7 公爵夫人の試練
アリストン公爵家の本館に、穏やかで明るい朝の光が差し込んでいた。
昨夜の大樹の調律という過酷な初陣を終え、ぐっすりと眠ったメルナはハーヴィと共に本館の執務室へと向かっていた。
目的は、筆頭執事であるオリバーへの結果報告だ。
「オリバー。報告が遅れたが、昨夜の大樹の調律は無事に成功したよ。魔力の循環は完全に安定した」
執務机越しに報告を受けたオリバーは、いつもの隙なく整えられた白髪と深い皺が刻まれた無表情な顔をわずかに崩した。
そして執務室の床に膝をつき、メルナに向かって深く、長く頭を下げた。
「メルナ様。旦那様を、そしてこの世界を救うため、ご自身の命を削るという過酷な役目をお引き受けいただき、誠にありがとうございます。アリストン家に代わり、深く御礼と……そして、お詫びを申し上げます」
その声には若き少女の寿命を犠牲にしてしまったことへの、深い悲痛と罪悪感が滲んでいた。
しかし、頭を下げられたメルナは朱色の瞳を丸くしてぱちぱちと瞬きをした。
「えっ、あ、頭を上げてください、オリバーさん! それに……命を削るだなんて、私、そんなこと全然ありませんでしたけど……?」
「……は?」
予想外の返答に、オリバーが間の抜けた声を上げて顔を上げる。
その様子を見て、ハーヴィは小さく苦笑しながら口を開いた。
「オリバー、君はまだ勘違いしているようだな。歴代の当主たちは大樹の暴れる魔力を自らの力で無理やり変換し、内に抑え込もうとしたから命を削られたんだ。だが、今回は違う」
「違う、とは……?」
「大樹に本来必要だったのは、溜め込むことではなく外へ逃がすことだったんだ。メルナの圧倒的な魔力で大樹の力を押し出し、魔力を持たない僕の空っぽの身体を通ってすべて大気へと還元された」
ハーヴィは、隣に立つメルナの肩をそっと引き寄せた。
「メルナの力と、僕の流す体質が見事に噛み合ったんだよ。つまり……これからの調律で、彼女も僕も、もう誰も命を削る必要はなくなったんだ」
その真実を聞かされた瞬間。
長年、歴代の当主たちが血を吐いて死んでいくのを一番近くで見届けてきたオリバーの瞳が大きく見開かれ、やがて感極まったように微かに潤んだ。
「……誰も、犠牲にならない。アリストン家に、そしてこのゼネ・レア王国に、数百年ぶりの真の希望がもたらされたのですね。なんという、奇跡か……」
再び深く頭を下げるオリバーに、メルナは慌てて手を振った。
「わ、私の方こそ、ハーヴィ様がいなかったら魔力が暴走して大変なことになっていましたから……っ。奇跡だなんて、そんな立派なものじゃありません」
「いや、僕の魔力酔いが酷いのが最大の難点だけどね。昨日は自室に戻るなり倒れ込んでしまった」
ハーヴィが肩をすくめると、オリバーは安堵の息を長く吐き出し、いつもの有能な執事の顔へと戻った。
「本当に、重畳でございます。ところで、旦那様」
スッ、とオリバーの姿勢が一段と真っ直ぐになり、その黄緑色の瞳が極めて真面目な光を帯びた。
「昨晩の、もう一つの初のお役目のほうも、滞りなく成功なさいましたか?」
「ぶっ!?」
いきなりの直球すぎる問いかけに、ハーヴィは思わず変な声を出してむせ返った。
一気に顔を赤くし、灰色の瞳を泳がせながらオリバーを睨みつける。
「そ、そっちはまだだ! 彼女は先日まで森で過酷な生活をしていたんだぞ。いくらなんでも順序というものがあるだろう!」
「ほう。では、何も?」
「なにも、ってわけじゃ……その、少しだけ……」
しどろもどろになるハーヴィの横で、二人の会話の意図をまったく理解していないメルナが、朱色の瞳をぱちぱちと瞬かせながら純真無垢に口を開いた。
「お役目、チュッてしてすぐ終わりましたよ? ハーヴィ様、とってもお優しかったです」
