
さあ、早く彼女を学校へ連れて行ってやれ。彼女はもう、君よりももっと強くて、もっと清潔な「本物の光」を欲しがっているぞ。
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