10 秋色のワンピース
その日のゼネ・レア王国の空は、どこまでも高く澄み切った秋晴れだった。
乾いた風が心地よく吹き抜ける朝、アリストン公爵家の本館にあるメルナの私室では、侍女長のジェイミーが鼻歌交じりに立ち働いていた。
「さあ、奥様。本日は旦那様と王都の街へお出かけになる大切な日。気合を入れてお仕度させていただきますよ!」
「あ、あの、ジェイミーさん。そんなに高価な服じゃなくても……私、ずっと森にいたから、街を歩くだけで十分楽しいですし……」
恐縮して肩をすくめるメルナに対し、ジェイミーは菜花のような黄色の瞳を優しく細めた。
「何を仰いますか。旦那様から『メルナに一番似合う、最高の服を用意してほしい』と直々に命じられているのですよ。ほら、こちらをご覧くださいな」
ジェイミーが恭しく広げてみせたのは、王都で今最も流行しているという、上質な生地で仕立てられたボルドー色のワンピースだった。
深みのある赤ワインのような秋色は、メルナの透き通るような白い肌と、澄んだ水のような淡い青色の長い髪をこの上なく美しく引き立てる計算し尽くされた色合いだ。
胸元や袖口には繊細なレースがあしらわれ、歩くたびにふわりと裾が揺れる愛らしいデザインになっている。
手際よく着付けられ、姿見の前に立たされたメルナは鏡の中の自分を見て朱色の瞳を丸くした。
「これが……私……?」
「ええ、この世で一番愛らしい、我がアリストン公爵家の奥様でございます」
ジェイミーに背中を押され、メルナは少しだけそわそわとしながら、一階の玄関ホールへと続く階段を降りていった。
ホールではかっちりとした外出用の外套を羽織ったハーヴィと、護衛として付き添う騎士のランスロットが待っていた。
階段を降りてくるメルナの姿を見つけた瞬間、ハーヴィはハッとしたように息を呑み、言葉を失って立ち尽くした。
「……メルナ。君は……」
あまりの可憐さに公爵が固まっていると、空気を読まない無邪気な声がホールに響き渡った。
「わあ! 奥様、本っ当によくお似合いです! 秋らしくて、すっごく綺麗です!」
雀の頭のような赤黒い茶色の髪を揺らし、ランスロットが青色の瞳をキラキラと輝かせて手放しで褒めちぎったのだ。
彼に一切の他意はなく、ただ純粋な感嘆から出た言葉だったのだが――。
ピリッ、と。
ホールの空気が、急激に冷たく凍りついた。
「え……?」
メルナが小首を傾げた次の瞬間、ハーヴィがずかずかと大股で階段の下まで歩み寄り、メルナの華奢な肩をぐっと引き寄せた。
そのまま彼女の右手を素早く持ち上げると、自らの左手と指の間に深く滑り込ませ、決して隙間ができないようにしっかりと指を絡め合わせる――いわゆる恋人繋ぎの状態で、メルナを自身の胸元へぴたりと密着させた。
「ハ、ハーヴィ様……?」
突然の密着と、指の股まで絡め取られるような強い繋ぎ方に、メルナの顔が一気に林檎のように赤く染まる。
そんなメルナの頭越しに、ハーヴィは薄氷のような青みを含んだ灰色の瞳を極限まで細め、ランスロットへ向けて無言の圧力を放っていた。
これ以上ないほど分かりやすい、独占欲とヤキモチの塊である。
「ひっ!?」
ランスロットは脂汗を吹き出し、直立不動の姿勢でガタガタと震え始めた。
「じ、自分、何か不敬なことを申し上げましたでしょうか……っ!?」
「……いや? 何も。僕の妻が世界一美しいという事実を述べただけだろう。ただ、少し声が大きかっただけだ。行くよ、メルナ」
