11 お土産のフルーツタルト
アリストン公爵家の朝は早い。
大樹の葉の隙間から柔らかな朝日が差し込む頃、本館の一階ではすでに筆頭執事であるオリバーが淀みなく動き始めていた。
「エントランスの百合は、少し花弁が開きすぎていますね。秋の冷気を思わせる、もう少し蕾の固い白薔薇に差し替えてください。それから、本日の旦那様の朝食ですが、昨日の疲労を考慮してスープの塩気をわずかに控えめに」
深い皺が刻まれた顔に、雪のような白髪を隙なく整えた初老の男。
彼の黄緑色の瞳は、屋敷内のあらゆる細部にまで行き届いていた。
磨き上げられた銀食器の曇り一つ、絨毯のわずかな毛羽立ち一つさえ見逃さない。
彼は声を荒げることも、焦った素振りを見せることもなく、ただ的確な指示を短く紡ぐだけで数十人いる使用人たちをまるで手足のように動かしていく。
公爵家という巨大な船が今日も波風一つ立てずに滑らかに進み続けるための、絶対的な要。
それが筆頭執事たるオリバーの仕事だった。
「オリバーさん、おはようございます」
そこへ、少し控えめな足音とともにメルナが階段を降りてきた。
「おはようございます、メルナ様。よくお眠りになれましたか?」
「はい。あの……皆さん朝早くから忙しそうですね。私にも、何かお手伝いできることはありませんか?」
申し訳なさそうに朱色の瞳を瞬かせるメルナに対し、オリバーは静かなお辞儀を返した。
「お心遣い、痛み入ります。ですが、メルナ様はどうかそのままでいらしてください」
「でも、私だけ何もしていないのは……」
「執事や使用人の仕事とは、旦那様が外の責務から解放され、心安らぐ環境を整えることです。そして……奥様が毎日、ただ笑顔で健やかに過ごしてくださることこそが、我々にとっての最大の報酬であり、屋敷が正しく機能しているという証明なのです」
オリバーはそこで言葉を区切り、いつもは無表情に近いその顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「旦那様があのように穏やかなお顔で、心から笑われるようになられたのは……メルナ様がこの屋敷に来てくださってからなのです。代々の過酷な運命に縛られ、ずっと孤独を抱えておいでだった旦那様を、奥様がお救いくださった」
「……!」
「だからこそ、私を含め屋敷の者たちは皆、奥様を心から歓迎し、お慕い申し上げておるのですよ。どうか、この屋敷では何の気兼ねもなく、ありのままの奥様でお過ごしくださいませ」
オリバーの言葉には、どこまでも温かい忠誠と感謝が込められていた。
化け物と忌み嫌われていた自分が、こんなにもあたたかく迎え入れられている。
その事実が胸の奥にじんわりと広がり、メルナは花が咲くようにぱぁっと表情を明るくした。
「……はい。ありがとうございます、オリバーさん」
◇
同じ頃、王都の北部にそびえる王城の執務室では、漆黒の長い髪を一つにまとめた若き公爵が、山積みの書類と向き合っていた。
ハーヴィの仕事は、広大なアリストン公爵領の税収や農地の管理だけではない。
このゼネ・レア王国のインフラ――すなわち、大樹から供給される魔力エネルギーを王都の各区画へどう分配し、安全に運用するかを取り決める魔力管理網の最高責任者としての責務を担っていた。
これまでは大樹の魔力が暴走気味だったためその調整は困難を極めていたが、メルナとの調律が成功した今、供給システムは驚くほど安定している。
「閣下。東区画の魔力軌道車の運行スケジュールですが……」
「現在の出力なら、あと二本は増便できるはずだ。計算式を見直してくれ。それから、第三魔力塔の水晶の摩耗が早い。来月までに予備の調達を」
部下の報告に対し、ハーヴィは灰色の瞳に理知的な光を宿し素早く決断を下していく。
誰もが畏怖する、若く有能な冷徹公爵。
しかし、そんな彼であっても、窓の外がオレンジ色に染まり始める夕暮れ時になると、頭の中の半分以上を家で待つ愛しい妻の姿が占めてしまっていた。
(……今日は、メルナに何を買って帰ろうか)
難しい顔で書類を睨んでいるように見せかけて、ハーヴィの脳内では真剣なスイーツの選定会議が行われていたのだった。
◇
「お帰りなさいませ、ハーヴィ様!」
本館の玄関ホール。
帰宅したハーヴィを出迎えたのは、嬉しそうに小走りで駆け寄ってくるメルナだった。
その淡い青色の髪と、自分を見上げてくれる朱色の瞳を見た瞬間、ハーヴィの纏っていた冷たく張り詰めた空気がまるで春の雪解けのようにふわりと甘く溶けていく。
「ただいま、メルナ。君に、お土産があるんだ」
ハーヴィが上着をオリバーに渡しつつ、手元から取り出したのは淡いピンク色のリボンがかけられた可愛らしい箱だった。
「わあ……! これは?」
「王都の貴族たちの間で、今一番人気があるパティスリーに寄ってきたんだ。さあ、サロンで一緒に食べよう」
二人はあたたかい暖炉の火が揺れるサロンへと移動し、ソファに並んで腰を下ろした。