「メ、メルナ!? それは言わなくていい!!」
顔から火を噴きそうになりながら頭を抱えるハーヴィ。
その対面で、オリバーは「……チュッ、ですか。なるほど」と呟き、これ以上ないほど深くて重い溜め息をついた。
「当主様は存外、奥手であらせられる。アリストン家の未来の跡継ぎの顔が見られるのは、まだまだ先になりそうですね」
「オリバー!!」
本館の執務室に、公爵の情けない叫び声が響き渡った。
◇
「さあさあ、朝食の準備が整いましたよ。本日はお二人とも、いつも以上にしっかりと召し上がってくださいませ」
食堂へ移動した二人を待っていたのは、侍女長ジェイミーが満面の笑みで用意した素晴らしい朝食の数々だった。
テーブルの中央には、色鮮やかで新鮮な野菜のサラダが盛られている。
メルナの目の前に置かれた銀の皿には、ナイフを入れるととろりと半熟の卵が溢れ出す、見事なまでにふわふわのオムレツ。
その横には、パリッと肉汁が弾ける香ばしいソーセージが添えられていた。
「わあ……っ、すっごくふわふわです!」
オムレツを一口食べたメルナは、朱色の瞳をきらきらと輝かせ両手で頬を押さえた。
ジェイミーはその愛らしい反応に、瞳を細めて「ええ、料理長が腕によりをかけましたからね」と嬉しそうに頷く。
「こちらのパンも、冷めないうちにどうぞ」
籠に盛られていたのは、王都の流行りだという三日月型のパン――焼き立てのクロワッサンだった。
メルナはそれを両手でたいせつそうに持ち、サクッ、と音を立てて頬張る。
バターの芳醇な香りと何層にも重なった薄い生地のサクサクとした食感に、メルナは「んんっ」と幸せそうな声を漏らした。
先日までの極貧生活からは考えられない、豊かで美味しい食事。
食べるごとに、心がぽかぽかと温まっていく。
しかし、クロワッサンの生地があまりにもサクサクだったため、メルナの口の端には小さなパンの欠片がいくつかひっついてしまっていた。
「メルナ、口元についているよ」
「えっ、あ、どこですか……っ」
慌てて指で口の周りを拭おうとするメルナの手を、ハーヴィが「動かないで」と優しく制止した。
彼は身を乗り出し、長い指先でメルナの唇の端についたサクサクの欠片をそっとすくい取るように拭ってやる。
触れた指先の体温に、メルナは昨日ベッドの上で口づけをされたことを思い出し、ぽんっと顔を赤くした。
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして。美味しいかい?」
「はいっ、とっても!」
とろけるような甘い空気を漂わせる公爵夫妻を前に、壁際に控えていたジェイミーは「まあまあ」と頬に手を当て、非常に満足げな笑みを浮かべていた。
◇
和やかな朝食が終わり、食後の紅茶を楽しんでいる最中。
ジェイミーが少しだけ真面目な顔つきになって、二人に切り出した。
「メルナ様がアリストン公爵家の正式な奥様となられたからには、いずれ王城でのお茶会や夜会で他家の貴族たちへのお披露目が必要となります」
「お、お披露目、ですか……?」
「はい。それに備え、本日から王都より招いた専門の講師による淑女教育を受けていただきます」
貴族の礼儀作法、歩き方、お茶の淹れ方やダンスのステップ。
平民として育ってきたメルナには、それらを一から学ぶための試練が必要だった。
「だ、大丈夫でしょうか……私、マナーなんて何も知らなくて……」
途端に不安そうに眉を下げるメルナに、ジェイミーは優しく微笑む。
「ご心配には及びません。非常に優秀な講師を呼んでおりますから。ただ、一つだけ懸念事項がございまして」
「懸念事項?」
ハーヴィが怪訝そうに尋ねると、ジェイミーはメルナの手元をちらりと見た。
