8 無自覚な誘い
秋の夜の冷気が、火照った肌に心地よい。
メルナは寝室に併設された広いテラスに立ち、石造りの手すりにそっと両手を添えて夜空を見上げていた。
入浴を済ませたばかりの彼女の淡い青色の髪が、通り抜ける夜風に吹かれてさらさらと揺れる。
淑女教育という名のどこか甘くくすぐったい特訓を無事に終えたあとの体は、心地よい疲労感に包まれていた。
見上げた空は高く澄み切っており、まるで宝石箱をひっくり返したかのように無数の星々が瞬いていた。
そして、その星空の海を統べるように紅い月と蒼い月が並んで浮かんでいる。
二つの月は少しだけ距離を置きながらも、互いに寄り添うようにして静かな光を地上へと降り注いでいた。
赤と青の対照的で美しい月明かりが、メルナの白い肌を幻想的に照らし出す。
「――夜は冷えるよ」
ふいに、背後から穏やかな声が響いた。
振り返るよりも早く、ふわりとあたたかいものが肩を包み込む。
それは、ハーヴィが身にまとっていた彼自身のガウンだった。
上質な布地からは彼特有の落ち着く香りと、つい先ほどまで彼が羽織っていた確かな体温が伝わってくる。
「ハーヴィ様……」
「湯冷めしてしまう。さあ、部屋においで」
少しだけ冷たくなったメルナの頬にそっと触れ、ハーヴィは優しい声で室内へと促した。
彼に肩を抱かれるようにして、メルナはあたたかな光が灯る部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中央には暖炉があり、パチパチと心地よい音を立てて薪が燃えている。
炎のあたたかなオレンジ色の光が、部屋全体を優しく包み込んでいた。
二人はゆったりとした大きなソファに並んで腰を下ろした。
サイドテーブルには、湯気を立てるあたたかい飲み物が二つ用意されている。
甘い香りのするミルクティーを両手で包み込むように持ち、メルナはほっと息をついた。
そんな彼女の横顔を、ハーヴィは灰色の瞳で静かに見つめていた。
やがて、彼はぽつりと問いかける。
「……ずっと、不思議に思っていたんだ」
「不思議に、ですか?」
メルナが小首を傾げると、ハーヴィは言葉を選ぶように少し間を置いてから続けた。
「君の魔力についてだよ。大樹の調律すら、君はたった一人でやすやすとこなしてしまう。それは、通常では考えられないほど規格外の力だ。ご家族の中に、誰かそれほどまでに強い魔力を持った方がいたのかい?」
その問いに、メルナはカップを持ったまま少しだけ視線を落とした。
朱色の瞳に、かすかな悲哀の色が揺れる。
「いいえ……父は、魔力はそれほど強くありません。それに、母も……ほんの少ししか魔力を持っていなかったと聞いています」
暖炉の火を見つめるようにしながら、メルナは静かに過去を紡ぎ出す。
「だから……私との魔力差に、母の体が耐えきれなかったんです」
ぽつり、と落ちた言葉はどこか震えていた。
「私を出産してすぐに……母は亡くなったと、父から聞いています。私が、強すぎる力を持っていたせいで……」
自分を生んだせいで、母の命を奪ってしまった。
その重い罪悪感が、ずっとメルナの胸の奥底に張り付いている。
俯くメルナの手からカップをそっと取り上げテーブルに置くと、ハーヴィは彼女の冷たくなった両手を自身の大きな両手で優しく包み込んだ。
「……辛いことを話させてしまって、すまない」
痛ましげに眉を下げる彼の手のひらから、じんわりとあたたかな熱が伝わってくる。
「謝らないでください、ハーヴィ様。私は……」
それ以上言葉を続けることができず、メルナはただ彼の手のぬくもりにすがるように、きゅっと指先を握り返した。
「……君のお母上は、君を生むことを選んだ。その選択を、君が否定する必要はないよ」
メルナはしばらく、その言葉を胸の中で転がし込む。
(……選択を、否定する必要は……)
答えは出なかった。
でも、長い間ずっと胸の奥で固く結ばれていた何かが、ほんの少しだけほどけた気がする。
メルナはこぼれそうになる涙をこらえ、静かに一度だけ頷いた。
◇
パチパチと爆ぜる薪の音だけが、静かな部屋に響く。
それは決して気まずいものではなく、互いを思いやる穏やかで優しい沈黙だった。
しばらくして心が落ち着きを取り戻し始めると、メルナは不意にあることを思い出した。
ジェイミーから教えられた、夫婦としての大切な日課のことだ。
彼女の中でそれは、ごく自然なスキンシップの一環としてすっかり認識されてしまっている。
メルナはもじもじと身をよじり、どこか落ち着かない様子でハーヴィを見上げた。
その朱色の瞳が、無防備に彼を射抜く。
「あの……ハーヴィ様」
「なんだい?」
優しく応えるハーヴィに対し、メルナは頬をほんのりと赤らめながら、純真無垢な表情で問いかけた。
