第3章:カーストの解剖学、あるいは親友という名の致死毒
『17:51』
四回目の防音室。
創真は、脂汗にまみれた前髪を掻き上げ、手帳に新たに浮かび上がった文字を睨みつけた。
>>
【タイムループ対処手引き(改訂版):第3条】
「社会的構造からの隔離について」
彼女の「仮面」を剥がしただけでは不十分だったようだね。システムは物理的なバグ排除へと移行した。ならば、アプローチを変えよう。
彼女を殺している「同調圧力」という幽霊の正体を、君は論理的に解剖したことがあるか? 幽霊は自然発生しない。必ず「発生源」が存在する。
箱庭の主は、いよいよ直接的なキャスト(NPC)を投入してくるだろう。君に求められるのは、探偵のごとき推理と、外科医のごとき切除だ。彼女を縛る忌まわしい人間関係の糸を、すべて君の手で断ち切ってみせろ。
――もっと君だけに依存させろ。彼女の視界を、君だけで埋め尽くすんだ。
>>
「……発生源、か」
創真が手帳を閉じた瞬間だった。
コン、コン。
控えめなノックの音が、分厚い扉の向こうから響いた。
前のループで起きた「顔のない生徒たちによる爆音のコーラス」ではない。極めて理性的で、個人の輪郭を持ったノック音。
「琉佳? いるんでしょ? 開けてよ、由衣だけど」
その声を聞いた瞬間、パイプ椅子で震えていた琉佳がハッと顔を上げた。
「由衣……!」
神宮寺由衣。生徒会副会長であり、琉佳のクラスメイト。そして、誰もが認める彼女の「一番の親友」だ。華やかな容姿でスクールカーストの最上位に君臨する彼女は、いつも完璧な生徒会長の隣で、献身的にサポートに回る良き理解者として振る舞っていた。
「開けちゃダメだ」
創真が制止するより早く、安堵の涙を浮かべた琉佳が鍵を開けてしまった。
ドアの隙間から、夕闇の冷気と共に、甘い香水を纏った由衣が滑り込んでくる。彼女は創真という「モブ」が一瞬目に入ったようだが、まるで路傍の石を無視するように視線を外し、琉佳を抱きしめた。
「もう、探したんだよ! こんな埃っぽい放送室に隠れてるなんて。明日の準備、どうするの?」
「ごめん、由衣……私、ちょっと気分が……」
「わかるよ、プレッシャーだよね。でもさ、みんな怒ってるんだよ。『星野さんがいきなり投げ出すなんて無責任だ』って。……私、必死に庇ったんだけどね」
由衣は、琉佳の背中を優しく撫でながら、ため息まじりにそう言った。
「やっぱり、琉佳には生徒会長なんて荷が重かったのかなぁ。私が代わってあげればよかったね」
一見すれば、親友を気遣う優しい言葉。
だが、創真の脳内のアルゴリズムが、彼女の言葉の裏にある「毒」を瞬時に解析していた。
『17:54』
――推理の時間は終わった。
創真は、冷たい目で由衣を見下ろした。
「……あんたが、システムが寄越した『ホスト』か」
「えっ? なに、放送部の地味な子。あなたこそ、こんなところで琉佳に何してるの?」
由衣が初めて創真を認識し、あからさまに嫌悪の表情を浮かべる。
「会長、よく聞け」
創真は琉佳の目をまっすぐに見据えて言った。
「あんたがどうしてここまで追い詰められたのか、ずっと不思議だったんだ。完璧な生徒会長なら、多少のミスでも周りは許すはずだ。それなのに、校内の空気は異常なほどあんたを『孤立』させていた」
「ちょっと、何言ってるの……?」
「単純な話だ。あんたの背中に、ずっと毒の杭を打ち込み続けていた人間が、一番近くにいたからだよ」
創真はミキサー卓の操作パネルを弾いた。
放送室のモニタースピーカーから、ザザッというノイズと共に、録音された音声データが再生される。
『――あーあ、星野さんマジで使えない。あれで会長とかウケるよね。』
『だよねー。由衣が実質全部やってんのに。適当にトラブル起こして、あの子のメンタル潰しちゃおうよ。明日のキャンプファイヤー、マジで見ものじゃん』
スピーカーから流れてきたのは、紛れもない、由衣と取り巻きの男子生徒たちの嘲笑だった。