「奥様は、緊張なさったり不安を感じられたりすると、無意識に魔力が暴走してしまう体質でいらっしゃいます。マナーのレッスン中、ティーカップを割ってしまったり、最悪の場合、お部屋を吹き飛ばしてしまったりする危険性が……」
「ああっ……!」
メルナは青ざめて立ち上がった。
そうだ。
大樹の調律の時はハーヴィが魔力を逃がしてくれたからよかったものの、日常のふとした瞬間に緊張してしまえばまた昔のように周りのものを壊してしまう。
「どうしよう……私、マナーの先生を怪我させてしまうかもしれません……っ」
「落ち着いて、メルナ」
パニックになりかけたメルナの手を、ハーヴィがしっかりと握りしめた。
途端に彼女の中に渦巻き始めた魔力の熱が、彼という空っぽの器を通ってすーっと外へと逃げていく。
呼吸が落ち着き、メルナはホッと息を吐いた。
「……なるほど。そういうことなら、解決策は一つしかないな」
「えっ?」
ハーヴィはメルナの手を握ったまま、灰色の瞳に真剣な光を宿して立ち上がった。
「マナーの特訓中は僕がずっとこうして君の手を握り、横にぴったりくっついている。そうすれば、君がどれだけ緊張して魔力を暴走させても、僕がすべて外へ逃がして安全を確保できるからね」
「ハ、ハーヴィ様!? でも、それじゃあお仕事が……!」
「妻の身の安全を守る以上の仕事なんてないさ。それに、君が厳しい講師に怒られて泣いてしまうんじゃないかと、僕も心配だったからちょうどいい」
公爵の堂々たる過保護宣言に、ジェイミーは呆れたようにくすくすと笑った。
そして、数十分後。
本館の広い客間に、王都から呼ばれた厳格そうな初老の女性講師が到着した。
彼女は背筋をピンと伸ばし、手にした扇子で「さあ、まずは美しい立ち姿と、ティーカップの持ち方から始めますわよ」と厳しく宣言した。
しかし、その光景はあまりにも異様だった。
「……あの、ハーヴィ様。これ、やっぱり少し変じゃないでしょうか」
「気にするな。前を見て、メルナ」
淑女の練習をするメルナの左手は、隣に立つハーヴィの右手と、指を絡めるようにしっかりと握られていたのだ。
メルナが右手だけでプルプルと震えながらティーカップを持ち上げようとするたび、彼女の緊張から生じた魔力の火花がバチッと散りかける。
その瞬間、すかさずハーヴィが繋いだ手を通じて魔力をスゥッと抜き取り、「うん、上手だよ」と至近距離で甘く囁きかける。
「は、はいっ……!」
顔を真っ赤にしながらカップを口元に運ぶメルナ。
その隣で片時も離れず、愛おしそうに妻を見つめ続ける公爵。
「さ、次は歩き方の練習ですわよ。背筋を伸ばして、優雅に……」
講師が声をかけると、二人は手を繋いだまま、まるでピクニックに出かける子供のように並んでトコトコと歩き始めた。
その様子は真面目な淑女教育というよりも、ただの極甘な新婚夫婦のイチャイチャ空間でしかなかった。
「……っ」
厳格で知られるはずの講師は、扇子で口元を覆い隠し、必死に肩を震わせていた。
怒っているのではない。
真面目な顔をして手を繋いで歩く二人の姿があまりにも微笑ましく、そして公爵の過保護っぷりがあまりにも面白くて、吹き出してしまうのを必死に堪えているのだ。
(ああもう、なんて可愛らしいご夫婦なのかしら……っ! これでは私が悪役みたいじゃないの!)
講師は扇子の裏で口角を限界まで引き上げながら、「も、もう少し歩幅を小さく! 公爵閣下は少し離れて……いえ、離れられないのでしたわね、ご立派ですわ!」と、声の震えを隠しながら指導を続けるのだった。
大樹の根元にある本館には、魔力の暴走音ではなく、あたたかく平和な笑い声がいつまでも響き渡っていた。