箱を開けると、中には宝石のように輝く季節の果物をふんだんに使ったタルトが並んでいた。
艶やかな葡萄と、黄金色にキャラメリゼされた林檎が甘い香りを漂わせている。
「すっごく綺麗です……!」
「君の朱色の瞳のほうが綺麗だけどね」
さらりと甘い言葉を落としながら、ハーヴィは銀のフォークで葡萄のタルトを小さく切り分けた。
そしてそのフォークを自分の口へではなく、メルナの小さな唇のすぐ前へと差し出した。
「はい、メルナ。あーんして」
「えっ!?」
予想外の行動に、メルナの肩がびくっと大きく跳ねる。
目の前には、美味しそうなタルト。
そしてその向こうには、灰色の瞳を優しく細め、自分の口が開くのを待っている夫の顔がある。
「あ、あの……わ、私、自分で食べられますから……っ」
「僕が、君に食べさせてあげたいんだ……駄目かい?」
そんなふうに少しだけ寂しそうに小首を傾げられては、メルナに断る術などなかった。
顔を真っ赤に染め上げながら、メルナは恐る恐る口を開き、ハーヴィの差し出したタルトをぱくりと咥えた。
「んっ……!」
――瞬間、サクサクのタルト生地の香ばしさと、新鮮な葡萄の瑞々しい甘さが口いっぱいに広がる。
あまりの美味しさに、恥ずかしさも忘れてメルナの朱色の瞳が大きく見開かれた。
「おいひいです……!」
「ふふ、そうか。よかった」
両手で頬を押さえて幸せそうに笑うメルナを見て、ハーヴィは愛おしくてたまらないというように彼女の髪をそっと撫でた。
政務の疲れなど、この一瞬で綺麗に吹き飛んでしまう。
彼女が美味しそうに食事をする姿を見つめること以上の癒やしなど、彼には存在しなかった。
◇
甘いスイーツで心を満たしたあとは、夕食前の淑女教育の時間だ。
今日の課題は、夜会で必須となる扇子の使い方と優雅な会釈である。
「奥様。扇子はこのように、手首を柔らかく使って広げます。決して力を入れすぎず、優雅に……」
少し離れた場所からジェイミーがお手本を見せるが、メルナの手元はぎこちなかった。
上手くやらなければというプレッシャーから、彼女の指先にほんのわずかな魔力の火花が散り、シャンデリアの灯りがチカチカと点滅し始める。
「あっ、ご、ごめんなさい、私また……っ」
慌てるメルナ。
しかし、次の瞬間には背後から大きな身体がすっぽりと彼女を包み込んでいた。
「大丈夫だよ、メルナ。力を抜いて」
背中から密着するハーヴィのあたたかい体温。
彼が背後から腕を回し、扇子を持つメルナの右手を自らの大きな手でそっと包み込んだ途端、暴走しかけていた魔力がスゥッと彼の身体を抜けて消えていく。
「こうやって、手首の力だけを抜くんだ。僕の動きに合わせて……」
耳元で低く甘い声が囁かれる。
ハーヴィの手に誘導され、メルナの扇子はパサッ、と見事な音を立てて優雅に開いた。
「わあ……開きました……!」
「うん、上手だよ。君は何をしても可愛いな」
褒め言葉とともに、首筋に彼が息をするたびの微かな熱が当たる。
魔力の暴走は防げたものの、至近距離でのバックハグと耳元での囁きに、メルナの心臓は扇子の動きどころではないほど早鐘を打っていた。
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が鳴り、オリバーが銀の盆を持って入室してきた。
「旦那様、奥様。お邪魔いたします。王城より、親書が届いております」
オリバーが差し出したのは、王家の豪奢な蝋封が施された一通の封筒だった。
ハーヴィはメルナから少しだけ身体を離し、手紙を受け取って中身に目を通した。
その灰色の瞳が、わずかに真剣な色を帯びる。
「……王家主催の、秋の戦勝記念夜会の招待状だ。大樹の安定を祝う意味も込められているらしい」
「夜会、ですか……?」
「ああ。ゼネ・レア王国の主要な貴族がすべて集まる、最も大きな公式行事だよ」
その言葉に、メルナの顔色が一気に青ざめた。
「そ、そんな華やかな場所に、私なんかが……っ。マナーもまだ全然できていないのに、もし皆さんの前で粗相をしてしまったり、魔力が暴走してしまったら……っ」
かつて街で石を投げられた記憶が蘇り、小刻みに震え始めたメルナの手を、ハーヴィが力強く握りしめた。
「心配いらないよ、メルナ」
見上げると、そこには一切の迷いもない頼もしい公爵の顔があった。
「当日は、一歩も君のそばを離れない。君が不安になる隙など一秒たりとも与えないし、魔力が暴走しそうになっても、僕が必ずすべて受け止める」
ハーヴィはメルナの手の甲に、誓いのようにそっと口づけを落とした。
「君が世界で一番美しく、僕にとって誰よりも誇り高い妻であることを、僕が証明してみせるよ」
その言葉の強さに、メルナの胸の奥で燻っていた不安が少しずつあたたかな安心感へと変わっていく。
秋の深まりとともに、二人の絆を試す初めての夜会の足音がすぐそこまで近づいていた。




