さ夜ふけて なかばたけゆく
さ夜ふけて なかばたけゆく 久方の
月吹きかへせ 秋の山風
ここでまた、物の名ジャンルに戻ります。作者は景式王。文徳天皇の孫にあたる人物です。平安初期、六歌仙の時代を生きました。
歌に万葉集の名残りが見えますね。
この「さ夜ふけて」は、五音でセットと言われる言葉です。「久方の」も万葉の頃から使われていた「月」にかかる枕詞。それを踏まえて訳してみましょう。
力強く男性的な万葉風に『夜も更け空に高く昇りゆく定めの月を、東の空へ吹き戻せ秋の山風』となりました。どこから東が出て来たのかと言いますと、枕詞の効果です。
月にかかる「久方の」とは、どうして月に掛かるのでしょう?
実は縄文語の名残りとか、外来語とか、枕詞には面白い仮説が尽きません。「ひさかたの」は、万葉集では「久堅」や「久方」の表記があり、悠久かつ堅牢、久遠なもの、という見解が優勢です。そして月の他には、空や雲などといったものへも掛かります。
どういう事かと言いますと、習性のある自然現象に掛かるわけですね。
そこで風が月を吹き返す方向は、登ってきた東となります。西なら返すとは言わないでしょう。教養がものを言いますね。
ところで物の名は何処か、お気付きでしょうか?
巧妙に隠されている上、現代人には馴染みがありません。正解は「かわたけ」のところ。これも残念ながら二種類のものが推測されていて、実際はどれなのか分かっていない名詞です。
まずは清い方の「川竹」から。
これは、川のほとりに生える竹のこと。竹に月の出てくる短歌と言ったら、竹取物語をリスペクトかと思ってしまいますが、作者の生きた時代は少し早いようです。残念ですが、読んでいないでしょう。
二句の「なかばたけゆく」を『中空に高く昇っていく』から「さ夜ふけてな」「かわたけゆく」に変えて訳してみます。
すると『夜が更けているのだな。竹の向こうを移動して(見えなくなる)月を吹き戻しておくれ、秋の山風』と情景が見事に浮かび上がりました。竹の葉がサヤサヤと揺れる音まで聞こえてきそうです。
―――――――――――――――深読み篇
古今和歌集 巻第十 物の名
かはたけ 景式王
さ夜ふけて なかばたけゆく 久方の
月吹きかへせ 秋の山風
では清くない方の『かは茸』です。キノコですよ、きのこ。どうして男性は、それを色々な物に喩えたがるのか。まったくもって、けしからん。
さて、このキノコめは、漢字で革茸ともあてて、かわきのこ、などとも言われたようです。見た目が黒褐色なのですって。
こんなえぐい短歌ですが、歌の表訳と同様、裏も「かわたけ」を文脈にするか名詞にするかで、客観的、または視覚的に歌が変化するという、優秀な面を持ち合わせています。筆者も命が惜しいので、深読みの視覚面には触れません。
貫之の嫌った、変態的な歌が良いとされた時代のものです。「さ夜更けて」のあたりも、万葉仮名では狭夜深而と文字をあてて『せまい夜が深まりて』となったり、佐夜深而として『そいて夜を深めるや』と意味深な雰囲気があります。
夜が狭い理由は、一人ではないから、という事になりますね。
佐欲布気というのもありますから、具体的にどういう事をしている夜か、を暗示する役割があると言えるでしょう。そんな夜のなかばに『盛りを過ぎる』久方の、と枕詞に出くわします。月は月の神様に象徴されるように、男を示すキーワード。
ひさかたは「久堅」ですから、久しく堅い男とするのが客観的な裏訳です。
視覚的な方のヒントとしては、同じ動作を繰り返している月。月の字は「突き」の方だと思われます。
吹き返せ飽きの山風と締めくくられる心は、風の字に集約される完璧さ。本当にこの短歌は、計算された構造になっているのです。
風は心を表します。
山で吹く風は間違いなく嵐です。つまるところ『共寝の夜が、盛りを過ぎて終わっていく。貴女を求めていた体に戻してほしい。飽きるというのか、心は激しいままなのに』と情熱的に歌います。秋は飽きるとかけて、だから気にかけて欲しい、という駆け引きにも使われる不安定な言葉です。
ひさかたの持つ悠久な意味合いと、激しく荒れる刹那的な心理描写が、視覚的にその瞬間を描きます。
見事ですが、その才能、他に使って欲しかった。ここまでされると、思わずにはいられません。