有無を言わさぬ圧を放ちながら、ハーヴィはメルナと恋人繋ぎをしたまま、エスコートというよりは完全に囲い込むような態勢で馬車へと向かっていった。
後ろで「申し訳ありませんでしたぁぁっ!」と半泣きで謝罪するランスロットの姿を不思議そうに振り返りながら、メルナは朱色の瞳をぱちぱちと瞬かせるばかりだった。
◇
馬車は王都の中心部、高級店が立ち並ぶ華やかな大通りへと到着した。
大樹の根元にある本館とは違い、行き交う人々の数も、立ち並ぶ建物の装飾も桁違いに多い。
「わあっ……!」
馬車を降りたメルナは、目の前の光景に思わず歓声を上げ、目をまん丸にして驚いた。
石畳の大通りの真ん中に敷かれた鉄のレールの上を、馬にも引かれていない巨大な金属の箱が滑るように静かに走り抜けていったのだ。
車体のあちこちにある水晶のような装置が、淡い光を脈打つように放っている。
「あれは……何ですか!? 馬がいないのに、勝手に動いています……!」
興奮気味にハーヴィの腕を引くメルナ。
ハーヴィは絡め合わせた指の力を少しだけ緩め、優しく微笑みながら答えた。
「あれは魔力軌道車だよ。この王都の街灯やあの乗り物はすべて、地下に張り巡らされた大樹の根から送られてくる魔力を動力にして動いているんだ」
「大樹の魔力で……!」
森で原始的な生活をしていたメルナにとって、魔力がただの破壊の力ではなく、人々の生活を便利で豊かにする力として使われている光景はひどく新鮮で感動的だった。
そんなふうに目を輝かせながら通りを歩いていると、すれ違う王都の民衆たちがハーヴィの衣服に刻まれた公爵家の紋章と、メルナの特徴的な淡い青色の髪に気がつき始めた。
(あっ……)
視線が集まるのを感じ、メルナは無意識に肩をこわばらせた。
また化け物と罵られ、石を投げられるのではないか。
その恐怖が蘇り、繋いだ手に思わず力が入る。
――しかし。
「あれは、アリストン公爵様だ。それに、隣にいらっしゃるのは……」
「暴走した供給塔から、私たちを救ってくださった奥様だわ……!」
街の人々は、誰も石など投げなかった。
それどころか彼らは歩みを止め、道を譲るように端へと寄り、次々と胸に手を当てて敬意を込めたお辞儀を始めたのだ。
その眼差しにあるのは、恐怖や蔑みではなく、確かな畏敬と感謝だった。
「ほら。誰も、君を恐れてなんかいないよ」
耳元で囁くハーヴィの声に、メルナはこぼれそうになる涙を必死に堪えた。
自分はもう、化け物じゃない。
この街の人々に受け入れてもらえたのだと、心から実感できた瞬間だった。
足取りも軽くなり、ウィンドウショッピングを楽しむ二人。
美しい宝石や装飾品が並ぶショーウィンドウの前で、メルナが繊細な銀細工の髪飾りを「綺麗だな」と数秒間見つめた、その時だった。
「……あの髪飾りを君に。いや、あのショーケースの段ごと、すべて包ませよう」
「ええっ!? だ、駄目ですハーヴィ様! そんなにたくさん使い切れませんし、一つだけで十分すぎます……っ!」
突然財布の紐を跡形もなく吹き飛ばした公爵を、メルナは慌てて引き止めた。
しかし、ハーヴィは本気で店ごと買い占めかねない真剣な目をしている。
「遠慮しないでほしい。君は今まで、自分の物を何一つ持っていなかっただろう? 君に似合うものは、すべて僕が贈りたいんだ」
「お気持ちだけで胸がいっぱいですから! あ、あっちに綺麗な本屋さんがありますよ、行ってみましょう!」
呆気にとられるランスロットを後目に、メルナは恋人繋ぎをしたままのハーヴィの手をぐいぐいと引っ張って、強引にその場を離れた。
◇