「今夜は……その、お役目はないのですか……?」
ぴたり、とハーヴィの動きが止まった。
彼の頭の中で、何かがプツンと音を立てて切れるのがわかった。
お役目という言葉が持つ本当の甘く危険な響きを、目の前の愛らしい妻は全く理解していない。
そのあまりにも無自覚で、無防備すぎる上目遣い。
そして、自分を求めてくれているという事実が、ハーヴィが必死に保っていた理性の堤防をあっさりと決壊させた。
「……っ、君という人は、本当に……っ」
ハーヴィは耳の先まで真っ赤に染め上げ、低く掠れた声で呻いた。
次の瞬間、メルナの肩は力強い手つきで引き寄せられていた。
「え……っ、ハーヴ――」
驚きに目を見開いたメルナの唇を、ハーヴィのそれが塞ぐ。
初夜の時の、ただ触れるだけのキスではない。
今度はもう少しだけ長く、甘く、そして確かな熱を帯びた口づけだった。
戸惑うメルナの唇を優しく食み、角度を変えて何度も重ねられる。
息が詰まるほどの甘い熱に当てられ、メルナは抵抗する術を持たなかった。
次第に力が抜けていく彼女の体を、ハーヴィの逞しい腕がしっかりと抱きとめる。
彼から伝わってくる深くて甘い愛情の波に呑み込まれそうになりながら、メルナはそっと目を閉じ、ただ彼の優しさに身を委ねた。
◇
翌朝。
澄み切った秋晴れの空の下、王都の美しい街並みを一台の豪奢な馬車が進んでいた。
昨夜の甘い余韻を引きずりながらも、ハーヴィの提案によりメルナは王都にある療養施設へと向かっていた。
そこに滞在している父――カミロを見舞うためだ。
立派な門構えの施設に到着し、案内された日当たりの良い個室の扉を開けると、そこには以前とは見違えるような父の姿があった。
「お父さん……!」
「おお、メルナ……!」
ベッドから体を起こしたカミロは、焦げ茶色の瞳を大きく見開いた。
白髪交じりの頭髪は綺麗に整えられ、以前着ていた粗末な服とは違う、上等で清潔な衣服を身にまとっている。
痩せこけていた頬には赤みがさし、顔色もすっかり良くなっていた。
カミロは、部屋に入ってきた娘の姿を見て言葉を失った。
上質な生地で仕立てられた公爵夫人としての美しいドレス。
そして何より見違えるほど艶やかになった髪と、幸せに満ち溢れた輝くような笑顔。
「メルナ……お前、本当に綺麗になって……」
カミロの焦げ茶色の瞳から、とめどなく涙が溢れ出した。
娘がどれほど過酷な環境にいたかを知っているからこそ、今の彼女の幸せそうな姿が何よりも嬉しかったのだ。
「お父さんこそ、顔色が良くなって本当に安心したわ。元気になって本当によかった……!」
メルナもまた、涙ぐみながら父の無事を心から喜んだ。
カミロは涙を拭いながら、メルナの後ろに立つハーヴィへと視線を向けた。
馬車を降りる際も、施設内の階段を上る際も、ハーヴィはとても自然な動作でメルナの手を引きエスコートしていた。
そして今もメルナを見つめる彼の灰色の瞳には、隠しきれないほどの深く優しい愛情が満ちている。
カミロには、それが痛いほどよくわかった。
目の前の若き公爵が、自分の娘をどれほど大切に心から愛してくれているかが。
カミロはベッドから降りると、不自由のない体で深々と頭を下げた。
「公爵様……娘を……メルナを救い出していただき、本当にありがとうございます。どうか……どうか、末長くよろしくお願いいたします」
その声は震え、深い感謝の念が込められていた。
「頭を上げてください、お義父上。私の方こそ、メルナという素晴らしい女性と出会えたことに感謝しているのです。それに、もう一つお伝えしておきたいことがあります」
ハーヴィの穏やかな声に、カミロがゆっくりと顔を上げる。
「メルナはもう、大樹の調律のために己の命を削る必要はなくなりました。彼女は今、安全に魔力を制御できています。これからは人並みに、寿命を全うすることができるのです」
「……本当、ですか?」
カミロは信じられないというように目を丸くし、それから安堵のあまり顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
娘が短命の宿命から解放されたという事実は、彼にとって何よりも大きな救いだった。
「ああ……よかった。本当によかった……っ!」
「お父さん、今まで心配かけてごめんなさい。私、今はとっても幸せよ」
メルナは父の背中を優しくさすりながら、心からの笑顔を向けた。
「彼女のことは、私の生涯をかけて必ず守り抜きます」
ハーヴィの力強い言葉に、カミロは涙を流しながら何度も何度も頷いた。
「……ありがとうございます、ハーヴィ様」
メルナはハーヴィを見上げ、心からの感謝と愛情を込めて微笑んだ。
あたたかい陽射しが差し込む部屋の中には、確かな家族の絆と、これ以上ないほどの幸せな時間が流れていた。




