第1章:物理的障壁の脆弱性、あるいは同調圧力による重力落下
『17:51』
無機質な赤いLEDが、残酷なカウントダウンの始まりを告げた。
創真は、ミキサー卓の上に広げられた黒い手帳のページから、弾かれたように目を逸らした。
どす黒いインクで綴られた『――元・用具係より』という流麗な筆記体が、網膜の裏側にべったりとへばりついて離れない。
「……創真くん? 本当にどうしたの? 気分が悪いのなら、保健室へ……」
「ダメだッ!!」
悲鳴に近い声が出た。
立ち上がろうとした星野琉佳の細い肩を、創真は乱暴な手つきで押さえつけた。
ビクッ、と彼女の体が震える。普段、生徒会の備品マイクのセッティング程度でしか口を利かない「ただの放送部員」に過ぎない創真が、いきなり声を荒げたのだ。無理もない。
だが、今の創真には、彼女の完璧な優等生としての「戸惑いの表情」を拝んでいる余裕など一秒たりともなかった。
「外には……外には絶対に出るな。いいか、この部屋から一歩でも出たら、あんたは死ぬ」
「……え?」
「説明してる暇はないんだ。頼むから、そこから動かないでくれ」
怯える彼女をパイプ椅子に押し戻し、創真は狂ったような手つきで放送室の機材ラックへと飛びついた。
情報工学とプログラミングに没頭してきた創真の脳内で、CPUが限界突破の悲鳴を上げながら高速処理を始めている。
もし、あの手帳の文言が単なるオカルトではなく、この現象そのものの「仕様書」なのだとしたら。
午後六時ちょうど。外から何者かがやってきて、琉佳が窓から飛び降りる。
それが、この『10分間』というループ・プログラムにおける、絶対的な終了条件だ。
『ならば、物理的にエラーを起こしてやればいい』
創真は放送室の分厚い防音扉に向かい、その頑丈なシリンダー錠を「ガチャン」と力任せに回した。さらに、ドアの前にスチール製の重いキャビネットを引きずってきて倒し、簡易的なバリケードを構築する。
これだけではない。
創真はラックの裏に回り込み、校内放送を司るメインアンプの電源ケーブルを、親の仇のように力任せに引き抜いた。バチッという火花と共に、校内すべてのスピーカーへの回線が物理的に切断される。
「チャイムだ……」
「……創真くん?」
「午後六時を知らせる『夕焼け小焼け』のチャイム。あれがトリガーになってるはずなんだ。放送室の機材を落とせば、全校のスピーカーは沈黙する。……時間が来たことを、誰にも知らせない。そうすれば、プログラムは進行できないはずだ……!」
埃まみれになりながら、創真は肩で息をした。
時刻は『17:55』。
残された5分間で、創真は考えうるすべての「物理的バグ」を仕掛けた。
ドアの封鎖。音声出力の切断。さらに、琉佳が飛び降りるはずの中庭に面した窓のサッシには、マイクケーブルを何重にも巻きつけ、南京錠代わりのカラビナで固定した。
完璧だった。これで、外から何かが侵入することも、彼女が内側から窓を開けることも、物理法則の観点からは100パーセント不可能になった。
「……ねえ、創真くん。怖いよ。何から逃げてるの?」
薄暗くなった放送室の中で、琉佳が膝を抱えたまま震えていた。
文化祭前夜。全校生徒が校庭や体育館でキャンプファイヤーの準備に浮かれている中、彼女だけが、逃げるようにこの旧校舎の放送室に隠れていた。
完璧な生徒会長。その肩書きが、どれほど彼女の精神をすり減らしていたのか。モブである創真には知る由もなかったが、今、目の前で震えているのは、ただのひどく脆い、等身大の少女だった。
「……大丈夫だ。俺が、絶対に守るから」
創真は、無意識のうちにそう口にしていた。
それが、自分のような「背景の染み」に過ぎない人間に許された台詞ではないと分かっていながら。あの手帳が告げた『悲劇のヒロイン』という言葉が、不快な棘のように胸に刺さっていたからだ。
『17:58』
世界が、急速に静まり返り始めた。
厚さ十センチの防音壁に囲まれているとはいえ、先ほどまでは微かに聞こえていたグラウンドからの歓声や、吹奏楽部のチューニングの音が、まるで水中深く潜ったかのように、完全に消失した。
『17:59』
急激に、室内の温度が下がった。
創真の吐く息が白く濁る。琉佳が「ひっ」と短い悲鳴を上げ、自分の肩を抱きしめた。
おかしい。冷暖房の電源はとっくに切っている。
物理法則が、歪み始めている。
「……来る」
創真は、バリケードを築いたドアの前に立ち塞がり、両手でキャビネットを押さえつけた。
そして。
『18:00』
――ザザァァァァァァァァッッッ!!!