通りを少し進んだ広場の近くで、ふと、メルナの耳に微かな声が届いた。
「……っ、うわぁぁん……っ、おかあさぁん……!」
声の主は人混みの端で一人ぽつんと立ち尽くし、大粒の涙をこぼして泣きじゃくっている小さな男の子だった。
親とはぐれてしまったのだろう。
以前のメルナなら、感情の揺れで魔力が暴走することを恐れ、助けを呼ぶことしかできなかった。
しかし今は、右手にしっかりと絡め合わされたあたたかい手がある。
ハーヴィが隣にいてくれる限り、彼女の魔力は安全に彼の身体を抜けて逃げていくのだ。
メルナは躊躇うことなく子供に歩み寄ると、柔らかなボルドーのワンピースの裾が汚れるのも気にせず、石畳の上にしゃがみ込んで目線を合わせた。
「どうしたの? お母さんとはぐれちゃったのかな?」
「ひぐっ……うぇぇん……!」
泣き止まない子供の小さな頭を、メルナは空いている左手で優しく撫でた。
「大丈夫よ。一緒に探してあげるから、泣かなくてもいいのよ」
春の陽だまりのような、あたたかい声音。
その声の響きと、メルナの慈愛に満ちた朱色の瞳に見つめられ、男の子は次第に落ち着きを取り戻し、しゃくりあげながらもこくりと頷いた。
それから数分後。
泣きそうな顔で広場を駆け回っていた若い母親が、「坊や!」と叫んで男の子を抱きしめた。
「ああ、よかった……! 本当に、何とお礼を申し上げたらよいか……」
母親が顔を上げ、恩人の姿をはっきりと認識した瞬間、ハッと息を呑んだ。
アリストン公爵家の紋章と、王都の危機を救ったと噂の公爵夫人が、自分の子供と目線を合わせてしゃがみ込んでいたからだ。
「こ、公爵夫人であらせられましたか!? も、申し訳ございません、私のような平民の子供のために、お手を煩わせてしまい……っ」
慌てて地面に平伏しようとする母親を、メルナは焦ったように立ち上がって引き止めた。
「どうか顔を上げてください。無事にお母様が見つかって、本当によかったです。これからは、はぐれないようにしっかり手を繋いであげてくださいね」
メルナは飾らない、心からのあたたかい笑顔を向けた。
その一部始終を、ハーヴィは静かに見守っていた。
強大な魔力や、公爵夫人という権力を持つようになっても、彼女の根底にある優しさは何も変わらない。
誰に対しても等しく愛情を注げるその無垢な魂に、ハーヴィは改めて深く心を打たれていた。
◇
夕暮れ時。
西日に照らされた王都を抜ける帰りの馬車の中には、ハーヴィがメルナの制止を振り切って買い与えた数個の可愛らしい紙袋が置かれていた。
「今日は、本当にありがとうございました。こんなにたくさんプレゼントまでいただいて……」
嬉しそうに紙袋を抱きしめるメルナ。
しかし、彼女の朱色の瞳は、買ってもらった品物以上にキラキラと輝いていた。
「でも、私、一番嬉しかったのは……街の人たちが、もう私を怖がらなかったことです。それに、自分の手で小さな子を助けてあげられたことも」
「……そうか」
誇らしげに笑う彼女の顔を見て、ハーヴィの胸に愛おしさが込み上げてくる。
彼は向かいの席から手を伸ばし、今日一日ずっと繋いでいた彼女の小さな手を、再びそっと握りしめた。
「君のその優しさが、みんなに伝わったんだよ。君は今日、とても立派な公爵夫人だった」
「……!」
ハーヴィは身を乗り出すと、照れて俯いたメルナの額に、労うように柔らかな口づけを落とした。
秋の夕日に染まる馬車の中、心地よい揺れと彼のあたたかな体温に包まれながら、メルナは心からの幸せを噛み締めていた。




