9 雨の日の図書室
秋の深まりとともに、ゼネ・レア王国にはしとしとと冷たい雨が降り続いていた。
窓の外では、紅葉した大樹の巨大な葉が雨に濡れて重そうに揺れ、王都の街並みも煙るような白さに包まれている。
こんな日は、大樹の根元にあるアリストン公爵家の本館も、いつもより静まり返っているように感じられた。
「……読めない」
本館の広大な図書室。
天井まで届く書架に囲まれたその部屋の片隅で、メルナは一冊の大きな本を広げて、小さく吐息をついた。
淑女教育の一環として、公爵夫人にふさわしい教養を身につけようと意気込んだまではよかったのだが、大きな壁にぶつかっていた。
辺境の森で父と二人、生きるために必死だったメルナにとって、文字を読み解く時間はあまりにも贅沢なものだった。
簡単な読み書きは父から教わっていたものの、歴史書や魔術の基礎理論が記された専門書に使われる難しい言葉は、今の彼女にはまるで呪文のように見えてしまう。
「難しいかい?」
背後からかけられた、聞き慣れた穏やかな声。
振り返ると、そこには漆黒の長い髪を後ろで一つにまとめたハーヴィが立っていた。
灰色の瞳が、困り果てた様子のメルナを優しく見つめている。
「あ、ハーヴィ様……お仕事はお休みですか?」
「ああ。雨の日は少しだけ、書類の山から解放されることにしているんだ」
ハーヴィはメルナの隣に歩み寄ると、彼女が広げている本を覗き込んだ。
「……あ、あの、ごめんなさい。私、お父さんから少しは教わっていたんですけど……公爵夫人になるなら、もっとたくさんお勉強しなきゃいけないのに、全然わからなくて……」
朱色の瞳を伏せ、メルナは恥ずかしそうに身を縮めた。
せっかく用意してもらった最高の環境に、自分がふさわしくないのではないかという不安がふいにもたげてくる。
だが、ハーヴィの答えは彼女の予想とは違うものだった。
「謝ることなんて何もないよ、メルナ。むしろ、今まで一人でこれだけ読み解こうとしていた君の努力は素晴らしい。よし、少し休憩にしよう」
ハーヴィはそう言うと、メルナが座っていた大きなソファの背もたれに深く腰を下ろした。
そして、自分の膝の上をぽんぽんと叩く。
「おいで。僕が教えるよ。その方が、本も読みやすいだろう?」
「えっ……!? あ、あの、ハーヴィ様!? そ、そんな……っ」
あまりにも当然のように提示された膝枕ならぬ膝乗りの提案に、メルナは沸騰しそうなほど顔を真っ赤にした。
だが、ハーヴィの瞳に迷いはない。
それどころか、少しだけ寂しそうな、拒まれるのを恐れるような色が混じっているのを見て、メルナは「うぅ……」と小さな声を漏らしながらおずおずと彼の膝の上に腰を下ろした。
背中から伝わってくる、ハーヴィのしっかりとした体温。
彼が後ろから腕を回して本を支えたため、メルナは完全に彼の胸の中にすっぽりと収まるバックハグの状態になってしまった。
彼特有の清潔で落ち着く香りが全身を包み込み、耳元で響く彼の低い声が、心地よく鼓膜を震わせる。
「……この文字は夜明け、こっちは大樹の加護という意味だよ。一つずつ、ゆっくり覚えていけばいい」
「は、はい……っ」
ハーヴィの丁寧な説明は、驚くほどスッと頭に入ってきた。
彼の指先が文字をなぞるたび、メルナは緊張しながらもその心地よさに少しずつ強張っていた身体を解いていく。
そんな二人を、お茶を運んできた侍女長のジェイミーが扉の隙間からそっと覗き込んだ。
彼女は瞳を細めて満足そうに頷くと、音を立てずに扉を閉めて引き返していった。
しばらく、穏やかな時間が流れる。
本を数ページ読み進めたところで、メルナはふと、今日のお昼に起きた出来事を思い出し、無邪気に話し始めた。
「そういえばハーヴィ様! 今日、ランスロットさんに少しだけ、騎士の方たちの剣の訓練を見せてもらったんです。雨の中でも皆さんとっても勇ましくて……ランスロットさん、青い瞳がキラキラしていて、すごく格好よかったんですよ!」
――ぴたり、と。
メルナの背中を支えていたハーヴィの腕に、微かな力がこもった。
本のページをめくる手が止まる。
「……へぇ。ランスロットが、格好よかったんだ」
その声はいつも通りの穏やかさを装っていたが、どこか温度が低かった。
鈍感なメルナでさえ、空気が変わったことに気づいて「えっ?」と首を傾げる。
「はい。あんなに重そうな剣を軽々と振っていて、私、感動しちゃいました。さすがアリストン公爵家の騎士さんですね!」
「……そうだね。彼は優秀だ……でも、メルナ」
ハーヴィは本を閉じると、メルナの肩を抱き寄せる力を少しだけ強めた。
そして彼女の淡い青色の髪に自分の顎を乗せ、少しだけ拗ねたような、独占欲の滲む声で囁いた。
「僕だって、魔力はないけれど……君を守るための剣の稽古は欠かしたことはないんだよ。君は、あんな若造のほうがいいのかい?」
「えっ……!? そ、そんなことありません! 私が一番格好いいと思っているのは、いつだってハーヴィ様です! あ、あの、今の、もしかして……ヤキモチ、ですか……?」
恐る恐る尋ねるメルナに、ハーヴィは耳の先まで赤くしながらも、決して否定はしなかった。
「……悪いかい? 愛する妻が、目の前で他の男を褒めるのを聞いて、平気でいられるほど僕は強くないんだ」
「……!」
ハーヴィの瞳に宿る、隠しきれないほどの深い独占欲と愛情。
それを真正面から受け止めてしまい、メルナは真っ赤になって彼に寄り添うことしかできなかった。
まさか完璧で非の打ち所のない夫が、部下であるランスロットにヤキモチを焼くなんて。
その人間臭い、自分への執着がたまらなく愛おしくて、メルナは勇気を出して彼の胸に小さな頭をこてんと預けた。
「……私を守ってくれるのは、ハーヴィ様だけです。ずっと、そばにいてくださいね」
その確かな決意を秘めた言葉に、ハーヴィは一瞬だけ目を見開いた。
やがて彼は降参したようにふっと笑い、メルナの額に優しく口づけを落とした。
「……ずるいな。そんなことを言われたら、一生離してあげられなくなる」
雨音は次第に強まり、窓を叩く音だけが図書室に響く。
ハーヴィの心地よい体温と、安心感。
朝から淑女教育を頑張り、緊張の解けたメルナは、やがて彼の腕の中で小さな欠伸を漏らした。
「……眠いのかい?」
「……ぁ……少しだけ……」
メルナの返事は次第に曖昧になり、朱色の瞳がゆっくりと閉じられていく。
ハーヴィは、自らの胸の中でスヤスヤと寝息を立て始めた愛しい妻を見つめ、慈しむようにその髪を撫でた。
森で化け物と恐れられ、石を投げられ、誰にも触れられずに生きてきた少女。
そして、名門に生まれながら無能と蔑まれ、孤独を抱えてきた公爵。
欠落した者同士、こうして肌を寄せ合っているこの時間が、今の彼らにとっては何よりも代えがたい救いそのものだった。
「おやすみ、メルナ……愛しているよ」
雨の日の午後の、ひっそりとした図書室。
誰にも邪魔されない二人の時間は、甘い魔法にかかったかのようにゆっくりと過ぎていくのだった。