電源ケーブルを物理的に引き抜いたはずのモニタースピーカーから、鼓膜を突き破るような爆音のホワイトノイズが噴出した。
「なっ……!?」
あり得ない。電流は流れていないのだ。
だが、ノイズは鳴り止まない。いや、それは単なるノイズではなかった。
ノイズの中に、無数の「声」が混じっていた。
『会長、明日の開会宣言、原稿のチェックお願いします』
『星野先輩なら絶対大丈夫ですよ!』
『会長、笑顔で!』
『私たちの、完璧な、生徒会長――』
何十、何百という生徒たちの「期待」という名の呪詛。
同調圧力のバケモノが、声帯を持たないスピーカーから溢れ出し、防音室の空気をどろどろのタールのように染め上げていく。
ドアを物理的に叩く音などしなかった。
システムは、そんな回りくどい物理的干渉など必要としていなかったのだ。この箱庭を支配しているのは、論理ではなく「役割」なのだから。
「……あ、ああ……」
背後で、糸が切れたような声がした。
振り返った創真の視界に映ったのは、虚ろな目をして立ち上がる星野琉佳の姿だった。
先ほどまでの怯えきった少女の表情は、そこにはない。彼女の顔には、まるで薄気味悪い仮面を貼り付けたような、完璧で、空虚な『生徒会長の微笑み』が張り付いていた。
「……だめだ、琉佳先輩! 動くな!」
創真はドアから離れ、彼女に向かって飛びついた。
だが、遅かった。
琉佳の手が、マイクケーブルで何重にも縛り上げられていたはずの窓のサッシに触れる。
その瞬間、創真が結んだはずの強靭なケーブルが、まるで腐った糸くずのように、音もなくボロボロと崩れ落ちた。
物理法則の無効化。
彼女が「窓を開ける」というシステムの絶対命令の前には、どんな物理的障壁も意味を成さない。
「うそだろ……おい、やめろッ!」
創真は琉佳の腰に両腕を回し、全体重をかけて彼女を部屋の奥へ引き摺り倒そうとした。
しかし、信じられないことに、細腕の彼女の体は、巨大なコンクリートの塊のようにビクともしなかった。創真の筋力では、彼女に作用する「システムからの引力」にミリ単位の抵抗すらできなかったのだ。
「……みんなが、私を待ってるの」
琉佳の赤い唇が、録音された音源を再生するように動いた。
そして彼女は、創真が必死にすがりつくのも構わず、開け放たれた窓枠に足をかけた。
三階の窓から、夕闇の冷たい風が吹き込んでくる。
眼下には、コンクリートで舗装された冷たい中庭。
「やめろぉぉぉぉッ!!!」
創真の絶叫を置き去りにするように。
星野琉佳は、完璧な微笑みを浮かべたまま、夕闇の底へと自ら身を投げた。
創真の両腕には、彼女の温もりだけが、幻肢痛のように残された。
窓から身を乗り出し、下を覗き込む。
数秒の滞空時間の後。
グチャッ、という、水風船をアスファルトに叩きつけたような、ひどく無機質で、生々しい破裂音が響いた。
血液の赤い染みが、中庭のコンクリートに花のように広がっていく。
そして、世界が、強烈なフラッシュを焚かれたように白く飛んだ。
* * *
「――っは、ああっ!!」
肺が痙攣し、創真はミキサー卓の上に突っ伏していた体を激しく跳ね起こした。
脂汗。乱れた呼吸。倒れたパイプ椅子。
傍らには、無傷の星野琉佳が、怯えた瞳で創真を見つめている。
そして、デジタル時計の赤いLEDは、残酷に『17:50』を表示していた。
三回目のループ。
創真の仕掛けた物理的障壁は、システムの概念的暴力の前では、文字通り「存在しない」も同然だった。
完敗だった。ロジックでは、あの同調圧力という名の幽霊には勝てない。
創真は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えながら、ミキサー卓の隅に置かれた「あの黒い手帳」に目を向けた。
開かれたページには、先ほどの文章の下に、新たな文字が、まるであざ笑うかのような軽快な筆致で浮かび上がっていた。
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【タイムループ対処手引き(改訂版):第1条】
「物理的バリケードの脆弱性について」
やあ、顔も知らない後輩くん。見事なまでの無駄骨、特等席で見せてもらったよ。君、もしかしてドアに鍵をかけて、窓を縛れば生存ルートに入れるとでも思っていたのかい?
それは三流のゾンビ映画の文法だ。君がいま対峙しているのは、肉を持った怪物じゃない。「星野琉佳は悲劇のヒロインとして死ななければならない」という、この空間の『ルールそのもの』だ。
いいかい、パソコンオタクくん。プログラムのバグを物理的なハンマーで叩き直そうとする馬鹿がどこにいる?
彼女を殺しているのは重力じゃない。彼女が背負わされている「完璧な生徒会長」というクソみたいな仮面の重さだ。
バリケードを築く暇があるなら、彼女のその仮面を、君の泥まみれの手で引っ剥がしてやれ。ヒロインを「ただの汚れた女」に引きずり下ろした時、初めてこのシステムはエラーを吐く。
さて、次の10分間だ。……せいぜい、泣かせるリテイクを期待しているよ。
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手帳に浮かび上がった血のような文字を読み終え、創真は奥歯を強く噛み締めた。
口の中に、鉄の味が広がった。
「……やってやるよ、クソ野郎」
創真は、震える手でヘッドホンを首から外し、ミキサー卓の脇に投げ捨てた。
傍観者でいる時間は、もう終わったのだ。
時刻は『17:51』。
絶望の砂場での、終わらない放課後が、再び幕を開けた。