放送部の機材オタクである創真は、校内のあらゆる場所に設置されたマイクのテスト集音を日常的に行っていた。図書室の裏、生徒会室の死角。彼にとって、この学校の「カーストの裏側」など、筒抜けのソースコードに過ぎない。
「なっ……! これ、盗聴……!?」
由衣の端正な顔が、怒りと焦燥で醜く歪んだ。
「琉佳、違うの! これは悪ふざけで……!」
「……由衣、あなたが……みんなを煽って……?」
琉佳の瞳から、光が完全に失われた。
カーストの最上位にいる「親友」の承認こそが、彼女が学校という世界で呼吸するための唯一の酸素だったのだ。それが、悪意に満ちた猛毒だったと知った瞬間。
彼女の精神の足場は、完全に崩落した。
『17:57』
「最悪っ……! あんたみたいな底辺のオタクが、私たちの領域に踏み込んでこないでよ!」
由衣が創真に向かって平手打ちを放とうとした、その腕を。
創真は冷酷な手つきで掴み、そのまま思い切り捻り上げた。
「痛っ……! 離して、狂ってる……!」
「狂ってるのは、お前らが作り上げたこの『学校』っていう箱庭の方だ」
創真は由衣をドアの外へと乱暴に突き飛ばした。
「二度と近づくな。彼女は、お前らみたいな連中の慰み者じゃない。俺が……俺だけが、彼女の本当の姿を知っている」
バタンッ!!
重い防音扉を閉め、内側から完璧に施錠する。
扉の向こうで由衣が何かを喚き、やがてヒールの足音が遠ざかっていく。
静まり返った密室。
時計は『17:58』を指している。
琉佳は床にへたり込み、両手で顔を覆って声を殺して泣いていた。
親友に裏切られ、生徒会長としての居場所も失い、スクールカーストという名の巨大な蜘蛛の巣から、完全に切り離された。
彼女は今、社会的・精神的に『世界で一番孤独な存在』へと叩き落とされたのだ。
「……創真、くん……私、もう、どこにも……」
「……大丈夫だ」
創真は膝をつき、泣き崩れる彼女の体を、壊れ物を扱うように抱きしめた。
彼女の汗と涙の匂い。微かに震える華奢な肩。
そのすべてが、愛おしかった。狂おしいほどに。
外の世界が彼女を殺そうとするなら、自分が彼女の「新しい世界」になればいい。誰も彼女を傷つけられない、この密室の底で。
「他の奴らなんてどうでもいい。俺だけを見ろ。俺だけが、あんたの味方だ」
創真の指先が、琉佳の涙で濡れた頬を滑り、彼女の桜色の唇に触れた。
孤立無援の恐怖と絶望の中で、ただ一人自分を守ろうと血を流す少年。極限状態の中で引き起こされた「吊り橋効果」と、精神的な退行。
琉佳は、すがるように創真の首に腕を回し、その不器用で暴力的な愛情を受け入れた。
唇が重なる。
防音室の古いカーペットの上で、カーストの頂点にいた少女と、底辺にいた少年が、役割という制服を脱ぎ捨てて堕ちていく。
それはシステムに対する、最も美しく、最も醜悪な「反逆の儀式」。
『18:00』
夕焼け小焼けのチャイムが、遠くで鳴った。
ドアを叩く者はいない。中庭に身を投げる衝動も起きない。
二人の体温が混ざり合う密室の中で、時計の針は、ゆっくりと『18:01』へと進んだ。
「……越えた。俺たち、時間を越えたぞ……!」
創真は歓喜に震え、琉佳の髪をきつく抱きしめた。
しかし。
ミキサー卓の上に放置された黒い手帳には、創真が気づかないうちに、新たな文字が静かに、そして冷徹に浮かび上がっていた。
>>
【タイムループ対処手引き:ドクターズ・ノート(非公開メモ)】
患者の精神状態は、依然として「自分はヒロインをシステムから救済するヒーローである」という妄想的防衛機序に守られている。
対象者を外界から物理的・社会的に孤立させ、自分だけに依存させるプロセス。これは見事なまでの「ストーカーによる洗脳と監禁」の再現だ。彼は無意識のうちに、自分がかつて現実世界で彼女に対して行った【罪の過程】を、ループというSF的ガジェットにすり替えて追体験している。
……さあ、ソウマ。君のその「歪んだ純愛」が、彼女の命をどうやって奪ったのか。早く思い出しなさい。
>>
防音室の空調が、微かに、消毒液の匂いを運んできたような気がした。




